9 / 42
9 自覚と恐怖
しおりを挟む
昼休みはいつも、俺が作った月森と同じ弁当をデスクで食べる。
メンバーは皆、のんびり一時間ゆっくりなんてする余裕がない。食べ終わったらすぐにまた仕事に戻れるように、誰も食堂には行かない。
やっぱりブラック企業だな。それともこの分野では普通なんだろうか。
自力の勉強に行き詰まってから、申し訳ないとは思いつつも帰宅後に月森に教わっていた。月森は快く教えてくれる。仕事中も気にせず聞いてほしいと優しく微笑んでくれた。
おかげで勉強がはかどり、いよいよ新人研修も来週からだ。
「あ、先輩もトイレですか?」
「月森も?」
食後にトイレに立つと、めずらしく月森と一緒になった。連れション、なんて言葉が浮かんで笑みがもれる。
「今日のお弁当もすごい美味かったです。ちくわの磯辺揚げ、また入れてほしいな」
「おっけー。あれ簡単だから助かる」
「あとピーマンのおかか和え、あれやっぱ好き」
「それいつも言うよね。じゃあ毎日入れようかな」
「やった。嬉しいです」
「え、本気?」
「もちろん本気ですよ?」
「え、マジで?」
ただトイレに行くだけでも月森と一緒だと嬉しい。
肩を並べて歩くだけで嬉しい。
どうしよう。心臓がうるさい。
なんか俺、重症かも……。
いやいや、雛の刷り込みだよな。
用を足したあと、コーヒーを入れて給湯室を出たところで「中村さんっ」と声をかけられた。復帰初日に給湯室で『アプローチしようかな』と言っていた女性、人事部の林さんだ。
「あ、あの、今日こそ一緒にお食事に行きませんかっ?」
もうこれで何度目の誘いだろう。やんわりと断り続けていてもきりがなさそうだな、と内心でため息をつく。
今は月森と一緒だ。できれば一人のときにしてほしかった。
「俺、先に戻ってますね」
「あ、ああ、うん」
どうせすぐに終わるから待っててくれてもいいのに。そう思ったが止めなかった。
毎日、月森への執着が増していく。月森の存在は俺にとってあまりにも大きすぎる。もはや離れると不安にかられるレベルで、自分でも少し……いやかなり困惑していた。
時折、新しい友達を作ろうかと考えることがあるが、そのたびに、俺には月森だけいてくれればいいという気持ちが強くなっていく。
「えっと、何度も誘ってくれてるのにごめんね」
もうはっきりと断ろう。できればこれで最後にしてほしい。
「全然記憶が戻らないし、今はちょっと気持ちに余裕がないんだ。だから、今はそういう気分にはなれなくて。本当、申し訳ないけど……」
嘘ついてごめん。記憶なんて戻らなくてもいいと思ってるのに、どの口が言うんだと自分でツッコみ心が痛む。
「あの……私、中村さんの力になりたいんです。そばにいて、中村さんが抱える悩みや不安を一緒に乗り越えていけたらって思ってます。中村さんを支えたいんです!」
すごく真剣なその瞳に、思わず胸を打たれた。
あの日、給湯室の話を盗み聞いた感じではそれほど真剣だと思っていなかった。だから今のはかなり胸に響いた。
よく見れば綺麗な子だ。俺なんかを気にかけてくれて、何度も誘ってくれて、支えになりたいとまで言ってくれる。
食事か……。一度くらい、行ってもいいかな……。
そんな考えが頭をよぎったとき、心の中に月森の姿が浮かび上がった。
月森の笑顔や、共に過ごした時間が脳裏を駆け巡る。
月森は毎日俺のそばにいて支えてくれている。
月森となら悩みや不安を分かち合って、一緒に乗り越えていける。
なにより、俺がずっとそばにいたいと思えるのは月森だ。
触れた肩が熱く感じたり、並んで歩くだけで心臓がうるさかったり……それでも何度も何度も気のせいだと自分に言い聞かせてきた。
でも今、やっと自分の気持ちをはっきりと自覚した。
月森を思い出すだけで胸が苦しいこの気持ちは、雛の刷り込みなんかじゃなかった。
俺はやっぱり月森が好きだ……好きなんだ。
強烈な感情の波が押し寄せて、一瞬めまいでふらついた。
「中村さんっ、大丈夫ですかっ?」
「……うん、大丈夫」
月森への気持ちは友情じゃなかった。男同士なのに……それでも俺は、月森が好きなんだ。どうしようもなく、好きなんだ。
