其の匂い、芳しく【完結】

ミドリ

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18 執念

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「咲! 出て来い! 今なら許してやるから!」

 どう考えても嘘な台詞を堂々と吐きながら、春樹が私の後を追って来る。声も匂いも、かなり近い。

 なるべく身を屈めながら、滑り易いやや傾斜した森の中を進んで行った。

 どうしても物音を立ててしまい、そうすると春樹がこちらにどんどん近付いてくる。

 この選択は間違いだったか、いや、道路で捕まって車に連れ戻されるよりは遥かにましに違いない、と必死で信じ込もうとした。

 そして、今頃きっと私を探し回っているであろう寅之助のことを想った。さぞや心配していることだろう。

 町役場ならば安全だろうと油断したのは、私とて一緒だ。だがそれすらも、きっとあの心優しい寅之助は自分を責めているに違いない。

 ただひたすらに、寅之助に会いたかった。優しく抱き締められながら、大丈夫ですと頭を撫でてもらいたかった。

 私が帰る場所は、あの腕の中しかない。寅之助と居ると、心から安堵出来た。両親と別れて以来一度もなかったその感覚を信じろと、私の中の何かがずっと言っていた。

 だがこれまでの経験が、心にではなく頭に訴えかけてきた。まだ信じるなと。寅之助もどう豹変するか分かったものではないと。

 初めから、答えは出ていたのに。これまで一度たりと、心から安堵出来る男などいなかった。それは、男達が皆、言葉とは裏腹な臭いを発していたからだと、今更ながらに気付く。

 あれは、異臭だ。支配してやる、征服してやるといった雄の臭いは、私にとっては不快でしかなかった。誰一人、私を守ろう、慈しもうという匂いは発してはいなかった。

 何故自分はこんなにも匂いを嗅ぎ分けることが出来てしまうのだろう。こんな嗅覚さえなければ、相手の奥底にある真意など気付かずに表面に見えるものだけを信じて生きていけただろうに。

「う……ううう……っ」

 ずっと泣かなかったのに、寅之助の前で一度出てしまった涙は、もう止まることを忘れてしまったかの様だった。

 聞こえては拙いのは分かっているのに、涙と嗚咽が止め処なく溢れてくる。

「咲、そっちだな! いい子だから、怒らないから戻っておいで!」

 嘘だ。ガラムの臭いと共に、嘘付きの悪臭もぷんぷん漂ってきている。

 私がのこのこ現れた瞬間、私を殴って動けなくした上で私を連れ戻すのだろう。あの悪臭が満ちた家へと。

 すると唐突に、斜面が急な場所に出た。

「きゃあ!」

 足を滑らせ、転がる様に下へと落ちて行く。

「咲!」という声が近付いて来た。

「うっ!」

 斜面の下の方に生えている木の幹に背中を強打し、一瞬息が詰まる。

「咲? そこにいるんだな?」

 ザザザ、と慎重に斜面を滑り落ちてくる音と共に、征服欲に満ちたえげつない雄の臭いが近付いてきた。逃げたいが、痛くて咄嗟に身体が動かない。

 ガサ、と近くで足音がして見上げると、木々の隙間から差し込む月光で逆光になった春樹が立っていた。笑いながら。

「手間取らせやがって」
「……いや」

 必死で上体を起こしながら、後ずさる。首をふるふると横に振り続けると、悪臭以外の匂いが少量だが流れ込んできた。ブワッと大量の涙が溢れ出す。

「……けさん……」
「ほら咲、起きろ」

 春樹が、もう一歩近付いて来る。私は一気に立ち上がると、匂いがしてくる方向へと叫んだ。

「寅之助、さん! 私はここです! 助けて、助けてええええ!」
「気でも狂ったか、咲。助けなんか来る訳が……うがっ!」

 大好きで堪らなくなるあの甘くも爽やかな香りが私の前を一瞬通り過ぎたかと思うと、私に手を伸ばしていた春樹の身体が黒い大きな塊と共に横へと吹っ飛んで行った。
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