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第五章 豊穣
48 世界は一変する、かもしれない
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就職してから三回目の給料をもらうと、吾郎くんは私をとある小洒落たレストランへと連れて行った。
慣れない電話をして初めての予約をして、それだけでもその成長っぷりと頑張って人間社会に馴染もうとする努力に、私の涙腺は崩壊寸前だった。それなのに、一通り食事を済ませてデザートでも頼もうかと話していたら、突然床に片膝をついて私の手を取り、「結婚して下さい!」と泣きそうな顔で言われた時の衝撃と言ったら。
あれはもう、言葉では言い表せない。自分がプロポーズされる未来を思い描いていなかった私の涙腺は、その瞬間完全に崩壊した。
それにしても、結婚という概念をまだきちんと教えていなかったのにも関わらず、どうしてこんなことが計画出来たのか。脳裏にポンポンと出てきた顔は、母と山崎さんのものだった。まあ大体この予想で間違っていないだろう。
差し出された小さな箱の中に入っていたのは、紫色の石がついた婚約指輪だった。自分の目の色に合わせてくるあたりがその独占欲の強さを表しているけど、別に悪い訳じゃない。ちなみに、指のサイズは私が寝ている間にこっそり細めの根っこを指に巻いて確認していたというから驚きだ。
泣いて泣いてもう涙が止まらなくて嗚咽が酷いことになった私に、吾郎くんは泣き止ませようと手のひらにポンと花を咲かせた。誰かに見られていないかと私が大慌てで摘み取ると、私が嬉しくて摘み取ったと思ったのか、次から次へとポンポンと色んな花を出してしまい、慌てて摘み取っている内に私と吾郎くんの足許は花だらけになってしまった。
店員さん達が、これは一体どこから出してきたものなのかと目を点にしていたのも、今となっては懐かしい思い出だ。尚、その時の最初の花は、栞にして取っておいてある。
私達の結婚式は、聖域で行なわれた。事情を知る母と山崎さんだけが招かれると、聖域には花が咲き乱れ、人の形をした根が祝いの花びらを降らせてくれた。その中には、きっと父の姿もあったのだろう。だけど、遠くて顔までは見えなかった。
山崎さんに言われた様なことは禁止、とずっと言い渡されていた吾郎くんは、ひたすら待った。軽いキスまでは自分がした手前許可したけど、それ以上は禁止した。何故か。
どうしたらいいかが分からなかったからだ。そしてその禁止条例は、結婚式が終わった初夜直前まで効力を発揮した。お前は鬼か、と母に言われた記憶も、今となっては……懐かしいのだろうか。ちなみに、私以上に知識を蓄えていた吾郎くんに任せたら、何とかなった。
折角働き始めたばかりで、すぐには辞めたくない。ということで、私は避妊することを主張した。でも、人間、いや片方はマンドラゴラだけど、つい「まあいっか」となってしまう瞬間はあるものだ。
ある暑い夏の日に、キンキンに冷やしたビールをちょっと飲み過ぎた。飲み慣れない私は当然酔っ払う。吾郎くんは、正直言って分からない。だけど、多分そんなに酔っていなかったと思う。
そしてその一回で出来たのが、このお腹に宿る新しい命なのだ。豊穣、かくあるべしだ。
「美空、車持ってきたよ」
再び現れた吾郎くんが、穏やかな笑みを浮かべながらカフェに入ってきた。
「遠藤さん、じゃあまた連絡するね!」
「うん! 私もする!」
「遠藤さん、お疲れ様です」
「はい、秋野さんも」
遠藤さんに手を振ると、私は吾郎くんがドアを開けて待つ車へと乗り込んだ。そう、吾郎くんは秋野吾郎くんになったのだ。代々脈々と受け継がれてきた根子神様の血が宿る秋野家の名前を、私の代でなくしてしまうのは惜しかった。山崎という苗字は完全にその時の利便性を考えて付けた物だったので、誰にも拘りはないので、一切問題はなかった。
遠藤さんの義理のご両親であり吾郎くんと私の雇い主でもある皆さんにご挨拶を済ますと、私達は聖域近くにある秋野家へと戻る。
「美空、お腹は大丈夫?」
すっかり運転姿が様になった吾郎くんが、心配そうに尋ねた。心配性で不安症なのは、前から変わっていない。吾郎くんは、もうずっと常に私のことを気遣ってくれているし、この先もきっと皺くちゃになるまでこれは変わらないだろう。
