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後編
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僅かに苦い余韻を残す仕事。
私にとっては、それだけで終わる話だった。はずだった。
それなりに印象深い出来事ではあった。だから、何となく記憶に残ってしまったのだと思う。翌朝、まだ溶け残った雪を踏み分けて、迎えの者たちと向かい合う坊ちゃんの横顔。少しだけ赤みの残った目の縁。朝の白い光のせいか、それとも寒さに当てられたせいか、漂白されたように白い顔色。しかしもはや俯くこともなく、背筋をまっすぐに伸ばしていた。
その決然と引き締まった口元を見て、私は「はあ、やれやれ」と思った。脇役としては当然至極の反応であると思う。
こうして、一件は落着した。多少の後遺症を生じさせつつ。
坊ちゃんは──今はきっちりイグナエル様と呼ぶべきだろう──それ以来、全ての棘が一斉に丸くなってしまったようで、ひどく謙虚に、温和に立ち振舞う青年として成長した。末の息子ゆえに無責任に甘やかされていたところがあるのだが、もはや甘えた態度などどこにも見られない。戦場にあっても冷静な利害を説き、決して激高することなく挑発を受け流し、人を立てて騒乱の種を事前に収める。にこやかで優秀、だが油断ならない笑みを浮かべた鬼才。お前は誰だ、と言いたくなるほどの変貌っぷりである。
そして文武両道。剣の稽古場に積極的に現れては、優雅に一汗流して去っていく。そのため、率いる家臣団の中でも評判がうなぎ登りなのだが、
「昨日もイグナエル様、強かったなあ」
「手を抜かれてる感じはしないのに、手加減されてる感じがするんだよなあ。底知れないというか」
「稽古場に立つだけで、ひゅっと空気が引き締まるな」
「ご当主様に格別の信頼を置かれてるってのも分かるぜ……あ、隊長! 隊長とイグナエル様って、どっちが強いんですか?」
「知らん」
私は答えた。
そう、知らないのである。イグナエル様はしょっちゅう稽古場に現れるが、一回も私と手合わせしたことがない。たったの一度も。
なお、「隊長」とは私のことだ。あれから十年、特にこの地に愛着を感じたわけでもないのだが、離れるほどの不自由もなく、気が付けば私はシュルゲンゾルド家の家臣として落ち着いてしまった。イグナエル様が出陣する戦に同行したこともあるが、戦える女性という側面を重宝がられてか、最近の仕事はもっぱら一族の女性の護衛が多い。
「イグナエル様、なんで隊長と手合わせなさらないんですかね」
「知らん。下手に女と絡むと、周りの女性が騒ぎ立てるせいじゃないのか」
私は投げやりに答えた。
イグナエル様が稽古場に現れると、どこからともなく大量の女性が殺到し、黄色い声援が飛び交って阿鼻叫喚となるのだ。だから、私はむしろ彼に距離を置かれてほっとしていたのだが──
「おや。まだ残っていたのですね」
日も暮れた頃、稽古場の隅で武具を磨き上げていた私の上に、落ち着いた男の声が落ちてきた。
「一人で居残られるには、少々遅い時間ではないですか。御用がお済みであれば、宿舎までお送りしましょうか?」
「それはむしろ私の仕事です、イグナエル様」
(訳の分からんことをおっしゃる)
私の実力を知らないわけでもなかろうに。
私は眉間にうっすらと皺を寄せて、歩み寄って来るイグナエル様を見上げた。
もう23歳。かつてのクソガキ様は、その特徴を引き摺りつつも思いがけない方向に成長された。柔らかく温和な光を湛えた薄緑の目。物静かな動作の中にも強靭な鎧を纏ったかのような体躯。
そして、敬語。そう、クソガキ時代からは想像もつかないことだが、現在のイグナエル様は常に物柔らかな敬語で話すのである。
私のような平民に対しても。
「イグナエル様はどうしてこちらに?」
「仕事が立て込んでいて遅くなったのですが……貴方がこちらに居ると知って、良い機会かと思いまして。今、ここに居るのは貴方だけのようですし」
「はあ」
良い機会?
