炎と雪

霜月美雨

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師走の再会

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張見世の格子の隙間から、冷たい風が吹き込んでくる。


ーーーー今年の雪は、そろそろかな…。


おしろいをはたいた姉さん達が
外行く客に怪しい視線を飛ばしたり
手鏡を覗き込んだりしている。


ここは師走の遊郭。


この忙しい時期は、普段は人気のない者も
日に5人以上は客を取る。


ここで迎える師走も
もう3度目…


泣く泣くここへやって来たあの日は

遥か遠い日のように感じられた。



ーーーーーーーーーーーーーーー


「ーー紫、お菊。」


呼ばれた2人が小さく返事をして


さっと立ち上がり部屋を出て行く。


「あんさん、あん方はサシだって言っただろう。」

年長者の紫が振袖越しに小声でボヤく。
一度は格子までいったやり手だが、
来年までに身請けけがなければ、その先は…


「この季節に選客無用。」


そそくさと出て行く先輩の後に続く、
自分と同期のお菊の細い首筋が

今日もきれいだと 思った。

~~~~~

夕餉どき。
この刻を過ぎてから客入りは一層増えていく。


格子の向こうから向けられる視線達を掻い潜って、ぼんやりと遠くを眺める。


ー ーーこんな寒空の下

…あの人は達者にしているだろうか…


長キセルから口を離して

フゥーーっと 煙を吐いた。


冷たい風は入ってくるのに

煙はただ、自分の頭上に渦巻いた。



…その時、人混みの中に
覚えのある横顔が見えた気がした


考えるより 何より 体が先に動く。
手に持っていたキセルを格子の隙間から投げた。


その人は足を止め、


しまい込んだ手を袖口から出して


足元に飛んできた其れをスッと拾い上げた。


美しい所作でゆっくりと、呆れ顔でこちらに歩み寄ってきた。


「ここの大見世には 随分と激しい客引をする娘がいるもんだ……
それとも最近の流行りなのかい?
そんなに俺に上がってほし……ーー。」


格子越しに、視線があう。


「ーーーーーー。」


その瞳に確かに意識がこもって行く


しばしの沈黙の後、静かに口を開いた。


「ーーーーこれは気に入った。

上がってやるよ。」



~~~~~~~



座敷に上がると、思いの外笑顔で客は座していた。


「ーーー禿(かむろ)は?」



皆が駆り出されるこの繁忙期に、
付き人は新人にしか付かなかった。



「ーーーそれならちょうど良い。」



差し出された盃に、酒を注ぐ。



何百回としてきたこの仕事も



今日ばかりは指先が震える。



直視できない相手の客がフッと笑う。



「慣れた仕事だろうにーー

お前はここでこうして、ずっと暮らしてきたんだろうね… 

…なぁ…“お小夜"。」



「………お兄さん…。」



枯れ果てたはずの涙が 一度に溢れ出す。



「……いいのかい? そんな風に言って。

ここじゃ誰が耳そばだてているか わかりゃしないよ…。

…まさかこんな所で逢うとはねぇ…

神様も意地が悪い……」



片袖で涙目を隠し
嗚咽が座敷の外に聞こえぬように、袖口をそっと噛みしめる。



「………名は何と言う?」


「…すずね……鈴音と申しやんす…」


消え入りそうな声で言う。


「…鈴音。 傍に寄りなさい。」


同じ方を向いて、隣に座した。


懐かしい声が心地よい

子守唄のように聴こえて 眠ってしまいそうなほどに。


「俺は万里小路(までのこうじ)の名は捨てた。

今では銀之丞(ぎんのじょう)で通っている。 

紺屋で藍師をしてるよ。」



私の小さな背を優しく撫でながら

彼は続けた。


「そうだな…俺のことは 銀さんとでも
呼べばいい。」


そういうと、まだ涙ぐむ私に
顔の端でくしゃりと笑った。




まるで夢の中にいるみたいだ。
長い廓(くるわ)暮らしで、気でも違えて
幻想でも見ているのではないだろうか……。


たとえ夢でも構わなかった

死に際の夢だとしても……。



幼い頃両親が相次いで亡くなってから、
身寄りがなくなった私たちは、
それぞれ奉公に出された。

生まれ育った京を離れ、遠い親戚のいるこの江戸へ。

私が引き取られた家は酒問屋だったけれど、
友もいないこの地に馴染むより前に、
家業は内輪揉め、付け火に合い
再び住処を追われた。


再建の支払いに、私は
店主のよしみだった人買いに売り飛ばされ


結局この吉原に。


この世のひふみも知らぬまま


時に兄の温もりを 思い出しては


さめざめと泣いていたのは いつのことだったのか。


いまではもう その頃の記憶を辿ることも出来なかった。


「…随分とまぁ 哀しい目になっちまって…。 

俺はあれから散々探して回っていたよ。

問屋の店主はひたすらに口を割らず、

おまえは火事で焼け死んだと言ってねぇ…

俺は信じちゃいなかった…

けど 見つからなくて当然だった。

屋敷が焼け落ちたと俺の耳に届いた時には、
お前はもう、ここにいたんだからね……。 」



そういうと、盃に口をつけ、
遠くを見るように瞳を細めた。



「…兄………銀さん…」


「ーーん? なんだい?」


もう生き別れて死ぬまで会うことはないと覚悟していた。
その兄さんが、いま傍にいるーーー



「………………っ…」



言葉にならない想いのまま、彼の着物の端を掴む



「……抱きしめて…おくんなんし…」



身に染みついた廓詞(くるわことば)も 赤子のうわ言のように
力なく聞こえた。



「…………ぁぁ。」



低く響いた声が受け止める。



回された腕に抱かれ、私は懐かしい懐に縋り付いた。
身が小さく震える。


なんでもなかったここまでの日々
いずれは女郎達のように、自分も病に伏し
死んでいくのだろうと。



ーーずっと、生き別れた実の兄に、
懸想していた この想いを 胸に秘めて。



「………鈴音、こっちを向いて。」



温かい懐、懐かしい匂い 安らぎ
潤んだ瞳を その人に向けた…



「んっ………」



唇が合わさる驚きに 瞳を見開く。



かつてこんなに清らかな口吸いを受けただろうか。


ーーーー兄さん…こんなに立派に凛々しくなって…



背に添えられた手が 誰よりも優しかった。




ちゅっ…クチュ…ピチャ……チュっ…




行燈(あんどん)の炎がゆらゆらと揺れて
二人の影が揺らめいた。
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