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第一章 観察日記
4 植物くんの観察開始
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『十月三日 晴れ 健康状態◎ 昨日は瞼までだった高さが、鼻の頭まで成長。耳もあるが、中に土が詰まっている。今日は植物くんの掃除をしていこうと思う』
「――よし」
簡素だけど、読み返した時にどういう状況であったかはこれで十分理解出来る。満足してノートと筆記用具をリュックにしまうと、代わりに持参してきた物を取り出した。
リュックに詰めてきたのは、プラスチックの桶、ペットボトルに詰めた水道水、そして雑巾だ。全てを拭くことは出来ないかもしれないけど、せめて顔だけでも綺麗にしてあげたらもしかしたらこの目が開くんじゃないか。そんな期待を胸に抱きつつ、トポトポと桶に水を注ぐ。
本当に目が開いたらどうしようと一瞬だけ考えたけど、考えても未知のこと過ぎて想像が出来ない。そこの考察は早々に諦めると、成り行きに任せることにした。雑巾を浸して搾り、まずは上から順番に拭いていく。
冷たい雑巾を額に当てると、植物くんがぴくりと反応して葉が大きく揺れた。
「わっ」
突然のことに驚いたけど、暫く待ってもそれ以上の反応はない。この様子から推測するに、植物くんはまだ目覚めの段階にはなく、微睡んでいるのでは。寝ているところに冷たい物を当てられたので、生理的に反応しただけかもしれない。いずれ目覚めの段階が来るかどうかもあやふやだけど。
「拭いていくねー」
もし耳で聞けるにしても土が詰まっているから殆ど聞こえないだろうけど、そもそも耳としての機能を保有しているのかも謎だ。とにかくこれは、明日にでも耳かきをしてあげよう。今日はとりあえず、目を開けた時に土が落ちない様にする。目を開けることがあるかどうかも不明だけど。
何もかもが分からないことだらけだ。でも、植物くんの穏やかな寝顔――これが寝ているのならば――を見ている限り、特段危険は感じない。私のこの直感がどこまで信用出来るのかも定かじゃないけど、植物くんを見ていると穏やかな気持ちになれた。昨日もここで昼寝をしてしまったので、この人の前ではもう二度も昼寝をしている。これが安心していると言わず何と言うのか。
髪の毛に付着した泥を、雑巾に挟み込む様にして拭いていく。髪の毛は、どこも十センチ程度の長さだ。真っ直ぐなそれには光沢があり、手で触れると肌の上を水の様に流れていった。下の方の髪の毛は、まだ土に埋もれている。指で少し地面をほじくってみると、やはり先は根に変わっていた。
このことから察するに、植物くんの人間的な部分は地上から出た部分だけ。地面の下は、異様に枝分かれをして網目の様になっている根があるだけなのかもしれない。人間の部分は茎の様なものか。
――これに近い植物の話を、どこかで聞いた様な。
思考をすると手が止まる。植物くんの髪の毛を雑巾で挟んだまま停止していた私は、ハッと気付くと泥色に変わった雑巾を桶の水でジャブジャブと洗った。泥水を少し離れた場所に撒く。新たに綺麗な水を桶に注ぎ、もう一度雑巾を絞る。いよいよ顔を本格的に拭く時がきた。
「さ……触るからね」
思わず声が震える。生まれてこの方、家族以外の異性の顔にまともに触れたことなんてない。父は色白で痩せこけ、その皮膚も今にも割れそうにガサガサだったけど、さて植物くんはどうだろうか。瞼の上にそっと雑巾を当てる。もし眼球が中に存在している場合、押し潰し失明でもしたら責任重大だ。出来得る限りのソフトタッチで拭いていく。
でも、そうすると全然落ちない。そこで再びハッとした。昨日自分の服の泥は水に漬け込み、染み込ませて落とした。同じ原理が適用出来ないか。