首を傾げる私の前で、イグナエル様は練習用の木剣を物色し始めた。穏やかな笑みを貼り付けたまま、
「貴方に勝てるようになったら、申し込もうと思っていたのです」
「はい?」
投げられた木剣を受け止める。
「一試合お願いいたします。私にも木剣を下さい」
「はあ……」
どういう風の吹き回しだ。
内心で首を傾げたまま、壁際に並んだ木剣の中から適当に一本選び取ってイグナエル様に手渡した。理由は分からずとも、手合わせすること自体に異議はない。
「イグナエル様はお強いので、手加減はできませんよ。青痣ぐらいは覚悟なさって下さい」
「いえいえ、ご遠慮なく」
イグナエル様は微笑み、
「ですが、なんなら一つ賭けを受けていただきたいのですが。貴方が勝ったら私は何でも一つ言うことをきく。私が勝ったら貴方が言うことをきく、ということで如何ですか」
「それは随分と大きく出ましたね」
私は呆れながら木剣を試し振りした。
「街の酒場を一ヶ月貸し切りにするとか、イグナエル様の屋敷を乗っ取るとか、そんなことを言い出したらどうなさるので?」
「破産も覚悟の上ですよ。なんなりとどうぞ。ですが、私は勝てると思っていますので」
「おお」
かつてのクソガキ様が、随分と大きく成長されたものだ。自信過剰なところは影を潜めたと思っていたが、そうでもなかったのだろうか。それとも、これはお偉方の間では通用する冗談か何かなのか?
「残念ですが、私とイグナエル様の経験の差は歴然としていると思いますね」
「ここが戦場ならばともかく、稽古場で経験頼みではね……」
私と対峙して立ちながら、イグナエル様がうっそりと嗤った。
(……え?)
私が不安を覚えたのはその瞬間、その笑みだ。
妙な感覚だった。傲岸不遜な少年の笑顔でもなく、温和な表情の裏に抜け目ない人格を隠した貴族の笑みでもない。何かもっと、そう……粘つくような何か。
「……っ」
私がその違和感の正体を見極める暇もなく、試合は始まった。イグナエル様の剣は典雅にして王道、決して相手を無闇に追い詰めることなく圧倒する……とか何とか言われていたが、
(なんだこれは)
ガン、と真っ向から強烈な一撃が降り注いできて、私ははっと息を呑んだ。気を抜けば撲殺されそうな重さ。受け止めた私の手に、鈍い痺れが走る。
「く、随分と重い……ですね、イグナエル様」
「……」
貼り付けたようなイグナエル様の笑みが深まる。
ぞくり、と背筋が震えた。だが私は気負うことなく、彼の剣を受け流す方向に切り替えた。まともに受けていては消耗させられるばかりだ。しかし、剣と剣が交錯して擦れるたびに、骨に響くような振動が伝わってくる。
「……っ」
なぜだ。
(……なんで、この人は滅茶苦茶やる気なんだ?!)
ただの気軽な手合わせというには、あまりに本気の度が過ぎる。いっそ仄暗ささえ感じさせる気迫の篭った目付き。手加減のかけらもない全力の攻勢。優雅な貴公子の殻を被ってはいるものの、その動きは一ヶ月間絶食させられていた捕食獣のようである。
私とイグナエル様では、失うものの重さが全く違う。私の金も地位も、イグナエル様にとってはほんの瑣末な価値しかない。だから、ここまで真剣になるとも思えず、半ば冗談事のように賭けを受け入れたのだが。
それが、なぜ。
「……っ!」
木剣を吹き飛ばされ、手がびりびりと痺れた。
その痺れも消え去らないうちに、風を切って剣が振り抜かれた。咄嗟に避けて後ろに倒れ込んだ瞬間、耳のすぐ横の床に、ダン! と重たい剣が突き刺さる。
(……これ、木剣だったよな?)
「……殺す気かと思いました。はあ……」
しばらく仰向けに倒れたまま、私は荒い呼吸を繰り返した。ここまで気迫負けしてしまえばかえって笑えるものだ。首をもたげて、私の負けですね、と笑って言ってやろうとして、
「……? イグナエル様?」
イグナエル様の呼吸の荒さが、私とはいささか違う……いや、大分違う理由であることに気付かされた。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
「イ、イグナエル様、どうしま……」
どうしました、と言い終えるより早く、四つん這いになったイグナエル様が私の上に覆い被さってきた。サカサカと素早く動く動作が足の多い昆虫のようで微妙に気持ち悪い。
「ハァ、ハァ、ハァ……やった」
「あ、あの」
開きっぱなしの口。真っ赤に染まった顔面。
「やった……ぐふ、ふふふ……ぐふふふふふふふ!」
は?
