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闇落ちの吹き溜まりですが幸せです

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「王子殿下。お願いいたします。……私たちの婚約を、無かったことに出来ないでしょうか」

 私は恐る恐る言いました。

 セルリアンを私の弟として迎えてから、時は流れ、今は十二年後。私は貴族の女性らしく、義務として、お父様の定められた良縁……この場合は、王子殿下との婚約を結んでいました。

 王子殿下ご自身は、十分過ぎる程「出来た」方です。お忙しい方なので、ほとんど交流らしいものはありませんでしたが、月に一度のお茶会を始めとして、婚約者としての義務はきちんと果たして下さいました。

 ですから、婚約破棄──この場合は婚約解消でしょうか、それを私が願い出るのは、ひとえに私の側の理由によるものです。

「……そうだね」

 王子殿下は痛む頭を押さえるように、額に手を添えられました。

「これは婚約破棄しても仕方がない。そう思うよ」
「ですよね……」

 周囲で、この状況がどう転ぶのか見守っている人々も、うんうんと頷いています。

「本当にそうですよね」

 ぼそりと、私の耳元に囁く声がひとつ。

 まるで「僕は姉様専用のマントです」と言わんばかりに、私の背中にべったりとした軟体生物のように貼り付いて、顎を私の肩に乗せている青年。すっかり成長して、人目を惹く美青年になったものの、別の理由で人目を引いてばかりいるセルリアンです。

「もっと早く、姉様を解放して下されば良かったのに」

 王族に対する不敬など露ほども気にしていないようで、のんびりとした口調でうそぶいています。

 その手がもぞもぞと動いて、ドレスの上から私のコルセットの筋をなぞったり、腹をそっと撫でたりしているのが気になるのですが……それ以上に慣れ切ってしまって、眉毛ひとつ動かさずに立っていられる自分がいます。

 周囲もまた同じでしょう。弟の奇行は、今に始まったことではないので。

「……はあ」

 王子殿下が溜息をつかれました。

「こんなことを言うのも今更だが。婚約者としての最初の茶会でも、そこの弟が、君を膝に乗せていたからな」
「お恥ずかしい話ですが、どうしても離れてくれなくて……」

 普通に考えてみなくても、どん引き案件です。

「夜会で踊ろうとしても、君の弟がぴったり後ろにくっついて踊るという……珍妙な光景すぎて、誰もが二度見、三度見していたな」
「弟が器用すぎます……」

 夜会での名物のようになってしまって、他国から来たお客様にわざわざ見せて欲しいと頼まれたことさえありました。

「この調子ではきっと、結婚式の誓いの場で、真ん中に君の弟が立つだろうと予想されていて、大々的な賭けまで組まれていたんだ」
「まあ、それは存じませんでした」
「私もそちらに賭けたよ」
「まあ」

 案外神経が図太くていらっしゃいますね、殿下。

「賭けが無効になったのは残念だが、君とは円満に婚約を解消しよう。どうか幸せに……なってくれるだろうな?」

 殿下の語尾があやふやになっておられます。

 私は苦笑いしながら、恭しく頭を下げました。







「ふふふ……これでようやく、邪魔者は排除できた」
「セルリアン、そんな風に悪者みたいな笑い方をしては駄目よ。貴方はせっかく綺麗な顔をしているのだから」
「はぁい、姉様」

 返事だけはいいのです。

 それに、見た目も。

(それが、どうしてこうなってしまったのかしら)

 私の部屋の窓辺を占領して、優雅に頬杖をつき、広げた書物に視線を落としている弟。子供の頃はくるくると巻いた金髪が本当に仔犬のようでしたが、今はなだらかにうねって、金糸に光の筋を通したように煌めいています。

 長い睫毛、高く削ぎ落とされたような頬骨はすっかり大人の男性のもので、黙っていればこの王国でも最高の美形と言われるほどです。今は眼鏡を掛けているので、より知性と品格が加わって……

「ねえ姉様、かっこいい? 知的な雰囲気で見惚れてしまう?」
「そうね」

 その眼鏡、私が「眼鏡を掛けている男性って知的で素敵ね」と言ったから、たまに掛けているのです。完全な伊達眼鏡です。

 広げた書物も、さっきから一ページも進んでいません。定期的に「かっこいい?」と聞くのに忙しいので。

(なんてウザい……いや、ウザ可愛いのかしら)

 私ももう、慣れてしまいました。

 この弟はウザくて可愛くて、中身は「監禁しちゃうぞおじさん」です。あれから人形遊びをするたびに、弟が持ち出してきた黒髭のおじさん人形を、私はそう呼んでいるのですが……定期的に私が浮気をする妄想をしては、定期的に発狂するおじさんです。

(この子、我が家に来る前に、よほど深い闇を目撃してしまったのかしら)

 そう思って、セルリアンが我が家に来る前の家庭環境を調査してみたこともあるのですが、ごく普通でした。全く変わったところのない、ごく普通に仲の良い一家で、今でも揃ってセルリアンに会いに来るほどです。

 では、なんで……と悩んでいたら、「姉様が僕を狂わせる天才なんだよ……どれだけ自分が罪深いか分かってる?」などと呟きながら、ぐるぐると闇が渦巻いた目で押し倒してきたので、私はそれ以上考えることを放棄しました。監禁しちゃうぞおじさんの思考など、常人には分かりません。実力行使が一番です。何かあれば、蹴りを入れて部屋から追い出しておけば良いのです。

「かっこいい? 姉様がかっこいいって言ってくれない……なんで……どうして」
「とってもかっこいいわよ、セルリアン」

 私はセルリアンの方を見向きもせず、朗らかに言いました。

 明らかに茶番ですが、セルリアンがぱあっと顔を輝かせたのが分かります。

(うん、可愛い)

 否定できないレベルでウザいですが。

 なんといっても、あと五分もしたら、「かっこいいって、誰と比べて? 姉様には僕だけだよね? 僕だけがかっこいいんだよね?」とか言い出すに決まっているのです。

 そして私は、「当然でしょう、セルリアン。ちゃんと十二年前に約束したし、だから殿下との婚約も解消したでしょ? 私にはセルリアンだけよ?」と答えるのです。それはもう、すらすらと。

(そう思っていないわけではないもの)

 これが愛と呼べるものなのかは分かりませんが。

 こんなに闇深い弟を何とか抑えていられるのが私だけだと思うと、自然と微笑んでしまう私がいるのです。

 だから多分、私たちはこのまま二人でいて、それでずっと幸せなのでしょう。
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