2 / 92
第1話 小町
しおりを挟む
各地に点在するヒトの町のひとつ、済世区。うら若き乙女である私、小町が生まれ育ったその町を飛び出してから、今日で三日が経つ。
済世区は比較的大きな町だから、町を囲む電気結界の外にも、亜人避けの装置がそれなりに配備されている。だから、別の町に繋がる街道沿いに進めば、比較的安全に行けると聞いていた。
実際に、昨日も一昨日も亜人の影すら見かけなかったから、正直油断していたのかもしれない。
「はあ、はあ……っ! も、しつこい……っ!」
陽はとっぷりと暮れて、蜂蜜色をした月が濃紺の空にぽっかりと浮かぶ。お月見でも出来そうな空の下、私は膝丈の草が生い茂るでこぼこの野原を全速力で走っていた。
燃えてるみたいで綺麗だと可愛い弟の小夏に褒められる、肩より上で短く切り揃えられたおかっぱの赤髪。今はそれが振り乱れて視界の邪魔になり、うざったかった。
街道に戻らないと拙いのに、追われて当て所なく逃げ惑う内に、木立の奥が真っ暗な林の方へと追い立てられてしまっている。
「ああもう……っ!」
外の世界になんて出たことがなかったし、どんな環境なのかもろくに知らなかった。とりあえず寒くはないと聞いたから、それ以上深く考えずに黒のショートパンツとカーキ色のタンクトップを着ちゃったなんて、どれだけ馬鹿なんだろう。
剥き出しの肩からも膝からも血が流れていて、走る度に振動で痛む。
最近成長してきた胸も走るのには邪魔で、苛立ちで叫びたい気持ちを抑えるのに必死だった。
「くっそ……っ!」
完全に失敗した。やっぱりあの時、もっと落ち着いて行動すればよかった。
私は、つい数十分前の自分の浅はかな行動を激しく後悔していた。
街道沿いには、大きな河が流れている。河の水は決して綺麗じゃないけど、持ってきたろ過装置付きのボトルがあれば飲める。それでも、河の水を飲むのは出来る限り先延ばしにしたいのが本音だ。
お腹を壊したら嫌だから、持参した、町で精製された綺麗な水をちびちび飲んでいたけど、それも空になってしまった。だから仕方なく、意を決して小石だらけの河川敷に足を踏み入れた。
空は血を塗りたくったみたいな色に染まっていて不気味だったけど、街道沿いに歩いているからか、亜人もその他の獣もこれまで一度も見ていない。だから大丈夫でしょ、という慢心があったのは否めない。
一応辺りを警戒しつつ川縁に寄り、深緑色の水面にも水中にもおかしな影がないかを目視で確認してから、屈んでボトルに水を汲み始めた。
河の水は想像以上にぬるくてヌメヌメしていて、内心うげえ、と思いながらもボトルを満杯にする。水を汲むのは底からで、飲むのは反対側からだから、誤って汚染された水が口の中に入ってしまうこともない。
キャップを閉めて、腰ベルトのボトルホルダーにセットする。結構重くてバランスが取りにくいけど、まあ仕方ない。
河川敷からは、三日前に出た済世区の明かりが空に映し出されているのが見えた。まだこれしか進んでいないの、とこれからの行程を考えるとげんなりしたけど、やると決めたからにはやるしかない。
「んーっ! もうちょっと頑張るかー!」
大きく伸びをしながら河に背を向ける。本当だったら、この時点で景色なんて眺めていないで、さっさと街道に戻るべきだった。でも、私はその警戒を怠ってしまった。本当、馬鹿の極みだ。
ぽちゃん、という水音が耳に届く。その後も、ちゃぽちゃぽと水を掻き分ける音が聞こえてきた。それが、段々こちらに近付いているような――。
恐る恐る振り返る。夕日をバックに今まさに河から上がろうとしていたのは、全身が黒い鱗だらけの魚人だった。藻みたいな濃い緑色の髪の毛がべったりと鱗の上を這っていて、白目の中に浮かぶ如何にも魚な黒い真円の瞳は瞬きもせず、私を凝視している。き、気持ち悪い!