「うん。今は平気だよ」
「そっか。……ねえ、女の子かな、男の子かな」
吾郎くんが楽しそうに聞く。どちらでも構わないけど、吾郎くんに似てたらいいな、そう思った。
「あ、そうだ」
「どうしたの?」
思い出した様に言う吾郎くんに、問い返す。返ってきたのは、とんでもない提案だった。
「これからも、沢山子供増えるでしょ? お金もかかるだろうから、聖域でいっぱい野菜を育てない? あそこなら、何もしなくても沢山採れるよ」
まず、子供が沢山増えるという言葉。まだ一人目も生まれていないのに、一体何人仕込むつもりか。そして。
「聖域はね、ご先祖様が眠ってるでしょ……?」
「そんなの、どこ掘っても誰かしら眠ってるよ」
こういうところは、吾郎くんらしさが満載だ。達観していると言うか、元が植物だからか。可笑しくなって、つい頬が緩む。
「栄養たっぷりだし」
「こら」
確かに栄養はたっぷりだ。マンドラゴラの王様を育てるだけの土壌が、そこにはあるのだから。
今度こそ、私は笑いが止まらなくなった。そんな私を、吾郎くんは相変わらず優しい眼差しでにこにこと見守る。
地球上では、毎日何かが生まれ、生き、そして死んでいっては他の生き物の糧となっている。そのことを生まれる前から理解している吾郎くんは、だから生を精一杯楽しむことに熱心だ。
それでも、これまで覇気がないと言われ続けた私を伴侶に選び、ゆっくりとしたペースの私の横でいつまでも待ってくれている。
ほら、どうだ。こんな私でも、一風変わってるかもしれないけど、ちゃんと今私は幸せだと言うことが出来る様になったじゃないか。
人と同じでなくていい。そんなこと、初めから無理だったのだ。
そして、縁はどこでどう繋がっているかなんて分からないものだ。縁があっても知らないままで終わることもあるだろうし、縁がなくてもいずれは繋がることだってある。
だから、もしあの時の私の様に前に進めずにいる人に出会うことがあったら、伝えたい。
ちょっとでも興味があると思うことがあったら。少しでも、今踏んでしまったものは何だったのかな、そう思ったら。
その葉をめくり、好奇心の元を是非見てみて欲しい。
そこから、もしかしたら世界は一変するかもしれないから。
慣れない電話をして初めての予約をして、それだけでもその成長っぷりと頑張って人間社会に馴染もうとする努力に、私の涙腺は崩壊寸前だった。それなのに、一通り食事を済ませてデザートでも頼もうかと話していたら、突然床に片膝をついて私の手を取り、「結婚して下さい!」と泣きそうな顔で言われた時の衝撃と言ったら。
あれはもう、言葉では言い表せない。自分がプロポーズされる未来を思い描いていなかった私の涙腺は、その瞬間完全に崩壊した。
それにしても、結婚という概念をまだきちんと教えていなかったのにも関わらず、どうしてこんなことが計画出来たのか。脳裏にポンポンと出てきた顔は、母と山崎さんのものだった。まあ大体この予想で間違っていないだろう。
差し出された小さな箱の中に入っていたのは、紫色の石がついた婚約指輪だった。自分の目の色に合わせてくるあたりがその独占欲の強さを表しているけど、別に悪い訳じゃない。ちなみに、指のサイズは私が寝ている間にこっそり細めの根っこを指に巻いて確認していたというから驚きだ。
泣いて泣いてもう涙が止まらなくて嗚咽が酷いことになった私に、吾郎くんは泣き止ませようと手のひらにポンと花を咲かせた。誰かに見られていないかと私が大慌てで摘み取ると、私が嬉しくて摘み取ったと思ったのか、次から次へとポンポンと色んな花を出してしまい、慌てて摘み取っている内に私と吾郎くんの足許は花だらけになってしまった。
店員さん達が、これは一体どこから出してきたものなのかと目を点にしていたのも、今となっては懐かしい思い出だ。尚、その時の最初の花は、栞にして取っておいてある。
私達の結婚式は、聖域で行なわれた。事情を知る母と山崎さんだけが招かれると、聖域には花が咲き乱れ、人の形をした根が祝いの花びらを降らせてくれた。その中には、きっと父の姿もあったのだろう。だけど、遠くて顔までは見えなかった。
山崎さんに言われた様なことは禁止、とずっと言い渡されていた吾郎くんは、ひたすら待った。軽いキスまでは自分がした手前許可したけど、それ以上は禁止した。何故か。
