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1.私と猫のトールキンについて
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「5歳になったうちの子も、シフェリア小母さんに会いたいと言っているの。だから是非、うちに遊びに来て、か……」
ぺらりと、薄様の紙が机の上に落ちる。
それを再び掬い上げて、指先で紙の端を弄びながら、私は窓辺へと視線を投げた。
「ねえ、トールキン。このお誘い、どう思う?」
窓辺、それもかなり細めの窓枠の上。どう見ても全重量が支えきれないであろう位置に、見事な肉を蓄えた愛猫が、寛ぎきった体躯を悠揚迫らぬ王者の風格で伸ばしている。それはもう、猫に見えなくなる一歩手前の状態まで伸びている。いつか転がり落ちるんじゃないのか、と私はひそかに案じているのだが、今のところそのような不祥事は起きていない。
「子供には皆、余所の女性は幾つであろうとお姉さんと呼ぶ、って教えておいてくれればいいのに。おばさん、おばさん、って一日中呼ばれるのは結構しんどいわ」
私は三十代。そして、独身。
今の世の中では、それほど珍しい境遇ではない。「オールドミス」「嫁き遅れ」と、やや古い言い方で揶揄されることもあるけれど、女性が働くのも珍しいことではないし、私のように独りで暮らしている女性も沢山いる。
一つには、数年前に終結した大きな戦争のせいだろう。
残された傷痕は深かった。私たちの少し上の世代は、「昔は毎晩のようにダンスパーティーが開かれていた」などと懐かしそうに語るが、私たちには縁遠すぎる話だ。かつては中流どころの家でも召使いを雇っていて、飾り立てた御者を馬車の御者台に乗せ、それぞれのお屋敷を訪問し合っていたというけれど、今となってはお伽噺に過ぎない。持ったことのない財産に、未練を感じるわけがない。私は小さな家に住んで、料理も洗濯も自分でやるし、靴下の穴だって自分でかがるけれど、そんな生活が辛いと思ったことはない。
「人にあれこれ言われさえしなければ、今が一番最高の日々だと思うわ。トールキンもそう思うでしょう?」
私の怠惰な愛猫は、「俺はもっと寝ていたかったのによ」というような目付きで私を睨むと、それでもぎりぎりの温情で「ぶにゃ」と同意してくれた。
「ふふ」
私は笑みを誘われた。
数年前に迷い込んできたトールキンは、最初の夜こそ大人しく、可愛らしく取り澄まして、私が用意したミルクとハムを食んでいたけれど、そのまま私の家を乗っ取ることに決めたらしい。それ以来、偏屈な彼と共同生活を営んでいるが、それなりに上手くやれていると思う。今では彼の相棒として認められている気がするほどだ。
「トールキン、貴方が主役のお話を書こうと思うの」
旧友のお誘いの手紙を文箱に落とし込むと、私はまっさらなノートを机の上に開いた。
「貴方が呪いを掛けられた王子様。猫の姿で彷徨っているうちに、ほっそりした綺麗な黒猫と出会うの。それがやっぱり呪いを掛けられたお姫様で……」
さらさらと、ペンが文字を紡ぎ出していく。
まるで文字が独りでに書かれたがっているみたいで、迷うことがない。壁掛け時計の音が途絶え、私の意識は物語の中に埋没して、主人公と共に歩き、その運命を覗き見する。魔法のような時間。私だけが持つ、私だけの王国。
(そう、絶対に結婚なんてしないわ)
今が幸せなのだから。
飼い猫に話し掛け、誰の役にも立たない物語を書くことに熱中する独り暮らしの女。それほど若くもない。世間は「痛い」と言うだろう。余計なお世話だ。
「トールキン王子は、黒猫のお姫様と一緒に、誰にも侵されない最果ての王国に辿り着くの」
私は心の中に、誰にも邪魔されない想像の王国を築いている。
