其の匂い、芳しく【完結】

ミドリ

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19 救助

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 辺りに立ち込めるのは、いつも嗅いでいた甘い香りに、敵を威嚇する様な相手を屈服させんとする匂いだ。

「うわっ! な、何だ!」

 横倒しにされた春樹を上から押さえつけているのは、大きな真っ黒い犬だった。――いや、狼かもしれない。体長は裕にニメートルは超えるであろう巨体には、大きくて立派な尻尾が付いている。

「う、うわあああ! 殺される!」

 四つん這いになって逃げ惑う春樹の背中を、狼が大きな前脚でドン! と踏みつけると、春樹が「うぎゃっ!」と情けない声を出した。

「やだ、いやだ、死にたくないいいっ!」

 春樹が泣き叫ぶ。私を必死で探そうとしている様だったが、出来ればもうこの人の視界には映りたくない。そおっと春樹の背後に回った。

「うああ! 助けて、いやだ、ああああっ!」

 グルルル! と激しい唸り声を上げた狼は、春樹の首根っこに押さえ込む様に齧り付く。

 背中を押さえつけられたままの春樹が、手足をバタバタさせながら殺される殺されると声をひっくり返しながら叫んでいるが、殺すつもりならとうに喉を噛み切られて絶命しているだろう。

 この狼は、ただ獲物を捕まえただけだ。

「さ、咲! 助けて! 助けてえええっ!」

 涙ながらに叫ばれるも、私にだってどうしようもないし、どうしたくもないのが正直なところだ。いきなり巨大な狼が現れ、私だって驚いてはいる。

 ただ、不思議と恐怖はなかった。狼の顔が見たくて、狼の横へと回る。だって、私はこの匂いの源を知っていた。

 狼の顔が見える位置に来て顔を覗くと、やはり瞳は金眼だった。

「……寅之助さん?」

 常識人だったら自分の頭を真っ先に疑うだろうが、私は何よりも自分の嗅覚を信じている。これの所為で、散々苦労してきたのだ。これの正確性は、知り尽くしていた。

 狼が、春樹の首から口を離す。すると、「あ、あ……っ」と恐怖で凍りついていた春樹が、そのまま泡を吹いて気絶してしまった。

 思ったよりも呆気なくて、狼と二人、暫し見つめ合う。

 先に反応したのは、狼の方だった。

「あの……ちょっとこれから僕の匂いをこの男に上書きしますんで、あちらを向いていただけると」

 狼が、寅之助の声で言った。

「あ! は、はい!」

 匂いの上書き。どういうことだろうかと思ったが、今は寅之助の言う通りにすべきだと本能が言っている。

 私は素直に背を向けると、やがて風に乗って漂ってきたのは王者の雄の香りだった。つまりは、尿である。何故か狼になっている寅之助は、気絶している春樹に尿を掛けているのだ。

 正直頭が混乱していたが、寅之助だって恥ずかしいと言っているのだ。今すぐ深く追求しては更に恥ずかしかろう、と今は寅之助のそれが終わるまで待った。

「さ、咲さん」
「はい!」

 もう振り返って大丈夫だろうか。私の気遣いが分かったのか、狼の寅之助が私の前に回ってきて、お尻を付けてちょこんと座った。それでも大きい。私の胸の高さにその顔がある。

「これで、もうこの男には咲さんの匂いは残ってないと思います」
「あ、はい……?」

 よく分からない。するとそれを察したのだろう、狼の顔で、寅之助が笑った。何だか分からないが、とりあえず解決した様だと分かったので、私も笑う。

「ふふ……っびっくりしました、何で狼なんですか寅之助さん」
「ですよね、普通驚きますよね」

 巨大な狼が目の前に現れたら、本当だったら泣き叫んで逃げ惑うのが正しい行動なのかもしれない。

 だが、やはり寅之助から香る匂いはいつものあの甘く優しい匂いで、私はそれに変わらず惹かれるのだ。

 腕を伸ばし、少し屈んで寅之助の首に抱きつく。

「さ、咲さんっ」

 動揺した寅之助の声が、更なる笑いを誘った。

「寅之助さん、助けてくれてありがとうございました」
「い、いえ! 間に合ってよかったです!」

 寅之助の身体は、熱いくらいだ。恐らくは全速力で走って追いかけて来てくれたのだろう。そのことに嬉しさが込み上げ、私は素直な気持ちを口にした。

「寅之助さん、実は私、抱き締め返して欲しいと思ってるんです」
「あ……っ! そ、そうしたいのは山々なんですが、今は人間の姿に戻るとそのう、色々と支障がありまして……」

 支障とはどういうことだろうかと思っていると、寅之助がボソボソと教えてくれた。

「と、途中で下着がどこかへ行ってしまいまして、今戻ると素っ裸なんです……」
「あらやだ」

 思わずそう言うと、笑いが込み上げる。私の笑いに呼応する様に、寅之助もくつくつと笑った。

「……なので、帰ってから抱き締めてもいいですか」

 勿論、私の答えは一つに決まっている。

「はい、お願いします」

 咲さん、と感動した寅之助の声と甘い匂いに、私はもう一度ぎゅっと思ったよりもふわふわの首を抱き締めたのだった。
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