「中村さん……?」
呼びかけられてハッとする。
「あ、ごめん」
「あの……やっぱり迷惑ですか……?」
彼女の顔を見て、一気に現実に引き戻された。
そうだ。月森を好きだという気持ち、男同士だということ、そんなことの前に大事なことがあった。
今は彼女にはっきりと答えを伝えなければならない。
でも、他に好きな人がいるなんて伝えるわけにはいかない。記憶のない今の俺のそばには、月森しかいないことは誰の目にも明らかだ。好きな人がいるなんて言えば、きっとすぐにバレてしまう。
だとすれば……他にはこれしかないだろうな……。
月森が好きだと自覚した今、急に現実感が増した重大な問題でもある。
「もし……いつか記憶が戻ったとき、今の記憶は消えるかもしれないんだ。今の俺が完全に消える可能性がある……。だから、今は誰かと付き合うなんて考えられないんだ。本当に……ごめん」
彼女もその可能性には気づいていたはずだ。あの日給湯室でそんな話をしていたのを俺は聞いている。
それでも彼女はショックを受けたようで、一瞬で顔を強ばらせた。
「……そ、……そう……ですか。……わかりました。何度も誘ってすみませんでした……」
彼女の声が震えていた。今にも涙がこぼれそうな表情を見て胸が痛む。
「本当にごめんね。でも、林さんの気持ちはすごく嬉しかったよ。本当にありがとね」
俺がそう笑いかけると、彼女は涙を堪えるような微笑みを浮かべた。
彼女のおかげで月森を好きだと自覚できた。感謝の気持ちと、傷つけてしまったことへの申し訳なさが募る。
本当にごめん。そして、ありがとう……。
林さんと別れてフロアに戻りながら、俺の心は複雑に入り乱れていた。
月森への気持ちに気づくことができた喜びと、急に襲われた不安と恐怖。
この気持ちがいつか、消えてしまうかもしれないという怖さ……。
今この瞬間に消える可能性だってある。
まるで綱渡りのような今の状況に、俺は記憶を失ってから初めて恐怖を感じていた。
メンバーは皆、のんびり一時間ゆっくりなんてする余裕がない。食べ終わったらすぐにまた仕事に戻れるように、誰も食堂には行かない。
やっぱりブラック企業だな。それともこの分野では普通なんだろうか。
自力の勉強に行き詰まってから、申し訳ないとは思いつつも帰宅後に月森に教わっていた。月森は快く教えてくれる。仕事中も気にせず聞いてほしいと優しく微笑んでくれた。
おかげで勉強がはかどり、いよいよ新人研修も来週からだ。
「あ、先輩もトイレですか?」
「月森も?」
食後にトイレに立つと、めずらしく月森と一緒になった。連れション、なんて言葉が浮かんで笑みがもれる。
「今日のお弁当もすごい美味かったです。ちくわの磯辺揚げ、また入れてほしいな」
「おっけー。あれ簡単だから助かる」
「あとピーマンのおかか和え、あれやっぱ好き」
「それいつも言うよね。じゃあ毎日入れようかな」
「やった。嬉しいです」
「え、本気?」
「もちろん本気ですよ?」
「え、マジで?」
ただトイレに行くだけでも月森と一緒だと嬉しい。
肩を並べて歩くだけで嬉しい。
どうしよう。心臓がうるさい。
なんか俺、重症かも……。
いやいや、雛の刷り込みだよな。
用を足したあと、コーヒーを入れて給湯室を出たところで「中村さんっ」と声をかけられた。復帰初日に給湯室で『アプローチしようかな』と言っていた女性、人事部の林さんだ。
「あ、あの、今日こそ一緒にお食事に行きませんかっ?」
もうこれで何度目の誘いだろう。やんわりと断り続けていてもきりがなさそうだな、と内心でため息をつく。
今は月森と一緒だ。できれば一人のときにしてほしかった。
「俺、先に戻ってますね」
「あ、ああ、うん」
どうせすぐに終わるから待っててくれてもいいのに。そう思ったが止めなかった。
毎日、月森への執着が増していく。月森の存在は俺にとってあまりにも大きすぎる。もはや離れると不安にかられるレベルで、自分でも少し……いやかなり困惑していた。
時折、新しい友達を作ろうかと考えることがあるが、そのたびに、俺には月森だけいてくれればいいという気持ちが強くなっていく。