(何だこれは)
潔癖な貴族の仮面の下に、いかがわしい趣味を押し隠している。そんな事例は山ほどあるのだろう。私は詳しく知らないが。
何かのついでにその仮面が剥がれるとか、鬱屈した欲望が曝け出されるとか、そんなことだってあるだろう。問題は──そういうとき、「ぐふふ」とは言わないのではないか?
(せめて、「ククク」とか「フハハ」とか)
「ぐふふ」は無い。本当に無い。何より、
「顔に似合わん笑い方は止めて下さい」
危機感を感じて、私は早口で言った。
昔の彼ならいざ知らず(13歳の彼も「ぐふふ」と笑うような人間ではなかったと思うが)、今の彼は、一族内外から尊敬と憧憬を集める沈着冷静な貴公子なのである。
(そうだ、気のせいだ。敗北した衝撃で、私が何か聞き間違えたんだろう)
そう思いたい。だが、
「顔に似合わん? 何を言っているのですか」
「いや全くその通りです」
「嬉しくてたまらないのに! 顔なんぞ気にしている場合ではないでしょう!」
勢い良く顔を反らしたイグナエル様が、声を限りに哄笑し始めた。
「ドゥフフ! ドゥフ、ドゥフフフフ!」
……いかん、悪化した。
「ドゥフフ……ハァ……堪らん。高潔で強い、誰より気高い女騎士である貴方を戦いの果てに組み伏せ、この場で俺のコレを捩じ込む……百回は想像した状況が」
「?!」
「いや、その前に鎧と服を一枚ずつ剝がして……ハァハァ」
「!!」
ドカッ!!
「ドゥフッ」
何も考えず、反射的に、全力で。
咄嗟に、イグナエル様の顔面に膝蹴りを食らわせてしまった。
(ヤバい)
私は怖気立った。
仕えるべき主君に膝蹴り。まずあり得ない行為だが、そもそも今のイグナエル様があり得ない。悪夢の産物としか言いようがない。彼に純粋な尊敬を寄せている者がこれを見たらどうなる? 夢も希望も失って絶望してしまうのではないか。
(これは人に見せては駄目だ)
「イグナエル様、落ち着いて下さい。あと、その気持ち悪い顔も即刻止めるように。止めないと、今すぐ土に穴を掘って埋めますよ。この世に野放しにしてはいけない気がするんで」
「ハァッ、ハァッ、素晴らしい……流石は私の憧れた貴方です。こんな状況でも決して心折れることなく立ち向かってくる」
「いやもう大分心折れそうなんですが」
私は別に、彼に対して何か夢想めいたものを抱いていたわけではない。それでも、かつて暗く寒い夜を共に過ごした少年に対して、ミリ単位の親近感らしきものは抱いていたのだと思う。領主の館ですれ違うたびに、「ああ、大きくなった。立派になったんだな」と懐かしく思い出す程度には。
それが、どうしてこうなった。
「イグナエル様。まさかと思いますが、本当にここで私を手篭めにするおつもりで?」
「手篭めにするなどとんでもない。誰がそんなことを」
あんただよ。
「貴方はずっと私の心の中の特別な場所に居ました。心が迷うとき、ぐらつくとき、常に貴方に問い掛けていた。貴方の前に立つに恥じない人間でいたい、それが私の指針でした」
「どうしてそれを完遂できなかったのか」
「しかしようやく貴方に一勝できた」
イグナエル様は、私の言葉がまるで聞こえていないようだ。
「貴方に勝った! だから少しは認めて頂けてもいいのではないですか。私の積年の想いを受け止めて頂きたい、そして即合体、ぐふ、ぐふふ」
「台無しすぎる」
呟きながら、私は自分の腕を撫でさすった。さっきからずっと、身体の皮膚のあちこちに粟立つような感覚がある。これが鳥肌というのだろうか。
「とにかく、こんな場所では誰かに見られないとも限りません。見られれば(イグナエル様の評判が)大変なことになります。もっと安全な場所に移動しましょう」
「ああ、受け入れて下さるのかっ、有難うございます」
イグナエル様が顔を押さえていた手を下ろし、ぐるりとこちらを振り向いた。興奮に逸った顔は真っ赤に充血して照り輝き、その口からはダラダラと涎が滴って……
「ギャアアアア」
咄嗟に私は絶叫した。
この世の恐怖の髄を濃縮したような光景だった。
酷い。
酷すぎる。
鳥肌立つどころではない。
これは無理だ。
(こいつ、外面完全崩壊しやがった!!!)