時間だけはたっぷりとある。私は雑巾を広げると、彼の閉じられた両瞼に当てた。とりあえず一分数える。耳の中の土を掘り出したら、彼は私の声を聞けるだろうか。私の声を聞いたら、目を開けるだろうか。
植物くんに何を期待しているのか、彼の全身が出てきたらどうしたいのか、自分のことなのに皆目見当がつかない。でも、もし彼が目を覚まして動き出し、隣で一緒に縁側でお茶を飲んでくれるのなら――。それはなかなか悪くない、と思った。
だって、彼は人間じゃない。私はその辺の一般男性と天気の話すらスムーズに出来ないヘタレだ。だけど植物だったらもしかして、私の速度の遅さなんて気にせず隣にいてくれるんじゃないか。なんせ、本来なら動く筈のない植物だ。スピード感溢れる植物なんて見たことも聞いたこともないから、その可能性は高い。まあそれも、もし植物くんが動くならばの仮定の話だけど。
「じゃあ見てみようね」
声を掛けながら雑巾を取る。この作戦は成功だった。植物くんの、若干濃いめの張りのある肌が出てくる。目尻の皺の間を少しだけ強めに拭くと、そのままこめかみと鼻筋も丁寧に拭った。綺麗になっていく過程が楽しい。何度も雑巾を洗っては拭くを繰り返すと、いつの間にか太陽が真上にきていた。ペットボトルの水が空になると、泥が底に沈殿したプラスチック桶と、泥だらけの雑巾だけが残る。
改めて植物くんを見た。瞼は閉じたままだ。髪はサラサラ。少し褐色気味のシミ一つない綺麗な肌は、健康そのものに見える。朝見た時よりも一センチほど下から伸びてきており、耳は完全に地上に出た。明日になったら鼻の穴あたりまで出ていそうなので、明日は耳と鼻の穴の掃除をしようか。
ふと気付く。赤ちゃんのおしり拭きシートが使えないか。父がお風呂に入れない時に、よく首や顔をそれで拭いていた記憶があったのだ。
「よし! 町でおしり拭きを買ってくるね!」
よっこらしょと立ち上がると、目を瞑ったままの植物くんに今日も手を振る。
「また明日の朝に来るから、沢山光合成をしておくんだよ!」
秋の涼やかな風が拭く。植物くんの頭頂から生えている緑の葉が、返事をする様にふわりと揺れた。
「――よし」
簡素だけど、読み返した時にどういう状況であったかはこれで十分理解出来る。満足してノートと筆記用具をリュックにしまうと、代わりに持参してきた物を取り出した。
リュックに詰めてきたのは、プラスチックの桶、ペットボトルに詰めた水道水、そして雑巾だ。全てを拭くことは出来ないかもしれないけど、せめて顔だけでも綺麗にしてあげたらもしかしたらこの目が開くんじゃないか。そんな期待を胸に抱きつつ、トポトポと桶に水を注ぐ。
本当に目が開いたらどうしようと一瞬だけ考えたけど、考えても未知のこと過ぎて想像が出来ない。そこの考察は早々に諦めると、成り行きに任せることにした。雑巾を浸して搾り、まずは上から順番に拭いていく。
冷たい雑巾を額に当てると、植物くんがぴくりと反応して葉が大きく揺れた。
「わっ」
突然のことに驚いたけど、暫く待ってもそれ以上の反応はない。この様子から推測するに、植物くんはまだ目覚めの段階にはなく、微睡んでいるのでは。寝ているところに冷たい物を当てられたので、生理的に反応しただけかもしれない。いずれ目覚めの段階が来るかどうかもあやふやだけど。
「拭いていくねー」
もし耳で聞けるにしても土が詰まっているから殆ど聞こえないだろうけど、そもそも耳としての機能を保有しているのかも謎だ。とにかくこれは、明日にでも耳かきをしてあげよう。今日はとりあえず、目を開けた時に土が落ちない様にする。目を開けることがあるかどうかも不明だけど。
何もかもが分からないことだらけだ。でも、植物くんの穏やかな寝顔――これが寝ているのならば――を見ている限り、特段危険は感じない。私のこの直感がどこまで信用出来るのかも定かじゃないけど、植物くんを見ていると穏やかな気持ちになれた。昨日もここで昼寝をしてしまったので、この人の前ではもう二度も昼寝をしている。これが安心していると言わず何と言うのか。
