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10.水葬の場

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 うっすら、疑問に思っていたことがある。

 深く考えてしまえば、胸の底にわだかまる不安が首をもたげ、粘つく泥のように私を引きずり込む。だからなるべく考えず、見ないようにしていた疑問──別に、ヴァイス公子のことではない。彼は目に見える災害であって、いつも容赦なく私を巻き込んでくるからだ。その度に対応に追われ、目を凝らして反撃の機を伺い、「この野郎いつか思い知らせてやる」と歯軋りする。そんなことをしているうちに、本当に深く根強い疑問からは目を逸らしていた。

 それがこれまでの私だった。

 でも、やっぱり、いつまでも逸らし続けるわけにはいかなかったのだろう。

「我らが女神……どうぞお目覚め下さい」
「矮小な人の器を捨て……我らに救いを」
「女神……ご顕現を」

 目の前に、粗末な僧衣姿の男たちが跪いている。つるつるに剃った頭頂が、暗がりを照らす灯火に輝く。私のいた大神殿では、頭を剃る規則は無かったのだけれど、ここでは違うのね、などと現実逃避気味に考える。

「……顔を上げなさい」

 気付かれないように喉を整えてから、なんとか威厳を保った声を押し出した。

 ただの少女を誘拐してきた、などと思われては困るのである。大聖女であり聖女王である私を誘拐した、大陸中の神殿が黙ってはいまい。この事態の重さに気付いて震えて貰わねば困る。

 なぜなら、私には何一つ、身を護る術がないからだ。

(……私、本当に何もできない)

 女神の器であることは間違いない。神殿によって認定もされている。でも、

(国一つ護るための結界なんて、張れない)
(本当は未来視なんて出来ない)
(多少の癒やしの術しか使えない)

 聖女というのは、あれだ。追い出せば国が滅びる。手荒に扱えば女神の罰が下る。数々の婚約破棄系王子を破滅に至らしめてきた猛者たち。

 それに比べて、私は明らかに劣化版だ。女神信仰の象徴として崇められているので、それでも特に問題は無かったのだけれど。その信仰の盾を失い、剥き出しの暴力に晒されれば、私はこんなにも弱い。ただの無力な小娘に過ぎない。






 今でもたまに、夢に見る。

 診療所の二階に駆け上がって、窓の外に広がる光景を視界に収めた時のことだ。

 田舎の小さな町は、兵士の群れに取り巻かれていた。見渡す限り陽光を反射して、鎧と槍の穂先のギラつく光が散る。圧倒的な物量の群れ。

 直接的な暴力を、こんなにもあからさまに誇示されるのは初めてだった。

(……なぜ、ここまで)

 握り締めた掌の内側が、じっとりと汗で湿った。

「聖女様。我々にご同行願います」

 無機質な声が、私の背後から聞こえた。

 金属の擦れ合う音と共に、兵士たちが立ち尽くす私を囲む輪を狭めてきた。彼らの軍装から見て、「帝国兵だ」と悟る。女神の信仰者は多く、本来なら私の敵に回る相手ではない。

「どうぞ、我らが帝国へ」
「大公国の犬どものくびきを逃れて、我らの元で平穏にお過ごし下さい」

 平穏にお過ごし下さい? これだけ脅迫する気満々なのに?

(いい加減にしないと、ヴァイス公子をぶつけるわよ)

 乾いた笑いと共に、浮かんで来たのはそんな言葉だった。

 それから、外の見えない護送用の馬車に閉じ込められ、帝都に運ばれ。そこでも神殿の一室に閉じ込められ、自由な行動を封じられて。すっかりやさぐれた気分になっていた私は度々、その言葉を(心中で)繰り返した。

「ヴァイス公子をぶつけるわよ」

 そう、奴をぶつければいいのだ。私にとっての災厄。偽物の友人。災厄に災厄をぶつけられれば、両者ともに消滅してくれるかもしれない。

 そんな妄想を繰り広げれば、少しは気分がすっとして、前を向いていられた。

(……ヴァイス公子、ありがとう。貴方のお陰で、少しは気が紛れたわ)

 だが、それも限界に来ているようだ。

 今、私は神殿の儀式の場に引きずり出されている。一般市民らしい服はすでに剥がされて、白い麻地のローブにベールを纏わされ、聖女らしい……というより、これから犠牲にされる生贄らしい服装だ。

 儀式の場は大神殿とほぼ同じ造りで、頭上には夜空。私の背後には、底の見えない清めの水盤が暗い水を湛えて、ちゃぷん、ちゃぷんと細かく波打っている。そして、私の前に跪く神官たちは皆、幅広の無骨なナイフを手にしている。

 ナイフ?

