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8 今の記憶は消えるのかな
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テキストだけで自力の勉強にも限度があった。わからないところがあっても質問もできない。まさか仕事中の月森に聞くわけにもいかないし……。
先日また顔を見せに来た部長が、必死で勉強をする俺に言った。
「思い出せそうだっていうなら止めないが、そうじゃないないなら勉強は研修のときでいい。もう来月だ。すぐだろ。無理すんな」
指導者がいないと行き詰ることはわかっていたんだろう。
「いえでも、それだと何もやることがなくて……」
「なんとなく眺めてりゃいいよ。ふっと思い出すかもしれないだろ? それが無理なら研修で覚えればいい。あんまり根詰めるなよ?」
部長の言葉に、皆も「そうそう」と同意する。戦力が一人欠けて大変なはずなのに、誰も俺を責めない。皆が優しくて温かい。
勉強が行き詰まり、もうできることが何もなくなった。定時にはまだ一時間近くあるし、明日からだって毎日何をすればいいだろうか。
何か手伝うことがないかとメンバーに声をかけて回ろうにも、皆PCにかじりつきで迷惑がかかりそうだし、今までも無かったんだ、きっと無いだろう。チームリーダーは午後からずっと自席でオンライン会議をしていて忙しそうだ。
ちらっと月森を見ると目が合った。
「先輩、この設計書見てみますか?」
「設計書? ……俺が?」
「はい。何か思い出すかもしれませんし」
月森は思い出してほしくないんだろう?
そう喉まで出かかったが呑み込んだ。
「うん、じゃあ見てみるかな」
そう答えると、月森は立ち上がり俺のPCを操作し始めた。
「これが設計書です。スクロールしながら眺めてみてください」
「うん、ありがと」
目の前のモニターに、月森のPCモニターと同じものが映し出されている。
何度見ても、俺がこれを設計できる気が全くしない。
早く研修に参加して技術を身につけたい。
そうすれば、このままの俺でいてもいいかな。
記憶が戻らなくても、これからも月森と毎日楽しく一緒に……。
「あ……これ……」
月森が俺のつぶやきに敏感に反応し、椅子ごとこちらに寄ってくる。
「……どうしました? 先輩」
「いや……これ、さ」
相変わらず設計書の中身はさっぱりわからない。
わからないのに、そのプログラムの一部が脳に焼き付いているかのように、ぶわっと頭の中によみがえる。それはものすごく不思議な感覚だった。
「これ……この部分、すごい苦労した記憶が……」
「……あ、この機能は……そうですね。何度も作り直して徹夜で仕上げた部分です」
「……そうなんだ」
「先輩……記憶が……?」
そう問いかける月森の瞳がゆれている。先日と同じく、目の前には怯える月森の顔。
大丈夫だよ、月森。驚かせてごめんな。
「いや、ただ苦労したっていう記憶だけ。身体がバスケを覚えてたってのと同じような感覚かな」
「……そう、ですか」
月森が落胆した風を装ってホッとしたのを見抜き、また嬉しくなった。
やっぱりだ。月森は前の俺よりも、今の俺のほうがいいんだ。
嬉しい。やばい。すごい嬉しい。
……ただ、その一方で怖さも感じた。
新人研修に参加したら、記憶が戻ってしまうかもしれない。
戻らずこのままでいられるだろうか……。
もし記憶が戻った時、今の俺はどうなるんだろう。
今の記憶は、消えるんだろうか――――…………
◇
「月森、明日はバスケがいい」
金曜の夜、俺は月森をバスケに誘った。
月森に連れ出されるばかりはもう終わり。そろそろ俺も主張しよう。
「体育館って九時からだよね? 明日は朝一で行こう」
月森は嬉しそうに「了解です」と満面の笑みをこぼした。
翌朝は朝一で体育館に入り、一般の部のギリギリ十三時までびっちりバスケを堪能した俺は、壁にもたれて座り込んだ。
「あーとうとう負けちゃいました」
それほど悔しそうでもない声色で、隣に腰をおろした月森の肩が触れて、ドキッとする。
……近くない? いや、これが普通? 意識するほうが変?