「――ひっ」
そいつが手に持っているのは、モリの様な先端に尖った金属が付いている武器だった。殺る気満々らしいけど、勘弁して。
「ヒトの匂いがすると思ったら……」
じり、と魚人が私に近付いてくる。水中から出てきた両足もびっしりと鱗に覆われていて、夕日を反射してキラキラしているけど決して綺麗じゃない。ああやだ、魚の目って苦手なんだよね。どこ見てるのか分からないし。
「――今夜はご馳走だ!」
突然、魚人が水面から跳躍したかと思うと、私のすぐ背後にタンッと着地した。
済世区は比較的大きな町だから、町を囲む電気結界の外にも、亜人避けの装置がそれなりに配備されている。だから、別の町に繋がる街道沿いに進めば、比較的安全に行けると聞いていた。
実際に、昨日も一昨日も亜人の影すら見かけなかったから、正直油断していたのかもしれない。
「はあ、はあ……っ! も、しつこい……っ!」
陽はとっぷりと暮れて、蜂蜜色をした月が濃紺の空にぽっかりと浮かぶ。お月見でも出来そうな空の下、私は膝丈の草が生い茂るでこぼこの野原を全速力で走っていた。
燃えてるみたいで綺麗だと可愛い弟の小夏に褒められる、肩より上で短く切り揃えられたおかっぱの赤髪。今はそれが振り乱れて視界の邪魔になり、うざったかった。
街道に戻らないと拙いのに、追われて当て所なく逃げ惑う内に、木立の奥が真っ暗な林の方へと追い立てられてしまっている。
「ああもう……っ!」
外の世界になんて出たことがなかったし、どんな環境なのかもろくに知らなかった。とりあえず寒くはないと聞いたから、それ以上深く考えずに黒のショートパンツとカーキ色のタンクトップを着ちゃったなんて、どれだけ馬鹿なんだろう。
剥き出しの肩からも膝からも血が流れていて、走る度に振動で痛む。
最近成長してきた胸も走るのには邪魔で、苛立ちで叫びたい気持ちを抑えるのに必死だった。
「くっそ……っ!」
完全に失敗した。やっぱりあの時、もっと落ち着いて行動すればよかった。
私は、つい数十分前の自分の浅はかな行動を激しく後悔していた。
街道沿いには、大きな河が流れている。河の水は決して綺麗じゃないけど、持ってきたろ過装置付きのボトルがあれば飲める。それでも、河の水を飲むのは出来る限り先延ばしにしたいのが本音だ。
お腹を壊したら嫌だから、持参した、町で精製された綺麗な水をちびちび飲んでいたけど、それも空になってしまった。だから仕方なく、意を決して小石だらけの河川敷に足を踏み入れた。
空は血を塗りたくったみたいな色に染まっていて不気味だったけど、街道沿いに歩いているからか、亜人もその他の獣もこれまで一度も見ていない。だから大丈夫でしょ、という慢心があったのは否めない。
一応辺りを警戒しつつ川縁に寄り、深緑色の水面にも水中にもおかしな影がないかを目視で確認してから、屈んでボトルに水を汲み始めた。
河の水は想像以上にぬるくてヌメヌメしていて、内心うげえ、と思いながらもボトルを満杯にする。水を汲むのは底からで、飲むのは反対側からだから、誤って汚染された水が口の中に入ってしまうこともない。
キャップを閉めて、腰ベルトのボトルホルダーにセットする。結構重くてバランスが取りにくいけど、まあ仕方ない。
河川敷からは、三日前に出た済世区の明かりが空に映し出されているのが見えた。まだこれしか進んでいないの、とこれからの行程を考えるとげんなりしたけど、やると決めたからにはやるしかない。
「んーっ! もうちょっと頑張るかー!」
大きく伸びをしながら河に背を向ける。本当だったら、この時点で景色なんて眺めていないで、さっさと街道に戻るべきだった。でも、私はその警戒を怠ってしまった。本当、馬鹿の極みだ。
ぽちゃん、という水音が耳に届く。その後も、ちゃぽちゃぽと水を掻き分ける音が聞こえてきた。それが、段々こちらに近付いているような――。
恐る恐る振り返る。夕日をバックに今まさに河から上がろうとしていたのは、全身が黒い鱗だらけの魚人だった。藻みたいな濃い緑色の髪の毛がべったりと鱗の上を這っていて、白目の中に浮かぶ如何にも魚な黒い真円の瞳は瞬きもせず、私を凝視している。き、気持ち悪い!
