其の匂い、芳しく【完結】

ミドリ

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15 会いたくなかった人

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 寅之助が私を楽しませようと気遣いを見せながらも春樹を警戒してくれているお陰で、自分でも驚くほど楽しい時間を過ごすことが出来た。安心とは、こういうことを言うのだろう。この人と居れば大丈夫だと思えることは、実は凄いことなのだ。

 両親を亡くしてからは孤独感を拭えなかった私にとって、寅之助に守られている事実は深い多幸感を与えてくれた。

 春樹の人相は寅之助には伝えてあるが、変装でもしてしまえばこの人だかりだ、紛れてしまう可能性は大いにある。

 特徴的な煙草の臭いで近くにいるか判別は出来そうだったが、人が集まるにつれ、浴衣の保管に使っていたのであろうナフタリンの強烈な臭いが風に乗って鼻の感覚を全て持っていくことがあり、注意して嗅いでいないと匂いすら紛れてしまう可能性もあった。

 それに第一、匂いを細かく嗅ぎ分けられるのは私だけだ。春樹の狙いは私だが、隣にいる寅之助に対し何を思うかまでは想像がつかない。

「寅之助さん、そろそろ一回町役場に顔を出しませんか? その、トイレもそろそろ……」

 ビールは現在三杯目で、さすがに膀胱が拙かった。帯で締められている所為もあるのだろうが、そこそこ限界に近付いている。

「あ、そうですよね! じゃあ行きましょうか」
「はい」

 寅之助は私の手を優しく握ると、その広い背中に私を庇いながら人混みを進んで行く。寅之助の行動の一つ一つにきゅんときてしまう私は、もう止められないくらいこの恋に落ちているらしかった。

 小学校の外にも人は溢れていたが、それでも都内の祭りほどではない。都内に例えれば、夕方の商店街レベルくらいだろうか。

 スーパーを通り過ぎ町役場の方面に進んでいくと、そちらはそちらで盛り上がっているのか、楽しそうな笑い声が日本酒とビールの入り混じった匂いと共に聞こえてきた。

「皆さん、お疲れ様です」
「あーお疲れさ……え?」

 町役場の前に大きなブルーシートを引いて宴会をしているのは、やはり秦野さん達だった。十人程が座って酒を飲んでいる。山口さんの言う通り、本当にただ宴会をしたかっただけの様だ。

「ええ! 寅之助くん? 男前じゃない! 何でいつもあんな髪型してたの!」

 秦野さんが赤ら顔で言うと、寅之助はぺこりと小さな会釈をする。秦野さんは続けた。

「ええ! 手を繋いでるってことは! 二人ってそういう仲だったの!」

 秦野さんは、悪気はない。だが、所謂昭和な人なのだ。

「ちょっとお! ここに座って飲んで飲んで! おめでたいんだから乾杯しなくちゃ! ほら、咲ちゃんも!」
「わ、私はちょっとお手洗いに!」

 逃げたい気持ちもあったが、それよりも本当に膀胱がやばかった。

「僕が相手してますから、行ってきていいですよ」

 寅之助がこそっと耳打ちしてくれたので、こくこく頷くと、転ばない程度に浴衣で出来得る限りの全速力でトイレに向かった。

 中は通路部分だけに電気が点いており、人影は見当たらない。トイレ用に開放しているということなのだろう。待合室の奥から廊下に入ると、男子トイレの先にある女子トイレへと駆け込む。

 トイレの芳香剤の臭いでくらりとしたが、ふらついている場合ではない。大急ぎで便座に座ると、何とか間に合いホッと息を吐いた。なかなかにギリギリだった。深呼吸をし、思い切り芳香剤の臭いを吸い込んでしまい鼻が馬鹿になって涙が滲む。

「くさ……っ」

 暫く鼻は使い物にならなさそうだ。仕方ないが、真っ直ぐに寅之助の元へ戻れば大丈夫だろう。

 そういえば、寅之助にはトイレに行きたいとかも普通に言えるな、と思い可笑しくなる。如何に自分が作らず自然体で接しているのかが、そのことからも分かった。

 それは多分、寅之助が自然体だからだ。寅之助は、いつも素直に感情を態度と言葉で表してくれる。その裏には、私を騙そうなどといった魂胆はない様に思えた。

「なんだ、もう信じてるじゃない……」

 思わず、独り言が口を突いて出る。寅之助がどう証明してくれるのかは謎だが、私はそんな寅之助を信じたいと思っている。寅之助の信じてという言葉を、今この瞬間すでに信じていた。

 変化は、誰にでもあるものだ。今度こそ、相手がおかしな方向に変化する前に自分の正すべきところを寅之助と一緒に正していけば、ずっと一緒にいられるのではないか。寅之助なら、これまでの男達とは違い、私の話を聞いてくれると信じられたから。

 その考えは、とても素敵だった。そのことを、寅之助に話してみようか。そう思いながら浴衣を直し、水を流して個室の外に出る。

「一人で笑って、随分と楽しそうだな」
「――え?」

 目線を上げると、外へと繋がるドアの前に立っている人物がいた。前よりもこけた頬に無精髭を生やしたその男は。

「春樹……」

 寅之助のことを想って上がっていた口角が、ゆっくりと下がっていった。
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