 脈打つ心臓の音を抑えながら、冷静に彼らを見定めようとする。いや、冷静とか無理だけれど。明らかに、私が生贄で、彼らが執行者。私は女神の器で、聖女だ──そのはずではなかったの?

「……何をするつもりですか。女神の怒りが下るのを恐れないのですか」

 震えないように低めながら、抑えた怒りが伝わる声を出そうとした。

 いつだって私の武器は取り繕った威厳と、はったりしかないのだ。

「女神は喜ばれましょう。長く封じ込められたご無念を晴らす機会なれば」

 最年長格の神官が、顔を俯けたままもごもごと言う。

「元々、女神とは最凶の暴威。怨念のまま大地を割る最強の災害。我らはその意のままに、神の真の姿を取り戻さねばならんのです」
「……何を言っているの」
「ようやく悲願が叶うのです!」

 神官が顔を上げた。その老いた顔全体に滂沱とした涙が流れ落ちて、その中には狂信者の目がギラついて光っていた。私はぞっとした。

「いつまでも大公国の封じた器などに閉じ込めさせてなるものか。我らは取り戻す……取り戻すのだ!」

 ナイフが振り上げられた。老人とは思えぬ敏捷な動きで、神官がこちらに駆け寄ってくる。同時に闇の中に複数のナイフがきらめいて、私は呼吸を忘れた。

「……っ」

 咄嗟に身体を捻って、ナイフの軌道をかわす。後ずさった踵が、清めの水盤に触れて洗われた。そのまま、片足を水盤の底につくのかと思ったが……

(え?)

 水盤の底が、無かった。

 浅い水ではないと思っていた。底は見えていなかったからだ。しかし、人一人を呑み込むのに足る底無しの水だとは思っていなかった。

「わっ」

 もう一人の神官が振り上げてきたナイフを見て、よろめいたとき。私はすでに腰まで水に浸かっていて、次の瞬間、どぷん、と音がして全身が呑まれた。

 ほんのり冷たい水が、私の身体を包む。

 甘く、どこか腐臭に似た、それでいて清廉な。

 息ができない、と悶えるより先に、奇妙な懐かしさが私の中に流れ込んだ。目を見開き、水盤の遥か底に沈んだ石碑を認め、そこに刻まれた文字を見る。

 ひとりでに浮かび上がるように、刻まれた言葉が私の中を流れた。

『我が愛する息子、ウロスの為に』

 ウロス。

 ウロスとは、誰だった? 以前、その名をどこで聞いた? どこで見た?

 魔獣。前世で目にしたゲームのイベント。歪みの神ウロスの眷属が作り出した魔物──

「俺はあちこちで戦の火種を潰して回ってる最中だが、それでも厄介なやつが多くてね」「帝国との関わりが少し厄介でね、完全解決にまでは至っていない」確かそう言っていた、あの人が……

 けれど、それ以上は考えられなかった。

 暗い水が渦巻いた。私を押し潰そうとするかのように、滅茶苦茶にうねり、咆哮する。翻弄された私の思考がほどける中で、

──奪え!
──我からウロスを奪った者から。全て蹂躙し、奪い尽くし、滅ぼせ。
──人を、滅ぼせ!

 私の思考ではない。でも、私の胸の底の一部から来ていた。不穏な轟き。私の思考を塗り潰そうとする、黒く憎悪に満ちた叫び。

(……嫌だ!)

 憎悪に落ちるのは嫌だ。身体を明け渡すのは嫌だ。私が私で無くなるのは嫌だ。

 たとえどんなに弱くても。

 最後まで藻掻いてみせる。抗ってみせる。

「……!」

 必死に手を伸ばす。引きずり込まれて行く水の中で暴れ、頭上に手を伸ばした。その手をぐいと掴まれ、引きずり上げられる。

 あっけなく身体が浮かんだ。水盤の縁に手が掛かる。ゲホゲホとむせて水を吐き出しながら、ひどく久しぶりのように思える空気を吸い込んだ。頭が朦朧としている。当たり前だ。

 その朦朧とした目を開いて、私を引き上げた相手を見上げた。予想通りだ。全く想定内の相手が、暗がりで私を見下ろしていた。

 くすんだ金色の髪。今は両眼を開いていて、灰色の目と淡青色の目が同時にこちらを見ていた。その綺麗に澄んだ色が、今は無性に気に障った。

「……この、嘘つき公子が……!」

 気遣うような目で見られているのは分かっていた。だが、物事には絶対的な順序というものがある。後で助けられたお礼を言い、事情を聞くにしても、「今度会ったら腹に一撃入れてやる」と思っていたのだ。それがただの八つ当たりだとしても。

「いい加減に全部まともに真実を話しなさいコラァ!!!」

 ふらつく足を踏みしめながら、私は彼に近付き、その腹に膝蹴りを打ち込んだ。
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