「怖がらないで下さい……私も童貞ですが全力を尽くします」
「違う、そうじゃない!」
止めて欲しいのは涎だ。あと、美形にあるまじき振る舞いの数々だ。冷静で温和な貴公子の彼はどこへ行った。いっそかつてのクソガキ様でもいい、帰ってきてくれ。
「涎、涎を拭け、このクソガキ!」
もはや主従間の敬意などすっ飛んでいる。私は全力で叫んだ。
イグナエル様は照れたように微笑み(それより涎を拭け!)、
「ああ、すみません、つい。長年の想いを遂げられると思ったら止まらず」
「止 め ろ!!!」
私は吼えた。涎を。とにかく涎を止めて欲しい。
「止められません」
彼はキリッとして言った。なんでだ。
「勝負は私の勝ちです。どの道、何があろうと諦めるつもりはありません。じゅるり」
「音を立てるな! 人の尊厳を諦めるな!」
「諦めません!」
「話を聞け! く、来るなぁ! 涎が……うわ、わ、わああああああ!」
じゅるじゅるじゅる……
念の為に言っておくが。
いかに聞く者の心胆を凍えさせ、寒からしめようとも、これは怪談話というわけではない。
傲慢と不見識ゆえに一度道を間違えた少年が、心の支えとしていた年上の女騎士に認められるために心を入れ替え、たゆまず努力し、立派に成長した末に見事彼女と結ばれた、聞く者の心動かす純愛の物語なのである。
……本当か?
「無論本当です」
シュルゲンゾルド家の家紋である、黒と緑の両対の竜をあしらった長衣を纏って、イグナエル様は悠然と肘掛け椅子に腰掛けておられる。
もはや少年の面影を失って、削ぎ落とされたように鋭くなった顔立ち。だが柔らかな薄緑の眼差しは春の日差しのようで、相対する者の緊張を解き、それでいて何一つ見逃さぬ敏さを備えており……
(いや、だから何なんだ)
傍らに立つ私は、じっとりとした目で彼を睨んだ。
(こいつが最悪の変態であることは変わりない)
「ふ、そんなに熱い眼差しを向けられるとは……ぐふふふ」
「お黙りやがれ」
投げやりに乱暴な口調で囁く。彼の言動に慣れ親しむほどに、私の不敬度は度合いを増しており、最近はもっぱら礼儀をかなぐり捨てて、良くて慇懃無礼の域に達している。だが、そんなことで収まる変態、のはずはなく……
「此度の婚礼、まことにめでたい」
酒杯を片手に近付いてきた初老の男が、酔いの回った赤ら顔で言う。
シュルゲンゾルド家のご当主、そしてイグナエル様の御父上である。その地位に在ること30年余、の傑物のはずなのだが、今はどこにでもいる好々爺にしか見えない。
「強き嫁を迎えられたことは良いことだ。皆も祝福しているぞ」
「……有難うございます」
私は頭を下げた。
数ヶ月の婚約期間を経て、私は正式に一族に迎え入れられた。私の視点から見ると、「逃げられなかった」というのが正しいのだが。そして今、
(私がこの男の変態ぶりを隠し通して、衆目に触れないようにしなくては)
私の中に芽生えているのは、強烈な義務感である。
それ以外のことは、概ね上手くまとまった、と言ってもいい。土地が痩せ、戦乱の多い土地柄ゆえに、一族の末子が強い嫁を選んだ、ということは好意的に受け止められた。私は常に帯剣を許され、護衛としての仕事も続けている。初恋の相手と結婚した、ということでイグナエル様も幸せそうである。
しかし、だ。
「貴方が私の妻としてここに立っていると思うだけで胸がいっぱいに……あ、鼻血が」
「顔面がうるさい! 少しは控えろ!」
気が抜けない。
今はまだバレていないようだが、イグナエル様の変態ぶりが知れ渡ったらどんなことになってしまうのか。戦々恐々としながら、今日も彼の顔面崩壊を隠し通すために奔走する。それが変わらぬ日常のようになってしまったこの頃なのであった。
私にとっては、それだけで終わる話だった。はずだった。