どうしたらいいかが分からなかったからだ。そしてその禁止条例は、結婚式が終わった初夜直前まで効力を発揮した。お前は鬼か、と母に言われた記憶も、今となっては……懐かしいのだろうか。ちなみに、私以上に知識を蓄えていた吾郎くんに任せたら、何とかなった。
折角働き始めたばかりで、すぐには辞めたくない。ということで、私は避妊することを主張した。でも、人間、いや片方はマンドラゴラだけど、つい「まあいっか」となってしまう瞬間はあるものだ。
ある暑い夏の日に、キンキンに冷やしたビールをちょっと飲み過ぎた。飲み慣れない私は当然酔っ払う。吾郎くんは、正直言って分からない。だけど、多分そんなに酔っていなかったと思う。
そしてその一回で出来たのが、このお腹に宿る新しい命なのだ。豊穣、かくあるべしだ。
「美空、車持ってきたよ」
再び現れた吾郎くんが、穏やかな笑みを浮かべながらカフェに入ってきた。
「遠藤さん、じゃあまた連絡するね!」
「うん! 私もする!」
「遠藤さん、お疲れ様です」
「はい、秋野さんも」
遠藤さんに手を振ると、私は吾郎くんがドアを開けて待つ車へと乗り込んだ。そう、吾郎くんは秋野吾郎くんになったのだ。代々脈々と受け継がれてきた根子神様の血が宿る秋野家の名前を、私の代でなくしてしまうのは惜しかった。山崎という苗字は完全にその時の利便性を考えて付けた物だったので、誰にも拘りはないので、一切問題はなかった。
遠藤さんの義理のご両親であり吾郎くんと私の雇い主でもある皆さんにご挨拶を済ますと、私達は聖域近くにある秋野家へと戻る。
「美空、お腹は大丈夫?」
すっかり運転姿が様になった吾郎くんが、心配そうに尋ねた。心配性で不安症なのは、前から変わっていない。吾郎くんは、もうずっと常に私のことを気遣ってくれているし、この先もきっと皺くちゃになるまでこれは変わらないだろう。
「うん。今は平気だよ」
「そっか。……ねえ、女の子かな、男の子かな」
吾郎くんが楽しそうに聞く。どちらでも構わないけど、吾郎くんに似てたらいいな、そう思った。
「あ、そうだ」
「どうしたの?」
思い出した様に言う吾郎くんに、問い返す。返ってきたのは、とんでもない提案だった。
「これからも、沢山子供増えるでしょ? お金もかかるだろうから、聖域でいっぱい野菜を育てない? あそこなら、何もしなくても沢山採れるよ」
まず、子供が沢山増えるという言葉。まだ一人目も生まれていないのに、一体何人仕込むつもりか。そして。
「聖域はね、ご先祖様が眠ってるでしょ……?」
「そんなの、どこ掘っても誰かしら眠ってるよ」
こういうところは、吾郎くんらしさが満載だ。達観していると言うか、元が植物だからか。可笑しくなって、つい頬が緩む。
「栄養たっぷりだし」
「こら」
確かに栄養はたっぷりだ。マンドラゴラの王様を育てるだけの土壌が、そこにはあるのだから。
今度こそ、私は笑いが止まらなくなった。そんな私を、吾郎くんは相変わらず優しい眼差しでにこにこと見守る。
地球上では、毎日何かが生まれ、生き、そして死んでいっては他の生き物の糧となっている。そのことを生まれる前から理解している吾郎くんは、だから生を精一杯楽しむことに熱心だ。
それでも、これまで覇気がないと言われ続けた私を伴侶に選び、ゆっくりとしたペースの私の横でいつまでも待ってくれている。
ほら、どうだ。こんな私でも、一風変わってるかもしれないけど、ちゃんと今私は幸せだと言うことが出来る様になったじゃないか。
人と同じでなくていい。そんなこと、初めから無理だったのだ。
そして、縁はどこでどう繋がっているかなんて分からないものだ。縁があっても知らないままで終わることもあるだろうし、縁がなくてもいずれは繋がることだってある。
だから、もしあの時の私の様に前に進めずにいる人に出会うことがあったら、伝えたい。
ちょっとでも興味があると思うことがあったら。少しでも、今踏んでしまったものは何だったのかな、そう思ったら。
その葉をめくり、好奇心の元を是非見てみて欲しい。
そこから、もしかしたら世界は一変するかもしれないから。
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