そこに入って来られるのは、物語の王子や騎士だけだ。
他の誰に何と言われようと、知ったことではない。
ぺらりと、薄様の紙が机の上に落ちる。
それを再び掬い上げて、指先で紙の端を弄びながら、私は窓辺へと視線を投げた。
「ねえ、トールキン。このお誘い、どう思う?」
窓辺、それもかなり細めの窓枠の上。どう見ても全重量が支えきれないであろう位置に、見事な肉を蓄えた愛猫が、寛ぎきった体躯を悠揚迫らぬ王者の風格で伸ばしている。それはもう、猫に見えなくなる一歩手前の状態まで伸びている。いつか転がり落ちるんじゃないのか、と私はひそかに案じているのだが、今のところそのような不祥事は起きていない。
「子供には皆、余所の女性は幾つであろうとお姉さんと呼ぶ、って教えておいてくれればいいのに。おばさん、おばさん、って一日中呼ばれるのは結構しんどいわ」
私は三十代。そして、独身。
今の世の中では、それほど珍しい境遇ではない。「オールドミス」「嫁き遅れ」と、やや古い言い方で揶揄されることもあるけれど、女性が働くのも珍しいことではないし、私のように独りで暮らしている女性も沢山いる。
一つには、数年前に終結した大きな戦争のせいだろう。
残された傷痕は深かった。私たちの少し上の世代は、「昔は毎晩のようにダンスパーティーが開かれていた」などと懐かしそうに語るが、私たちには縁遠すぎる話だ。かつては中流どころの家でも召使いを雇っていて、飾り立てた御者を馬車の御者台に乗せ、それぞれのお屋敷を訪問し合っていたというけれど、今となってはお伽噺に過ぎない。持ったことのない財産に、未練を感じるわけがない。私は小さな家に住んで、料理も洗濯も自分でやるし、靴下の穴だって自分でかがるけれど、そんな生活が辛いと思ったことはない。
「人にあれこれ言われさえしなければ、今が一番最高の日々だと思うわ。トールキンもそう思うでしょう?」
私の怠惰な愛猫は、「俺はもっと寝ていたかったのによ」というような目付きで私を睨むと、それでもぎりぎりの温情で「ぶにゃ」と同意してくれた。
「ふふ」
私は笑みを誘われた。
数年前に迷い込んできたトールキンは、最初の夜こそ大人しく、可愛らしく取り澄まして、私が用意したミルクとハムを食んでいたけれど、そのまま私の家を乗っ取ることに決めたらしい。それ以来、偏屈な彼と共同生活を営んでいるが、それなりに上手くやれていると思う。今では彼の相棒として認められている気がするほどだ。
「トールキン、貴方が主役のお話を書こうと思うの」
旧友のお誘いの手紙を文箱に落とし込むと、私はまっさらなノートを机の上に開いた。
「貴方が呪いを掛けられた王子様。猫の姿で彷徨っているうちに、ほっそりした綺麗な黒猫と出会うの。それがやっぱり呪いを掛けられたお姫様で……」
さらさらと、ペンが文字を紡ぎ出していく。
まるで文字が独りでに書かれたがっているみたいで、迷うことがない。壁掛け時計の音が途絶え、私の意識は物語の中に埋没して、主人公と共に歩き、その運命を覗き見する。魔法のような時間。私だけが持つ、私だけの王国。
(そう、絶対に結婚なんてしないわ)
今が幸せなのだから。
飼い猫に話し掛け、誰の役にも立たない物語を書くことに熱中する独り暮らしの女。それほど若くもない。世間は「痛い」と言うだろう。余計なお世話だ。
「トールキン王子は、黒猫のお姫様と一緒に、誰にも侵されない最果ての王国に辿り着くの」
私は心の中に、誰にも邪魔されない想像の王国を築いている。
そこに入って来られるのは、物語の王子や騎士だけだ。
他の誰に何と言われようと、知ったことではない。
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