それなりに印象深い出来事ではあった。だから、何となく記憶に残ってしまったのだと思う。翌朝、まだ溶け残った雪を踏み分けて、迎えの者たちと向かい合う坊ちゃんの横顔。少しだけ赤みの残った目の縁。朝の白い光のせいか、それとも寒さに当てられたせいか、漂白されたように白い顔色。しかしもはや俯くこともなく、背筋をまっすぐに伸ばしていた。
その決然と引き締まった口元を見て、私は「はあ、やれやれ」と思った。脇役としては当然至極の反応であると思う。
こうして、一件は落着した。多少の後遺症を生じさせつつ。
坊ちゃんは──今はきっちりイグナエル様と呼ぶべきだろう──それ以来、全ての棘が一斉に丸くなってしまったようで、ひどく謙虚に、温和に立ち振舞う青年として成長した。末の息子ゆえに無責任に甘やかされていたところがあるのだが、もはや甘えた態度などどこにも見られない。戦場にあっても冷静な利害を説き、決して激高することなく挑発を受け流し、人を立てて騒乱の種を事前に収める。にこやかで優秀、だが油断ならない笑みを浮かべた鬼才。お前は誰だ、と言いたくなるほどの変貌っぷりである。
そして文武両道。剣の稽古場に積極的に現れては、優雅に一汗流して去っていく。そのため、率いる家臣団の中でも評判がうなぎ登りなのだが、
「昨日もイグナエル様、強かったなあ」
「手を抜かれてる感じはしないのに、手加減されてる感じがするんだよなあ。底知れないというか」
「稽古場に立つだけで、ひゅっと空気が引き締まるな」
「ご当主様に格別の信頼を置かれてるってのも分かるぜ……あ、隊長! 隊長とイグナエル様って、どっちが強いんですか?」
「知らん」
私は答えた。
そう、知らないのである。イグナエル様はしょっちゅう稽古場に現れるが、一回も私と手合わせしたことがない。たったの一度も。
なお、「隊長」とは私のことだ。あれから十年、特にこの地に愛着を感じたわけでもないのだが、離れるほどの不自由もなく、気が付けば私はシュルゲンゾルド家の家臣として落ち着いてしまった。イグナエル様が出陣する戦に同行したこともあるが、戦える女性という側面を重宝がられてか、最近の仕事はもっぱら一族の女性の護衛が多い。
「イグナエル様、なんで隊長と手合わせなさらないんですかね」
「知らん。下手に女と絡むと、周りの女性が騒ぎ立てるせいじゃないのか」
私は投げやりに答えた。
イグナエル様が稽古場に現れると、どこからともなく大量の女性が殺到し、黄色い声援が飛び交って阿鼻叫喚となるのだ。だから、私はむしろ彼に距離を置かれてほっとしていたのだが──
「おや。まだ残っていたのですね」
日も暮れた頃、稽古場の隅で武具を磨き上げていた私の上に、落ち着いた男の声が落ちてきた。
「一人で居残られるには、少々遅い時間ではないですか。御用がお済みであれば、宿舎までお送りしましょうか?」
「それはむしろ私の仕事です、イグナエル様」
(訳の分からんことをおっしゃる)
私の実力を知らないわけでもなかろうに。
私は眉間にうっすらと皺を寄せて、歩み寄って来るイグナエル様を見上げた。
もう23歳。かつてのクソガキ様は、その特徴を引き摺りつつも思いがけない方向に成長された。柔らかく温和な光を湛えた薄緑の目。物静かな動作の中にも強靭な鎧を纏ったかのような体躯。
そして、敬語。そう、クソガキ時代からは想像もつかないことだが、現在のイグナエル様は常に物柔らかな敬語で話すのである。
私のような平民に対しても。
「イグナエル様はどうしてこちらに?」
「仕事が立て込んでいて遅くなったのですが……貴方がこちらに居ると知って、良い機会かと思いまして。今、ここに居るのは貴方だけのようですし」
「はあ」
良い機会?