「――ひっ」
そいつが手に持っているのは、モリの様な先端に尖った金属が付いている武器だった。殺る気満々らしいけど、勘弁して。
「ヒトの匂いがすると思ったら……」
じり、と魚人が私に近付いてくる。水中から出てきた両足もびっしりと鱗に覆われていて、夕日を反射してキラキラしているけど決して綺麗じゃない。ああやだ、魚の目って苦手なんだよね。どこ見てるのか分からないし。
「――今夜はご馳走だ!」
突然、魚人が水面から跳躍したかと思うと、私のすぐ背後にタンッと着地した。
0
お気に入りに追加
17
あなたにおすすめの小説
離婚した彼女は死ぬことにした
まとば 蒼
恋愛
2日に1回更新(希望)です。
-----------------
事故で命を落とす瞬間、政略結婚で結ばれた夫のアルバートを愛していたことに気づいたエレノア。
もう一度彼との結婚生活をやり直したいと願うと、四年前に巻き戻っていた。
今度こそ彼に相応しい妻になりたいと、これまでの臆病な自分を脱ぎ捨て奮闘するエレノア。しかし、
「前にも言ったけど、君は妻としての役目を果たさなくていいんだよ」
返ってくるのは拒絶を含んだ鉄壁の笑みと、表面的で義務的な優しさ。
それでも夫に想いを捧げ続けていたある日のこと、アルバートの大事にしている弟妹が原因不明の体調不良に襲われた。
神官から、二人の体調不良はエレノアの体内に宿る瘴気が原因だと告げられる。
大切な人を守るために離婚して彼らから離れることをエレノアは決意するが──。
-----------------
とあるコンテストに応募するためにひっそり書いていた作品ですが、最近ダレてきたので公開してみることにしました。
まだまだ荒くて調整が必要な話ですが、どんなに些細な内容でも反応を頂けると大変励みになります。
書きながら色々修正していくので、読み返したら若干展開が変わってたりするかもしれません。
作風が好みじゃない場合は回れ右をして自衛をお願いいたします。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。

【完結】新皇帝の後宮に献上された姫は、皇帝の寵愛を望まない
ユユ
恋愛
周辺諸国19国を統べるエテルネル帝国の皇帝が崩御し、若い皇子が即位した2年前から従属国が次々と姫や公女、もしくは美女を献上している。
既に帝国の令嬢数人と従属国から18人が後宮で住んでいる。
未だ献上していなかったプロプル王国では、王女である私が仕方なく献上されることになった。
後宮の余った人気のない部屋に押し込まれ、選択を迫られた。
欲の無い王女と、女達の醜い争いに辟易した新皇帝の噛み合わない新生活が始まった。
* 作り話です
* そんなに長くしない予定です
廃妃の再婚
束原ミヤコ
恋愛
伯爵家の令嬢としてうまれたフィアナは、母を亡くしてからというもの
父にも第二夫人にも、そして腹違いの妹にも邪険に扱われていた。
ある日フィアナは、川で倒れている青年を助ける。
それから四年後、フィアナの元に国王から結婚の申し込みがくる。
身分差を気にしながらも断ることができず、フィアナは王妃となった。
あの時助けた青年は、国王になっていたのである。
「君を永遠に愛する」と約束をした国王カトル・エスタニアは
結婚してすぐに辺境にて部族の反乱が起こり、平定戦に向かう。
帰還したカトルは、族長の娘であり『精霊の愛し子』と呼ばれている美しい女性イルサナを連れていた。
カトルはイルサナを寵愛しはじめる。
王城にて居場所を失ったフィアナは、聖騎士ユリシアスに下賜されることになる。
ユリシアスは先の戦いで怪我を負い、顔の半分を包帯で覆っている寡黙な男だった。
引け目を感じながらフィアナはユリシアスと過ごすことになる。
ユリシアスと過ごすうち、フィアナは彼と惹かれ合っていく。
だがユリシアスは何かを隠しているようだ。
それはカトルの抱える、真実だった──。

今夜は帰さない~憧れの騎士団長と濃厚な一夜を
澤谷弥(さわたに わたる)
恋愛
ラウニは騎士団で働く事務官である。
そんな彼女が仕事で第五騎士団団長であるオリベルの執務室を訪ねると、彼の姿はなかった。
だが隣の部屋からは、彼が苦しそうに呻いている声が聞こえてきた。
そんな彼を助けようと隣室へと続く扉を開けたラウニが目にしたのは――。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
恋愛
リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる