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5 寅之助
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実は、こうやって男の元からトンズラするのは今回が初めてではない。同棲は安上がりだという理由から、付き合った男とは積極的に同棲をしていた弊害かもしれないが、始めは優しかった男達は、何故か途中からどんどん態度が不遜になっていくのだ。
別にお前の所有物じゃないという意識が強過ぎるのだろうか。ふんぞり返る様な態度に段々嫌気が差し、別れを切り出す。すると途端に豹変し、泣いて縋るのはマシな方だが、中にはストーカー化してきた奴もいた。
職場の同僚の女性などに愚痴を溢すと、切り替えが早過ぎて男はついていけないんじゃないかと言われたりもしたが、改善点については別れを切り出す前段階で散々提案してきたつもりだ。
「――ということで、あまり男運がなくて」
「それは大変でしたねえ」
血の滴らんばかりのレアなカットステーキを私の皿によそいながら、相変わらずもさい髪型の寅之助が同情している風にうんうんと頷く。
寅之助宅に招待された私は、杉田さんイチオシという和牛ステーキのご相伴に預かりつつ、聞かれるがままに何故ここに来るに至ったかの話は元より、天涯孤独な身であることに加えこれまでのざっとした男遍歴をいつの間にか語っていた。
寅之助はというと、あのダサい鼠色のスーツはさすがに脱ぎ、今は黒いTシャツにカーキ色のアーミーパンツを着用している。スーツの時はへろへろボディに見えたが、ピッタリとしたTシャツを見る限り、なかなかいい身体をしていた。
とそこまで考え、やはり思考がピンク色に傾いていることに気付くと、出来るだけ自然に寅之助に提案をした。
「あの、少し窓を開けてもいいですか?」
「あ、エアコン効きすぎました?」
「え、ええ、ちょっと、ふふ」
嘘だ。現在の室温はすこぶる快適であったが、問題はやはりこの匂いにあった。仄かに甘い、得も言われぬ芳しい香り。これと満ちてゆく食欲と相まって、私の中の理性は今にも吹っ飛びそうになっていたのだ。会った当日で隣に引っ越してきた女が男を襲ってみろ。どんな安っぽい昼ドラが始まってしまうことか分かったものではない。
カラカラ、と縁側の外側についているガラス窓を寅之助が開けると、網戸を通って外から風が入り込んできた。
「……こっちは、夜は涼しいんですねえ」
東京だと何日連続熱帯夜など当たり前だが、こちらは想像していたよりも大分涼しく、思わずホッと息を吐く。外から飛び込んでくる虫の声はうるさいくらいだったが、子供の頃のキャンプの夜の様で、何だかワクワクした。
「朝はもっと冷えますから、布団はきちんと掛けて寝て下さいね」
「はい、分かりました」
匂いが薄まれば、私の興奮も少しずつ落ち着いてくる。とりあえずこの匂いの元は寅之助だと分かった以上、理性を失い襲いかかる前に今後の対策を練っておく必要がありそうだった。
「さ、食べて食べて。お肉、レアの方が好きですよね?」
「え、あ、はい、そうですね! じゃあジャンジャンいただきます!」
「はは、どうぞ沢山召し上がって下さい」
何故私がレアが好きなのをさも当然の様に言うのかが不思議ではあったが、一口目で余程感動した表情でも浮かべていたに違いない。そう、私は肉食女子なのだ。とにかく肉が大好きで、生肉に近ければ近いほど悶えるほど好きだ。これは昔からで、私が学生の時までは存命だった両親も同じだった。肉食系一家という訳だ。
「ビールもまだありますから、さ、どうぞどうぞ」
「何から何まですみません、いただきます」