首を傾げる私の前で、イグナエル様は練習用の木剣を物色し始めた。穏やかな笑みを貼り付けたまま、
「貴方に勝てるようになったら、申し込もうと思っていたのです」
「はい?」
投げられた木剣を受け止める。
「一試合お願いいたします。私にも木剣を下さい」
「はあ……」
どういう風の吹き回しだ。
内心で首を傾げたまま、壁際に並んだ木剣の中から適当に一本選び取ってイグナエル様に手渡した。理由は分からずとも、手合わせすること自体に異議はない。
「イグナエル様はお強いので、手加減はできませんよ。青痣ぐらいは覚悟なさって下さい」
「いえいえ、ご遠慮なく」
イグナエル様は微笑み、
「ですが、なんなら一つ賭けを受けていただきたいのですが。貴方が勝ったら私は何でも一つ言うことをきく。私が勝ったら貴方が言うことをきく、ということで如何ですか」
「それは随分と大きく出ましたね」
私は呆れながら木剣を試し振りした。
「街の酒場を一ヶ月貸し切りにするとか、イグナエル様の屋敷を乗っ取るとか、そんなことを言い出したらどうなさるので?」
「破産も覚悟の上ですよ。なんなりとどうぞ。ですが、私は勝てると思っていますので」
「おお」
かつてのクソガキ様が、随分と大きく成長されたものだ。自信過剰なところは影を潜めたと思っていたが、そうでもなかったのだろうか。それとも、これはお偉方の間では通用する冗談か何かなのか?
「残念ですが、私とイグナエル様の経験の差は歴然としていると思いますね」
「ここが戦場ならばともかく、稽古場で経験頼みではね……」
私と対峙して立ちながら、イグナエル様がうっそりと嗤った。
(……え?)
私が不安を覚えたのはその瞬間、その笑みだ。
妙な感覚だった。傲岸不遜な少年の笑顔でもなく、温和な表情の裏に抜け目ない人格を隠した貴族の笑みでもない。何かもっと、そう……粘つくような何か。
「……っ」
私がその違和感の正体を見極める暇もなく、試合は始まった。イグナエル様の剣は典雅にして王道、決して相手を無闇に追い詰めることなく圧倒する……とか何とか言われていたが、
(なんだこれは)
ガン、と真っ向から強烈な一撃が降り注いできて、私ははっと息を呑んだ。気を抜けば撲殺されそうな重さ。受け止めた私の手に、鈍い痺れが走る。
「く、随分と重い……ですね、イグナエル様」
「……」
貼り付けたようなイグナエル様の笑みが深まる。
ぞくり、と背筋が震えた。だが私は気負うことなく、彼の剣を受け流す方向に切り替えた。まともに受けていては消耗させられるばかりだ。しかし、剣と剣が交錯して擦れるたびに、骨に響くような振動が伝わってくる。
「……っ」
なぜだ。
(……なんで、この人は滅茶苦茶やる気なんだ?!)
ただの気軽な手合わせというには、あまりに本気の度が過ぎる。いっそ仄暗ささえ感じさせる気迫の篭った目付き。手加減のかけらもない全力の攻勢。優雅な貴公子の殻を被ってはいるものの、その動きは一ヶ月間絶食させられていた捕食獣のようである。
私とイグナエル様では、失うものの重さが全く違う。私の金も地位も、イグナエル様にとってはほんの瑣末な価値しかない。だから、ここまで真剣になるとも思えず、半ば冗談事のように賭けを受け入れたのだが。
それが、なぜ。
「……っ!」
木剣を吹き飛ばされ、手がびりびりと痺れた。
その痺れも消え去らないうちに、風を切って剣が振り抜かれた。咄嗟に避けて後ろに倒れ込んだ瞬間、耳のすぐ横の床に、ダン! と重たい剣が突き刺さる。
(……これ、木剣だったよな?)
「……殺す気かと思いました。はあ……」
しばらく仰向けに倒れたまま、私は荒い呼吸を繰り返した。ここまで気迫負けしてしまえばかえって笑えるものだ。首をもたげて、私の負けですね、と笑って言ってやろうとして、
「……? イグナエル様?」
イグナエル様の呼吸の荒さが、私とはいささか違う……いや、大分違う理由であることに気付かされた。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
「イ、イグナエル様、どうしま……」
どうしました、と言い終えるより早く、四つん這いになったイグナエル様が私の上に覆い被さってきた。サカサカと素早く動く動作が足の多い昆虫のようで微妙に気持ち悪い。
「ハァ、ハァ、ハァ……やった」
「あ、あの」
開きっぱなしの口。真っ赤に染まった顔面。
「やった……ぐふ、ふふふ……ぐふふふふふふふ!」
は?
