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前編
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「ソフィア」
婚約者さまが、私の名を呼びました。
爽やかで、落ち着いていて、品格もあり、自然と頷いてしまいたくなる声です。荒れたり、乱れて鬱々とした感情を表したりするのを聞いたことがありません。どこまでも理想の王子様の声なのです。
「はい、アシュヴィンさま」
私はおずおずと顔を上げました。
鮮やかな緑の萌え出ずる庭。薔薇の季節はまだ少し先ですが、先走って咲く一輪、二輪がちらほらと花開いています。その庭を遠景に、優雅にお茶を嗜んでいらっしゃるアシュヴィンさま。
(あ、無理)
私はすぐさま、顔を伏せました。
アシュヴィンさまの顔が良すぎて無理です。
絵画のようなのです。しかも、一面だけを切り取った絵画とは違い、どの角度から見ても完璧なのです。あまりに整いすぎていて、そら恐ろしい。本当に私と同じ種の生き物なのでしょうか。
(なぜ、この方が私の婚約者なのでしょう)
何度も繰り返した疑問が、再び胸中に浮かんできます。
私はただの、公爵家の令嬢です。公爵家の血筋である時点で「ただの」とは言えませんが、比較対象がアシュヴィンさまなので、「普通」としか言えないのです。恵まれた境遇ではあっても人間なので、夜更かしすれば顔がむくみますし、肌荒れすることもあります。ですがアシュヴィンさまの陶器のような肌が荒れたところなんて、一度たりとも見たことがありません。
「ソフィア、もうじき『祝福』の儀式だね。これまで、何度も言ってきたと思うけれど」
アシュヴィンさまの柔らかな声が降ってきました。
「君がどんな『祝福』を授かろうと、僕は気にしない。君が君でいてさえくれればいいんだ。君は僕の、唯一の婚約者だよ」
「アシュヴィンさま……」
なんと慈悲深いお方でしょうか。
そう、アシュヴィンさまは完璧です。身分は王族。現王妃が授かった第三王子でいらっしゃいます。全てに才長け、性格は穏やか。政略で選ばれた婚約者であるはずの私に、何くれとなく気遣いを示してくださり、事あるごとに「僕は君がいいんだ」とおっしゃって下さいます。
こんなに素晴らしい方なのに。
なぜ、偽物めいているように感じるのでしょうか。
その美しさも、その優しさも、どこか決められた筋書きを辿っているような、その奥に何か到底明かせないものを秘匿しているような気がしてしまうのは。
そう感じてしまう私がおかしいのでしょう。
恐らく、きっと。
この国には女神様がおられて、あまねく全ての人に『祝福』を授けて下さいます。
どんな祝福を得られるかは、人によって大いに異なります。伝説の英雄となるような祝福を得られる人もいますし、ささやかすぎて生涯使う余地がない場合もあります。
女神様は祝福によって人が差別されるのを禁じておられ、王族の祝福は、特に念入りに秘密にされています。私はアシュヴィンさまの祝福が何なのか知りません。成婚のあかつきには教えていただけるのかもしれませんが……
「ソフィア嬢、前にお進み下さい。台座の前で膝をつき、女神様に祈りを捧げるのです」
静まり返った神殿の中に、しわがれた神官の声が響き渡ります。
私はその声に従って、ぎこちなく膝をつきました。女神に祈りを。しかし、何を祈ればよいのでしょう?
(……女神様。私に様々な恵みを下さり、有難うございます。特にアシュヴィンさまは……私には勿体ないほどの方です。あんなに完璧な方が私を大事に扱って下さること、本当に感謝しています。でも……だから……)
女神様に嘘はつけません。
私は心の奥に秘めていた懊悩を、吐き出さずにはいられませんでした。
(多分、私の心が弱いのだと思います。あんなに完璧な方を信じることができないなんて。自信のなさが招いたことです。女神様、私は、アシュヴィンさまと向かい合えるだけの強さが欲しいのです)
その時、私が跪いていた石床の前で、青い炎のような筋が光りました。
「?!」
私は息を呑み、見守っていた神官も息を呑み込みます。
石の上に描かれたのは──文字、でした。
流麗な筆記体で、
「 向かい合っては、だめ 」
「 変態からは 逃げなさい 」
そう読めました。
「め、女神様?!」
これは啓示なのでしょうか。女神様が、変態から逃げろとおっしゃっている。私の祈りと合わせて考えると、変態とは──まさか、アシュヴィンさま?