ちなみに酒も好きなので、飲んでいいと言われれば飲む。曲がりなりにも社長だった春樹は金にはうるさくなかったが下戸だったので、こんなに心ゆくまま飲むのは実に久しぶりのことだった。
「それじゃあ次は寅之助さんの話を聞かせて下さいよ」
「え、僕のですか? 大して面白くないですよ」
そう言いながらも、寅之助はここに至るまでのことを教えてくれた。出身は日本海側のダムが有名な場所の近くの町だそうで、両親は今もそこで健在だそうだ。だが、寅之助が大学の卒業を翌年に控えたある日、いきなり「大学を卒業したらこの町から出て行きなさい」と言い渡されてしまったらしい。
お嫁さんが出来たら顔を見せに帰っておいでと言われ、色んな土地を巡り、最終的にこの町に落ち着いたのが三年前のことだという。お嫁さんはいないので、それ以来帰省が出来ていないというから何だか哀れではある。
「失礼ですが、お年は?」
「僕ですか?二十九です。咲さんと同い年ですね」
肌艶がいいから年下かと思っていたが、まさかの同い年とは。
酒は、久々に飲むと酔いが回る。そして、酔いが回ると人は大胆になる。それはそのまま私にも当てはまり、今日会ったばかりの人に、図々しくも尋ねてしまった。
「寅之助さんは、なんで前髪で顔を隠してるんですか?」
私の質問に、虎之助が一瞬息を呑むのが分かった。……さすがに不躾だっただろうか。
「あ、すみません、答えにくかったら全然……」
「あの!」
寅之助が、ずい、と私の横で正座をする。窓を開けているにも関わらず押し寄せるいい匂いに、またもや理性が吹っ飛びそうになった。
「は、はい……」
「み、見ても変だって思って欲しくないんですけど、こ、これについて言われるのが嫌で……っ」
「これ?」
訳が分からずただ問い返すと、寅之助はお尻のポケットに入れていたらしい黒い布のヘアバンドを取り出す。洗顔時などによく使うあれだ。黒縁の四角い眼鏡をちゃぶ台の上に置くと、ヘアバンドを装着し、私の方を決死の表情で見た。
「わお……」
そこにいたのは、形のいいおでこを持つ、男らしくも爽やかな顔をしたまごうことなきイケメンだった。
その瞳は、金色に輝いていた。
別にお前の所有物じゃないという意識が強過ぎるのだろうか。ふんぞり返る様な態度に段々嫌気が差し、別れを切り出す。すると途端に豹変し、泣いて縋るのはマシな方だが、中にはストーカー化してきた奴もいた。
職場の同僚の女性などに愚痴を溢すと、切り替えが早過ぎて男はついていけないんじゃないかと言われたりもしたが、改善点については別れを切り出す前段階で散々提案してきたつもりだ。
「――ということで、あまり男運がなくて」
「それは大変でしたねえ」
血の滴らんばかりのレアなカットステーキを私の皿によそいながら、相変わらずもさい髪型の寅之助が同情している風にうんうんと頷く。
寅之助宅に招待された私は、杉田さんイチオシという和牛ステーキのご相伴に預かりつつ、聞かれるがままに何故ここに来るに至ったかの話は元より、天涯孤独な身であることに加えこれまでのざっとした男遍歴をいつの間にか語っていた。
寅之助はというと、あのダサい鼠色のスーツはさすがに脱ぎ、今は黒いTシャツにカーキ色のアーミーパンツを着用している。スーツの時はへろへろボディに見えたが、ピッタリとしたTシャツを見る限り、なかなかいい身体をしていた。
とそこまで考え、やはり思考がピンク色に傾いていることに気付くと、出来るだけ自然に寅之助に提案をした。
「あの、少し窓を開けてもいいですか?」
「あ、エアコン効きすぎました?」
「え、ええ、ちょっと、ふふ」
嘘だ。現在の室温はすこぶる快適であったが、問題はやはりこの匂いにあった。仄かに甘い、得も言われぬ芳しい香り。これと満ちてゆく食欲と相まって、私の中の理性は今にも吹っ飛びそうになっていたのだ。会った当日で隣に引っ越してきた女が男を襲ってみろ。どんな安っぽい昼ドラが始まってしまうことか分かったものではない。