(何だこれは)
潔癖な貴族の仮面の下に、いかがわしい趣味を押し隠している。そんな事例は山ほどあるのだろう。私は詳しく知らないが。
何かのついでにその仮面が剥がれるとか、鬱屈した欲望が曝け出されるとか、そんなことだってあるだろう。問題は──そういうとき、「ぐふふ」とは言わないのではないか?
(せめて、「ククク」とか「フハハ」とか)
「ぐふふ」は無い。本当に無い。何より、
「顔に似合わん笑い方は止めて下さい」
危機感を感じて、私は早口で言った。
昔の彼ならいざ知らず(13歳の彼も「ぐふふ」と笑うような人間ではなかったと思うが)、今の彼は、一族内外から尊敬と憧憬を集める沈着冷静な貴公子なのである。
(そうだ、気のせいだ。敗北した衝撃で、私が何か聞き間違えたんだろう)
そう思いたい。だが、
「顔に似合わん? 何を言っているのですか」
「いや全くその通りです」
「嬉しくてたまらないのに! 顔なんぞ気にしている場合ではないでしょう!」
勢い良く顔を反らしたイグナエル様が、声を限りに哄笑し始めた。
「ドゥフフ! ドゥフ、ドゥフフフフ!」
……いかん、悪化した。
「ドゥフフ……ハァ……堪らん。高潔で強い、誰より気高い女騎士である貴方を戦いの果てに組み伏せ、この場で俺のコレを捩じ込む……百回は想像した状況が」
「?!」
「いや、その前に鎧と服を一枚ずつ剝がして……ハァハァ」
「!!」
ドカッ!!
「ドゥフッ」
何も考えず、反射的に、全力で。
咄嗟に、イグナエル様の顔面に膝蹴りを食らわせてしまった。
(ヤバい)
私は怖気立った。
仕えるべき主君に膝蹴り。まずあり得ない行為だが、そもそも今のイグナエル様があり得ない。悪夢の産物としか言いようがない。彼に純粋な尊敬を寄せている者がこれを見たらどうなる? 夢も希望も失って絶望してしまうのではないか。
(これは人に見せては駄目だ)
「イグナエル様、落ち着いて下さい。あと、その気持ち悪い顔も即刻止めるように。止めないと、今すぐ土に穴を掘って埋めますよ。この世に野放しにしてはいけない気がするんで」
「ハァッ、ハァッ、素晴らしい……流石は私の憧れた貴方です。こんな状況でも決して心折れることなく立ち向かってくる」
「いやもう大分心折れそうなんですが」
私は別に、彼に対して何か夢想めいたものを抱いていたわけではない。それでも、かつて暗く寒い夜を共に過ごした少年に対して、ミリ単位の親近感らしきものは抱いていたのだと思う。領主の館ですれ違うたびに、「ああ、大きくなった。立派になったんだな」と懐かしく思い出す程度には。
それが、どうしてこうなった。
「イグナエル様。まさかと思いますが、本当にここで私を手篭めにするおつもりで?」
「手篭めにするなどとんでもない。誰がそんなことを」
あんただよ。
「貴方はずっと私の心の中の特別な場所に居ました。心が迷うとき、ぐらつくとき、常に貴方に問い掛けていた。貴方の前に立つに恥じない人間でいたい、それが私の指針でした」
「どうしてそれを完遂できなかったのか」
「しかしようやく貴方に一勝できた」
イグナエル様は、私の言葉がまるで聞こえていないようだ。
「貴方に勝った! だから少しは認めて頂けてもいいのではないですか。私の積年の想いを受け止めて頂きたい、そして即合体、ぐふ、ぐふふ」
「台無しすぎる」
呟きながら、私は自分の腕を撫でさすった。さっきからずっと、身体の皮膚のあちこちに粟立つような感覚がある。これが鳥肌というのだろうか。
「とにかく、こんな場所では誰かに見られないとも限りません。見られれば(イグナエル様の評判が)大変なことになります。もっと安全な場所に移動しましょう」
「ああ、受け入れて下さるのかっ、有難うございます」
イグナエル様が顔を押さえていた手を下ろし、ぐるりとこちらを振り向いた。興奮に逸った顔は真っ赤に充血して照り輝き、その口からはダラダラと涎が滴って……
「ギャアアアア」
咄嗟に私は絶叫した。
この世の恐怖の髄を濃縮したような光景だった。
酷い。
酷すぎる。
鳥肌立つどころではない。
これは無理だ。
(こいつ、外面完全崩壊しやがった!!!)