わからない。わからないなら……このままでいいか。うん、いいよな。
ちらっと月森を見るとさわやかに微笑まれ、触れてるところが熱く感じた。
意識してると悟られないようタオルで汗を拭いながら視界をさえぎり、なんとか平静を装った。
「なんかやっと本調子になってきた気がするわ。俺って結構上手かった?」
体格や身長、技術、どれをとっても月森のほうが格上だ。それでも俺のほうが小回りが効く分、有利な時もあった。
「俺にバスケ教えたのは先輩ですもん。そりゃそうですよ」
「え、そうなの?」
「そうですよ。もっと本調子になれば、俺なんていつも惨敗です」
「まじか」
「で、俺は何をしましょうか?」
なかなか勝てない俺に「もし勝てたらなんでも言うこと聞きますよ」と言い出したのは月森だった。
やっと勝ち取ることができた。ほんと、やっとだ。
「んー、じゃあ今日の夕飯は月森の手料理がいいな」
「えっ。……俺、ほんと何も作れないですよ……?」
「全然?」
「……はい」
困った顔で、しょぼんとする月森が可愛い。
「なんでもいいよ、何が作れそう? 俺も手伝うからさ」
「……袋ラーメン?」
「まじか。そのレベル? 炒飯とかは?」
「……作ったことないです」
「じゃあ今日作ろ。初チャレンジ」
「え……大丈夫かな……」
「俺が教えるって。大丈夫だって」
「……じゃあ、やってみます」
「よしっ」
これはもしかしなくても、前の俺も食べたことのない月森の手料理だよな。そうだよな。
やばい。すごい嬉しい。テンション上がる。
その夜、冷蔵庫の中から材料を選ぶ月森を眺めているだけで、もう可愛くてたまらなかった。
大根やきゅうりを手に取って首をかしげたり、卵を取り出せば落として割るし、カット済みの冷凍ベーコンに輝くような笑顔を見せたり、本当に見ていて飽きない。
包丁を手に野菜を切る姿は、大きな身体でオロオロとして、でも手元を見つめる瞳は真剣で、どうしてこんなに可愛いのかと悩んでしまうほどだった。もう、キッチンに飛び散った玉ねぎやニンジンすら可愛いくて頬がゆるむ。
炒め始めてからはさらに眼力が強くなり、完全にフライパンを睨んでいるのも、ただただ可愛い。もう月森、本当に可愛い。毎日キッチンに立ってほしいな。
最後に出来上がった炒飯をじとりと睨んでから、「出来ました!」と満面の笑みを見せる月森に、可愛すぎるだろう! と本気で悶えそうになった。
「うん、美味しい!」
「えっ、ほんとですか?」
「すごい美味しいよ! 食べてみ?」
「……ん、まあまあ、ですかね?」
「すごい美味しいって!」
「あ、ありがとうございます。先輩」
頬を染めて照れる月森に、最高に癒される。
出来上がった炒飯は、味が混ざりきらずに色がまだらで野菜は不揃い。見た目はお世辞にも褒められるものではなかったけれど、俺が記憶を失ってから食べた料理の中で一番美味しかった。
もしいつか記憶が戻って今の記憶が消えたとしても、月森が一生懸命に作ったこの炒飯の記憶だけは絶対に消えてほしくない。
前の俺にこの記憶を渡すのは悔しいけれど、この日の月森だけは一生覚えていたい。そう思った。
先日また顔を見せに来た部長が、必死で勉強をする俺に言った。
「思い出せそうだっていうなら止めないが、そうじゃないないなら勉強は研修のときでいい。もう来月だ。すぐだろ。無理すんな」
指導者がいないと行き詰ることはわかっていたんだろう。
「いえでも、それだと何もやることがなくて……」
「なんとなく眺めてりゃいいよ。ふっと思い出すかもしれないだろ? それが無理なら研修で覚えればいい。あんまり根詰めるなよ?」
部長の言葉に、皆も「そうそう」と同意する。戦力が一人欠けて大変なはずなのに、誰も俺を責めない。皆が優しくて温かい。
勉強が行き詰まり、もうできることが何もなくなった。定時にはまだ一時間近くあるし、明日からだって毎日何をすればいいだろうか。
何か手伝うことがないかとメンバーに声をかけて回ろうにも、皆PCにかじりつきで迷惑がかかりそうだし、今までも無かったんだ、きっと無いだろう。チームリーダーは午後からずっと自席でオンライン会議をしていて忙しそうだ。
ちらっと月森を見ると目が合った。
「先輩、この設計書見てみますか?」
「設計書? ……俺が?」
「はい。何か思い出すかもしれませんし」
月森は思い出してほしくないんだろう?