「えっと、何度も誘ってくれてるのにごめんね」
もうはっきりと断ろう。できればこれで最後にしてほしい。
「全然記憶が戻らないし、今はちょっと気持ちに余裕がないんだ。だから、今はそういう気分にはなれなくて。本当、申し訳ないけど……」
嘘ついてごめん。記憶なんて戻らなくてもいいと思ってるのに、どの口が言うんだと自分でツッコみ心が痛む。
「あの……私、中村さんの力になりたいんです。そばにいて、中村さんが抱える悩みや不安を一緒に乗り越えていけたらって思ってます。中村さんを支えたいんです!」
すごく真剣なその瞳に、思わず胸を打たれた。
あの日、給湯室の話を盗み聞いた感じではそれほど真剣だと思っていなかった。だから今のはかなり胸に響いた。
よく見れば綺麗な子だ。俺なんかを気にかけてくれて、何度も誘ってくれて、支えになりたいとまで言ってくれる。
食事か……。一度くらい、行ってもいいかな……。
そんな考えが頭をよぎったとき、心の中に月森の姿が浮かび上がった。
月森の笑顔や、共に過ごした時間が脳裏を駆け巡る。
月森は毎日俺のそばにいて支えてくれている。
月森となら悩みや不安を分かち合って、一緒に乗り越えていける。
なにより、俺がずっとそばにいたいと思えるのは月森だ。
触れた肩が熱く感じたり、並んで歩くだけで心臓がうるさかったり……それでも何度も何度も気のせいだと自分に言い聞かせてきた。
でも今、やっと自分の気持ちをはっきりと自覚した。
月森を思い出すだけで胸が苦しいこの気持ちは、雛の刷り込みなんかじゃなかった。
俺はやっぱり月森が好きだ……好きなんだ。
強烈な感情の波が押し寄せて、一瞬めまいでふらついた。
「中村さんっ、大丈夫ですかっ?」
「……うん、大丈夫」
月森への気持ちは友情じゃなかった。男同士なのに……それでも俺は、月森が好きなんだ。どうしようもなく、好きなんだ。
「中村さん……?」
呼びかけられてハッとする。
「あ、ごめん」
「あの……やっぱり迷惑ですか……?」
彼女の顔を見て、一気に現実に引き戻された。
そうだ。月森を好きだという気持ち、男同士だということ、そんなことの前に大事なことがあった。
今は彼女にはっきりと答えを伝えなければならない。
でも、他に好きな人がいるなんて伝えるわけにはいかない。記憶のない今の俺のそばには、月森しかいないことは誰の目にも明らかだ。好きな人がいるなんて言えば、きっとすぐにバレてしまう。
だとすれば……他にはこれしかないだろうな……。
月森が好きだと自覚した今、急に現実感が増した重大な問題でもある。
「もし……いつか記憶が戻ったとき、今の記憶は消えるかもしれないんだ。今の俺が完全に消える可能性がある……。だから、今は誰かと付き合うなんて考えられないんだ。本当に……ごめん」
彼女もその可能性には気づいていたはずだ。あの日給湯室でそんな話をしていたのを俺は聞いている。
それでも彼女はショックを受けたようで、一瞬で顔を強ばらせた。
「……そ、……そう……ですか。……わかりました。何度も誘ってすみませんでした……」
彼女の声が震えていた。今にも涙がこぼれそうな表情を見て胸が痛む。
「本当にごめんね。でも、林さんの気持ちはすごく嬉しかったよ。本当にありがとね」
俺がそう笑いかけると、彼女は涙を堪えるような微笑みを浮かべた。
彼女のおかげで月森を好きだと自覚できた。感謝の気持ちと、傷つけてしまったことへの申し訳なさが募る。
本当にごめん。そして、ありがとう……。
林さんと別れてフロアに戻りながら、俺の心は複雑に入り乱れていた。
月森への気持ちに気づくことができた喜びと、急に襲われた不安と恐怖。
この気持ちがいつか、消えてしまうかもしれないという怖さ……。
今この瞬間に消える可能性だってある。
まるで綱渡りのような今の状況に、俺は記憶を失ってから初めて恐怖を感じていた。
212
お気に入りに追加
210
あなたにおすすめの小説
素直じゃない人
うりぼう
BL
平社員×会長の孫
社会人同士
年下攻め
ある日突然異動を命じられた昭仁。
異動先は社内でも特に厳しいと言われている会長の孫である千草の補佐。