「怖がらないで下さい……私も童貞ですが全力を尽くします」
「違う、そうじゃない!」
止めて欲しいのは涎だ。あと、美形にあるまじき振る舞いの数々だ。冷静で温和な貴公子の彼はどこへ行った。いっそかつてのクソガキ様でもいい、帰ってきてくれ。
「涎、涎を拭け、このクソガキ!」
もはや主従間の敬意などすっ飛んでいる。私は全力で叫んだ。
イグナエル様は照れたように微笑み(それより涎を拭け!)、
「ああ、すみません、つい。長年の想いを遂げられると思ったら止まらず」
「止 め ろ!!!」
私は吼えた。涎を。とにかく涎を止めて欲しい。
「止められません」
彼はキリッとして言った。なんでだ。
「勝負は私の勝ちです。どの道、何があろうと諦めるつもりはありません。じゅるり」
「音を立てるな! 人の尊厳を諦めるな!」
「諦めません!」
「話を聞け! く、来るなぁ! 涎が……うわ、わ、わああああああ!」
じゅるじゅるじゅる……
念の為に言っておくが。
いかに聞く者の心胆を凍えさせ、寒からしめようとも、これは怪談話というわけではない。
傲慢と不見識ゆえに一度道を間違えた少年が、心の支えとしていた年上の女騎士に認められるために心を入れ替え、たゆまず努力し、立派に成長した末に見事彼女と結ばれた、聞く者の心動かす純愛の物語なのである。
……本当か?
「無論本当です」
シュルゲンゾルド家の家紋である、黒と緑の両対の竜をあしらった長衣を纏って、イグナエル様は悠然と肘掛け椅子に腰掛けておられる。
もはや少年の面影を失って、削ぎ落とされたように鋭くなった顔立ち。だが柔らかな薄緑の眼差しは春の日差しのようで、相対する者の緊張を解き、それでいて何一つ見逃さぬ敏さを備えており……
(いや、だから何なんだ)
傍らに立つ私は、じっとりとした目で彼を睨んだ。
(こいつが最悪の変態であることは変わりない)
「ふ、そんなに熱い眼差しを向けられるとは……ぐふふふ」
「お黙りやがれ」
投げやりに乱暴な口調で囁く。彼の言動に慣れ親しむほどに、私の不敬度は度合いを増しており、最近はもっぱら礼儀をかなぐり捨てて、良くて慇懃無礼の域に達している。だが、そんなことで収まる変態、のはずはなく……
「此度の婚礼、まことにめでたい」
酒杯を片手に近付いてきた初老の男が、酔いの回った赤ら顔で言う。
シュルゲンゾルド家のご当主、そしてイグナエル様の御父上である。その地位に在ること30年余、の傑物のはずなのだが、今はどこにでもいる好々爺にしか見えない。
「強き嫁を迎えられたことは良いことだ。皆も祝福しているぞ」
「……有難うございます」
私は頭を下げた。
数ヶ月の婚約期間を経て、私は正式に一族に迎え入れられた。私の視点から見ると、「逃げられなかった」というのが正しいのだが。そして今、
(私がこの男の変態ぶりを隠し通して、衆目に触れないようにしなくては)
私の中に芽生えているのは、強烈な義務感である。
それ以外のことは、概ね上手くまとまった、と言ってもいい。土地が痩せ、戦乱の多い土地柄ゆえに、一族の末子が強い嫁を選んだ、ということは好意的に受け止められた。私は常に帯剣を許され、護衛としての仕事も続けている。初恋の相手と結婚した、ということでイグナエル様も幸せそうである。
しかし、だ。
「貴方が私の妻としてここに立っていると思うだけで胸がいっぱいに……あ、鼻血が」
「顔面がうるさい! 少しは控えろ!」
気が抜けない。
今はまだバレていないようだが、イグナエル様の変態ぶりが知れ渡ったらどんなことになってしまうのか。戦々恐々としながら、今日も彼の顔面崩壊を隠し通すために奔走する。それが変わらぬ日常のようになってしまったこの頃なのであった。
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