そう喉まで出かかったが呑み込んだ。
「うん、じゃあ見てみるかな」
そう答えると、月森は立ち上がり俺のPCを操作し始めた。
「これが設計書です。スクロールしながら眺めてみてください」
「うん、ありがと」
目の前のモニターに、月森のPCモニターと同じものが映し出されている。
何度見ても、俺がこれを設計できる気が全くしない。
早く研修に参加して技術を身につけたい。
そうすれば、このままの俺でいてもいいかな。
記憶が戻らなくても、これからも月森と毎日楽しく一緒に……。
「あ……これ……」
月森が俺のつぶやきに敏感に反応し、椅子ごとこちらに寄ってくる。
「……どうしました? 先輩」
「いや……これ、さ」
相変わらず設計書の中身はさっぱりわからない。
わからないのに、そのプログラムの一部が脳に焼き付いているかのように、ぶわっと頭の中によみがえる。それはものすごく不思議な感覚だった。
「これ……この部分、すごい苦労した記憶が……」
「……あ、この機能は……そうですね。何度も作り直して徹夜で仕上げた部分です」
「……そうなんだ」
「先輩……記憶が……?」
そう問いかける月森の瞳がゆれている。先日と同じく、目の前には怯える月森の顔。
大丈夫だよ、月森。驚かせてごめんな。
「いや、ただ苦労したっていう記憶だけ。身体がバスケを覚えてたってのと同じような感覚かな」
「……そう、ですか」
月森が落胆した風を装ってホッとしたのを見抜き、また嬉しくなった。
やっぱりだ。月森は前の俺よりも、今の俺のほうがいいんだ。
嬉しい。やばい。すごい嬉しい。
……ただ、その一方で怖さも感じた。
新人研修に参加したら、記憶が戻ってしまうかもしれない。
戻らずこのままでいられるだろうか……。
もし記憶が戻った時、今の俺はどうなるんだろう。
今の記憶は、消えるんだろうか――――…………
◇
「月森、明日はバスケがいい」
金曜の夜、俺は月森をバスケに誘った。
月森に連れ出されるばかりはもう終わり。そろそろ俺も主張しよう。
「体育館って九時からだよね? 明日は朝一で行こう」
月森は嬉しそうに「了解です」と満面の笑みをこぼした。
翌朝は朝一で体育館に入り、一般の部のギリギリ十三時までびっちりバスケを堪能した俺は、壁にもたれて座り込んだ。
「あーとうとう負けちゃいました」
それほど悔しそうでもない声色で、隣に腰をおろした月森の肩が触れて、ドキッとする。
……近くない? いや、これが普通? 意識するほうが変?
わからない。わからないなら……このままでいいか。うん、いいよな。
ちらっと月森を見るとさわやかに微笑まれ、触れてるところが熱く感じた。
意識してると悟られないようタオルで汗を拭いながら視界をさえぎり、なんとか平静を装った。
「なんかやっと本調子になってきた気がするわ。俺って結構上手かった?」
体格や身長、技術、どれをとっても月森のほうが格上だ。それでも俺のほうが小回りが効く分、有利な時もあった。
「俺にバスケ教えたのは先輩ですもん。そりゃそうですよ」
「え、そうなの?」
「そうですよ。もっと本調子になれば、俺なんていつも惨敗です」
「まじか」
「で、俺は何をしましょうか?」
なかなか勝てない俺に「もし勝てたらなんでも言うこと聞きますよ」と言い出したのは月森だった。
やっと勝ち取ることができた。ほんと、やっとだ。
「んー、じゃあ今日の夕飯は月森の手料理がいいな」
「えっ。……俺、ほんと何も作れないですよ……?」
「全然?」
「……はい」
困った顔で、しょぼんとする月森が可愛い。
「なんでもいいよ、何が作れそう? 俺も手伝うからさ」
「……袋ラーメン?」
「まじか。そのレベル? 炒飯とかは?」
「……作ったことないです」
「じゃあ今日作ろ。初チャレンジ」
「え……大丈夫かな……」
「俺が教えるって。大丈夫だって」
「……じゃあ、やってみます」
「よしっ」
これはもしかしなくても、前の俺も食べたことのない月森の手料理だよな。そうだよな。
やばい。すごい嬉しい。テンション上がる。
その夜、冷蔵庫の中から材料を選ぶ月森を眺めているだけで、もう可愛くてたまらなかった。
大根やきゅうりを手に取って首をかしげたり、卵を取り出せば落として割るし、カット済みの冷凍ベーコンに輝くような笑顔を見せたり、本当に見ていて飽きない。
包丁を手に野菜を切る姿は、大きな身体でオロオロとして、でも手元を見つめる瞳は真剣で、どうしてこんなに可愛いのかと悩んでしまうほどだった。もう、キッチンに飛び散った玉ねぎやニンジンすら可愛いくて頬がゆるむ。
炒め始めてからはさらに眼力が強くなり、完全にフライパンを睨んでいるのも、ただただ可愛い。もう月森、本当に可愛い。毎日キッチンに立ってほしいな。
最後に出来上がった炒飯をじとりと睨んでから、「出来ました!」と満面の笑みを見せる月森に、可愛すぎるだろう! と本気で悶えそうになった。
「うん、美味しい!」
「えっ、ほんとですか?」
「すごい美味しいよ! 食べてみ?」
「……ん、まあまあ、ですかね?」
「すごい美味しいって!」
「あ、ありがとうございます。先輩」
頬を染めて照れる月森に、最高に癒される。
出来上がった炒飯は、味が混ざりきらずに色がまだらで野菜は不揃い。見た目はお世辞にも褒められるものではなかったけれど、俺が記憶を失ってから食べた料理の中で一番美味しかった。
もしいつか記憶が戻って今の記憶が消えたとしても、月森が一生懸命に作ったこの炒飯の記憶だけは絶対に消えてほしくない。
前の俺にこの記憶を渡すのは悔しいけれど、この日の月森だけは一生覚えていたい。そう思った。
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