カラカラ、と縁側の外側についているガラス窓を寅之助が開けると、網戸を通って外から風が入り込んできた。
「……こっちは、夜は涼しいんですねえ」
東京だと何日連続熱帯夜など当たり前だが、こちらは想像していたよりも大分涼しく、思わずホッと息を吐く。外から飛び込んでくる虫の声はうるさいくらいだったが、子供の頃のキャンプの夜の様で、何だかワクワクした。
「朝はもっと冷えますから、布団はきちんと掛けて寝て下さいね」
「はい、分かりました」
匂いが薄まれば、私の興奮も少しずつ落ち着いてくる。とりあえずこの匂いの元は寅之助だと分かった以上、理性を失い襲いかかる前に今後の対策を練っておく必要がありそうだった。
「さ、食べて食べて。お肉、レアの方が好きですよね?」
「え、あ、はい、そうですね! じゃあジャンジャンいただきます!」
「はは、どうぞ沢山召し上がって下さい」
何故私がレアが好きなのをさも当然の様に言うのかが不思議ではあったが、一口目で余程感動した表情でも浮かべていたに違いない。そう、私は肉食女子なのだ。とにかく肉が大好きで、生肉に近ければ近いほど悶えるほど好きだ。これは昔からで、私が学生の時までは存命だった両親も同じだった。肉食系一家という訳だ。
「ビールもまだありますから、さ、どうぞどうぞ」
「何から何まですみません、いただきます」
ちなみに酒も好きなので、飲んでいいと言われれば飲む。曲がりなりにも社長だった春樹は金にはうるさくなかったが下戸だったので、こんなに心ゆくまま飲むのは実に久しぶりのことだった。
「それじゃあ次は寅之助さんの話を聞かせて下さいよ」
「え、僕のですか? 大して面白くないですよ」
そう言いながらも、寅之助はここに至るまでのことを教えてくれた。出身は日本海側のダムが有名な場所の近くの町だそうで、両親は今もそこで健在だそうだ。だが、寅之助が大学の卒業を翌年に控えたある日、いきなり「大学を卒業したらこの町から出て行きなさい」と言い渡されてしまったらしい。
お嫁さんが出来たら顔を見せに帰っておいでと言われ、色んな土地を巡り、最終的にこの町に落ち着いたのが三年前のことだという。お嫁さんはいないので、それ以来帰省が出来ていないというから何だか哀れではある。
「失礼ですが、お年は?」
「僕ですか?二十九です。咲さんと同い年ですね」
肌艶がいいから年下かと思っていたが、まさかの同い年とは。
酒は、久々に飲むと酔いが回る。そして、酔いが回ると人は大胆になる。それはそのまま私にも当てはまり、今日会ったばかりの人に、図々しくも尋ねてしまった。
「寅之助さんは、なんで前髪で顔を隠してるんですか?」
私の質問に、虎之助が一瞬息を呑むのが分かった。……さすがに不躾だっただろうか。
「あ、すみません、答えにくかったら全然……」
「あの!」
寅之助が、ずい、と私の横で正座をする。窓を開けているにも関わらず押し寄せるいい匂いに、またもや理性が吹っ飛びそうになった。
「は、はい……」
「み、見ても変だって思って欲しくないんですけど、こ、これについて言われるのが嫌で……っ」
「これ?」
訳が分からずただ問い返すと、寅之助はお尻のポケットに入れていたらしい黒い布のヘアバンドを取り出す。洗顔時などによく使うあれだ。黒縁の四角い眼鏡をちゃぶ台の上に置くと、ヘアバンドを装着し、私の方を決死の表情で見た。
「わお……」
そこにいたのは、形のいいおでこを持つ、男らしくも爽やかな顔をしたまごうことなきイケメンだった。
その瞳は、金色に輝いていた。
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