「そんなはずが……私の勘違いで……きっと、私の目がおかしくなって」
もごもごと呟く私の前で、次々と新たな文字が描き出されていきます。
「 あなたの前世は 変態まみれで可哀想 でした 」
「 今世も変態に狙われ 哀れ だから祝福を 授けます 」
「 変態が近付けなくなる魔法 です 」
私は神官と顔を見合わせました。
それから静かに、息を殺して女神様の啓示の続きを待ちましたが、それを最後に光の文字は途絶え、消え失せて、私には、「女神様から変態避けの祝福を授かった」という事実だけが残ったのです。
そしてその日以来、アシュヴィンさまは私の前に姿を現さなくなりました。
婚約者さまが、私の名を呼びました。
爽やかで、落ち着いていて、品格もあり、自然と頷いてしまいたくなる声です。荒れたり、乱れて鬱々とした感情を表したりするのを聞いたことがありません。どこまでも理想の王子様の声なのです。
「はい、アシュヴィンさま」
私はおずおずと顔を上げました。
鮮やかな緑の萌え出ずる庭。薔薇の季節はまだ少し先ですが、先走って咲く一輪、二輪がちらほらと花開いています。その庭を遠景に、優雅にお茶を嗜んでいらっしゃるアシュヴィンさま。
(あ、無理)
私はすぐさま、顔を伏せました。
アシュヴィンさまの顔が良すぎて無理です。
絵画のようなのです。しかも、一面だけを切り取った絵画とは違い、どの角度から見ても完璧なのです。あまりに整いすぎていて、そら恐ろしい。本当に私と同じ種の生き物なのでしょうか。
(なぜ、この方が私の婚約者なのでしょう)
何度も繰り返した疑問が、再び胸中に浮かんできます。
私はただの、公爵家の令嬢です。公爵家の血筋である時点で「ただの」とは言えませんが、比較対象がアシュヴィンさまなので、「普通」としか言えないのです。恵まれた境遇ではあっても人間なので、夜更かしすれば顔がむくみますし、肌荒れすることもあります。ですがアシュヴィンさまの陶器のような肌が荒れたところなんて、一度たりとも見たことがありません。
「ソフィア、もうじき『祝福』の儀式だね。これまで、何度も言ってきたと思うけれど」
アシュヴィンさまの柔らかな声が降ってきました。
「君がどんな『祝福』を授かろうと、僕は気にしない。君が君でいてさえくれればいいんだ。君は僕の、唯一の婚約者だよ」
「アシュヴィンさま……」
なんと慈悲深いお方でしょうか。
そう、アシュヴィンさまは完璧です。身分は王族。現王妃が授かった第三王子でいらっしゃいます。全てに才長け、性格は穏やか。政略で選ばれた婚約者であるはずの私に、何くれとなく気遣いを示してくださり、事あるごとに「僕は君がいいんだ」とおっしゃって下さいます。
こんなに素晴らしい方なのに。
なぜ、偽物めいているように感じるのでしょうか。
その美しさも、その優しさも、どこか決められた筋書きを辿っているような、その奥に何か到底明かせないものを秘匿しているような気がしてしまうのは。
そう感じてしまう私がおかしいのでしょう。
恐らく、きっと。
この国には女神様がおられて、あまねく全ての人に『祝福』を授けて下さいます。
どんな祝福を得られるかは、人によって大いに異なります。伝説の英雄となるような祝福を得られる人もいますし、ささやかすぎて生涯使う余地がない場合もあります。
女神様は祝福によって人が差別されるのを禁じておられ、王族の祝福は、特に念入りに秘密にされています。私はアシュヴィンさまの祝福が何なのか知りません。成婚のあかつきには教えていただけるのかもしれませんが……
「ソフィア嬢、前にお進み下さい。台座の前で膝をつき、女神様に祈りを捧げるのです」
静まり返った神殿の中に、しわがれた神官の声が響き渡ります。
私はその声に従って、ぎこちなく膝をつきました。女神に祈りを。しかし、何を祈ればよいのでしょう?
(……女神様。私に様々な恵みを下さり、有難うございます。特にアシュヴィンさまは……私には勿体ないほどの方です。あんなに完璧な方が私を大事に扱って下さること、本当に感謝しています。でも……だから……)
女神様に嘘はつけません。
私は心の奥に秘めていた懊悩を、吐き出さずにはいられませんでした。
(多分、私の心が弱いのだと思います。あんなに完璧な方を信じることができないなんて。自信のなさが招いたことです。女神様、私は、アシュヴィンさまと向かい合えるだけの強さが欲しいのです)
その時、私が跪いていた石床の前で、青い炎のような筋が光りました。
「?!」
私は息を呑み、見守っていた神官も息を呑み込みます。
石の上に描かれたのは──文字、でした。
流麗な筆記体で、
「 向かい合っては、だめ 」
「 変態からは 逃げなさい 」
そう読めました。
「め、女神様?!」
これは啓示なのでしょうか。女神様が、変態から逃げろとおっしゃっている。私の祈りと合わせて考えると、変態とは──まさか、アシュヴィンさま?
「そんなはずが……私の勘違いで……きっと、私の目がおかしくなって」
もごもごと呟く私の前で、次々と新たな文字が描き出されていきます。
「 あなたの前世は 変態まみれで可哀想 でした 」
「 今世も変態に狙われ 哀れ だから祝福を 授けます 」
「 変態が近付けなくなる魔法 です 」
私は神官と顔を見合わせました。
それから静かに、息を殺して女神様の啓示の続きを待ちましたが、それを最後に光の文字は途絶え、消え失せて、私には、「女神様から変態避けの祝福を授かった」という事実だけが残ったのです。
そしてその日以来、アシュヴィンさまは私の前に姿を現さなくなりました。
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