髪の毛に付着した泥を、雑巾に挟み込む様にして拭いていく。髪の毛は、どこも十センチ程度の長さだ。真っ直ぐなそれには光沢があり、手で触れると肌の上を水の様に流れていった。下の方の髪の毛は、まだ土に埋もれている。指で少し地面をほじくってみると、やはり先は根に変わっていた。
このことから察するに、植物くんの人間的な部分は地上から出た部分だけ。地面の下は、異様に枝分かれをして網目の様になっている根があるだけなのかもしれない。人間の部分は茎の様なものか。
――これに近い植物の話を、どこかで聞いた様な。
思考をすると手が止まる。植物くんの髪の毛を雑巾で挟んだまま停止していた私は、ハッと気付くと泥色に変わった雑巾を桶の水でジャブジャブと洗った。泥水を少し離れた場所に撒く。新たに綺麗な水を桶に注ぎ、もう一度雑巾を絞る。いよいよ顔を本格的に拭く時がきた。
「さ……触るからね」
思わず声が震える。生まれてこの方、家族以外の異性の顔にまともに触れたことなんてない。父は色白で痩せこけ、その皮膚も今にも割れそうにガサガサだったけど、さて植物くんはどうだろうか。瞼の上にそっと雑巾を当てる。もし眼球が中に存在している場合、押し潰し失明でもしたら責任重大だ。出来得る限りのソフトタッチで拭いていく。
でも、そうすると全然落ちない。そこで再びハッとした。昨日自分の服の泥は水に漬け込み、染み込ませて落とした。同じ原理が適用出来ないか。
時間だけはたっぷりとある。私は雑巾を広げると、彼の閉じられた両瞼に当てた。とりあえず一分数える。耳の中の土を掘り出したら、彼は私の声を聞けるだろうか。私の声を聞いたら、目を開けるだろうか。
植物くんに何を期待しているのか、彼の全身が出てきたらどうしたいのか、自分のことなのに皆目見当がつかない。でも、もし彼が目を覚まして動き出し、隣で一緒に縁側でお茶を飲んでくれるのなら――。それはなかなか悪くない、と思った。
だって、彼は人間じゃない。私はその辺の一般男性と天気の話すらスムーズに出来ないヘタレだ。だけど植物だったらもしかして、私の速度の遅さなんて気にせず隣にいてくれるんじゃないか。なんせ、本来なら動く筈のない植物だ。スピード感溢れる植物なんて見たことも聞いたこともないから、その可能性は高い。まあそれも、もし植物くんが動くならばの仮定の話だけど。
「じゃあ見てみようね」
声を掛けながら雑巾を取る。この作戦は成功だった。植物くんの、若干濃いめの張りのある肌が出てくる。目尻の皺の間を少しだけ強めに拭くと、そのままこめかみと鼻筋も丁寧に拭った。綺麗になっていく過程が楽しい。何度も雑巾を洗っては拭くを繰り返すと、いつの間にか太陽が真上にきていた。ペットボトルの水が空になると、泥が底に沈殿したプラスチック桶と、泥だらけの雑巾だけが残る。
改めて植物くんを見た。瞼は閉じたままだ。髪はサラサラ。少し褐色気味のシミ一つない綺麗な肌は、健康そのものに見える。朝見た時よりも一センチほど下から伸びてきており、耳は完全に地上に出た。明日になったら鼻の穴あたりまで出ていそうなので、明日は耳と鼻の穴の掃除をしようか。
ふと気付く。赤ちゃんのおしり拭きシートが使えないか。父がお風呂に入れない時に、よく首や顔をそれで拭いていた記憶があったのだ。
「よし! 町でおしり拭きを買ってくるね!」
よっこらしょと立ち上がると、目を瞑ったままの植物くんに今日も手を振る。
「また明日の朝に来るから、沢山光合成をしておくんだよ!」
秋の涼やかな風が拭く。植物くんの頭頂から生えている緑の葉が、返事をする様にふわりと揺れた。
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