厳しいだけならまだしも、千草には『男が好き』という噂があり、次の犠牲者の昭仁も好奇の目で見られるようになる。
しかし一緒に働いてみると噂とは違う千草に昭仁は戸惑うばかり。
そんなある日、うっかりあられもない姿を千草に見られてしまった事から二人の関係が始まり……
というMLものです。
えろは少なめ。
僕のために、忘れていて
ことわ子
BL
男子高校生のリュージは事故に遭い、最近の記憶を無くしてしまった。しかし、無くしたのは最近の記憶で家族や友人のことは覚えており、別段困ることは無いと思っていた。ある一点、全く記憶にない人物、黒咲アキが自分の恋人だと訪ねてくるまでは────
俺の好きな男は、幸せを運ぶ天使でした
たっこ
BL
【加筆修正済】
7話完結の短編です。
中学からの親友で、半年だけ恋人だった琢磨。
二度と合わないつもりで別れたのに、突然六年ぶりに会いに来た。
「優、迎えに来たぞ」
でも俺は、お前の手を取ることは出来ないんだ。絶対に。
それでも僕は君がいい
Q.➽
BL
底辺屑Dom×高スペ王子様系Sub
低スペックで暗くて底意地の悪いDomに何故か惚れきってる高スペック美形Sub男子の、とっても短い話。
王子様系Subにちょっかいかけてる高位Domもいます。
※前中後編の予定でしたが、後編が長くなったので4話に変更しました。
◇大野 悠蘭(ゆらん) 19/大学生 Sub
王子様系美形男子、178cm
秋穂の声に惹かれて目で追う内にすっかり沼。LOVELOVEあいしてる。
◇林田 秋穂(あきほ)19/大学生 Dom
陰キャ系三白眼地味男子 170cm
いじめられっ子だった過去を持つ。
その為、性格がねじ曲がってしまっている。何故かDomとして覚醒したものの、悠蘭が自分のような底辺Domを選んだ事に未だ疑心暗鬼。
◇水城 颯馬(そうま)19/大学生 Dom
王様系ハイスペ御曹司 188cm
どっからどう見ても高位Dom
一目惚れした悠蘭が秋穂に虐げられているように見えて不愉快。どうにか俺のSubになってくれないだろうか。
※連休明けのリハビリに書いておりますのですぐ終わります。
※ダイナミクスの割合いはさじ加減です。
※DomSubユニバース初心者なので暖かい目で見守っていただければ…。
激しいエロスはございませんので電車の中でもご安心。
僕の宿命の人は黒耳のもふもふ尻尾の狛犬でした!【完結】
華周夏
BL
かつての恋を彼は忘れている。運命は、あるのか。繋がった赤い糸。ほどけてしまった赤い糸。繋ぎ直した赤い糸。切れてしまった赤い糸──。その先は?糸ごと君を抱きしめればいい。宿命に翻弄される神の子と、眷属の恋物語【*マークはちょっとHです】
記憶喪失のふりをしたら後輩が恋人を名乗り出た
キトー
BL
【BLです】
「俺と秋さんは恋人同士です!」「そうなの!?」
無気力でめんどくさがり屋な大学生、露田秋は交通事故に遭い一時的に記憶喪失になったがすぐに記憶を取り戻す。
そんな最中、大学の後輩である天杉夏から見舞いに来ると連絡があり、秋はほんの悪戯心で夏に記憶喪失のふりを続けたら、突然夏が手を握り「俺と秋さんは恋人同士です」と言ってきた。
もちろんそんな事実は無く、何の冗談だと啞然としている間にあれよあれよと話が進められてしまう。
記憶喪失が嘘だと明かすタイミングを逃してしまった秋は、流れ流され夏と同棲まで始めてしまうが案外夏との恋人生活は居心地が良い。
一方では、夏も秋を騙している罪悪感を抱えて悩むものの、一度手に入れた大切な人を手放す気はなくてあの手この手で秋を甘やかす。
あまり深く考えずにまぁ良いかと騙され続ける受けと、騙している事に罪悪感を持ちながらも必死に受けを繋ぎ止めようとする攻めのコメディ寄りの話です。
【主人公にだけ甘い後輩✕無気力な流され大学生】
反応いただけるととても喜びます!誤字報告もありがたいです。
ノベルアップ+、小説家になろうにも掲載中。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる