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7.兄様以外全員死ね

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 幻聴かと思った。




「兄様。……兄様!」

 綺麗な声だった。涼やかな少女の声。だが、極まった不安で千々に砕け散りそうに震えている。誰だか知らないが、その「兄様」は酷く心配されているのだろう。

(……っ、羨ましい話だ)

 身体がこれほど重たくなかったら、はっきりと舌打ちしていたかもしれない。普段は行儀のいいフィオルゼルには似つかわしくないことだが、本当に、心底羨ましかったのだ。

 だって、ずるいではないか。彼自身、何一ついいことのない人生だった。まあ、相対的に考えればそこまで悲惨とは言えないのだろうが、一度だって、こんな可憐な声で心配されたことがあっただろうか。いや、ない(反語表現)。

 こんな洞窟に、兵士でもない少女がいるはずもない。まして、この戦闘の真っ只中で、無事でいられるはずもない。そのことに気付くべきだったのだが、追い詰められていたせいか、フィオルゼルは全くそのことは考えなかった。ただ恨みがましい気分で、閉じていた瞼を開く。

 その「兄様」とは誰なんだ。死ぬ前に一目、その恵まれた人間の顔を見てやろうじゃないか……



(……は? 私か?)



 時間が停止した。

 呼吸が止まったような気がした。実際に数十秒間、止まっていたかもしれない。

 至近距離に、朱い瞳が涙を湛えて見上げていた。黒い睫毛に囲まれた大きな目。漂白されたような肌。人形のように整った小造りな顔立ち。

 間違って魔法で錬成されたのかと思うぐらい、人間離れした美貌の少女だった。実際、その身の周りに漂う気配は人のものではない。魔物なのかどうかは、魔術師でもないフィオルゼルには分かりかねるのだが……その周囲にたゆたう魔風が、彼女の黒髪をふんわりと靡かせていた。黒髪の合間にちらりと見える耳の先は、小さく尖っている。

 彼女が見上げているのはフィオルゼルだった。他の誰でもない。

 嘘だろう、と思う間もなく、彼と視線が合うと、「兄様」と震え声で呼ばれた。悲痛と思慕の混じり合った声だ。その声を聞くと、奇妙に胸が締め付けられた。

「君は……」
「兄様、すぐに治療しますから。少しだけ待って」

 淡い光が彼女の指先から溢れて、フィオルゼルの傷口に群れ集った。魔物なのだとしたら、あまりに清冽すぎる魔力だ。そして、本当に一瞬だった。全身の治癒にかかった時はおよそ五秒。とんでもない量の魔力が、何でもないように注ぎ込まれたのを感じる。

(これは……)

 状況を把握する時間もなく、フィオルゼルが目を見開いているうちに、彼女は黒いドレスの裾を翻して立ち上がった。

 朱い目が吊り上がり、冷たく翳る。

「兄様に傷をつけた者……万死に値する。兄様の身には、傷一つ残さない……でも、でも、兄様の感じた痛み、許さない、忘れないから。絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に償わせてやる」

 小声で、凄まじい早口で紡がれたせいで、フィオルゼルは言葉の大半を聞き逃した。

 だが、全て聞こえていても、フィオルゼルにとってさほど違いはなかっただろう。

 重要なのは、そこに彼に対する深い想いが含まれていることだ。少なくとも、彼にとってはそれが何より重要だった。はっきりとそう言い切れる。

「君は、一体……」
「兄様、待っていて」

 振り向いた少女は笑みを浮かべていたが、その奥にある寂寞の色を隠し切れてはいなかった。

「兄様が私のことを覚えてないのは知ってる。でも待って、後で全部きちんと話すから」
「……っ」

 フィオルゼルの心臓が跳ねた。

 込み上げてきた感情を言語化するより早く、炎が爆ぜた。眩く輝く黄金色の火が、伸びてきた黒い根を叩き落とし、焼き焦がす。

「ヒ、ヒャッ」

 聖女が焦りに満ちた声を上げた。

「も、もう、何なのよう! いきなり現れて、ヒロインみたいな顔しちゃって、何なの?!」

 聖女の声音には悪意しか含まれていないが、その場にいる大多数が抱いている疑問とそう変わりはない。

「邪魔しないでよ! 魔王様とあたしこそが主役なんだから。消えて! 消えてよ! この! このこの!!」

 聖女が叫ぶたび、瘴気に満ちた魔力が叩き付けられる。だが、少女は冷ややかな表情のまま、靴の先でその魔力を踏み潰した。

 驚くべきことに。

 少し、靴先で地面を踏み付けるようにしただけだ。彼女が履いているのは、ビーズと刺繍で飾られたベルベット製の靴だった。貴人が部屋で履くような、飾り物めいた薄めの靴だ。先端が少し尖っていて、異国風のタッセルもついている。それで地面を踏んだだけで、禍々しく放たれた気がひと処に収束し、踏み躙られて四散したのである。

「……っ?!」

 聖女の顔がますます歪む。貼り付いていた黒い根が伸びて、その顔はほとんど黒ずんで見えた。

「雑魚が。兄様以外全員死ね!」

 少女が冷たく宣告した。

 彼女のほっそりした身に、燃え盛る炎が纏わりついて、一層激しく輝いた。一瞬口元に手をやる仕草をしてから、少女がうねる鞭のように炎を解き放つ。じゅうじゅうと焼け焦げる音と蒸気、不快極まりない悲鳴が耳膜をつんざいた。

「ギャ、あアア」

 呻きながら、聖女と魔王の体が地面に沈んでいく。どうやら地中に逃げようとしたようだが、

「死ね、と言ったわ」

 トン、と少女のつま先が地面を叩く。

「………~~!!!」

 ぞっとするような苦痛の声が響いたが、次の瞬間、四散して無音になった。聖女と魔王の姿が掻き消える。死んだのか、逃げおおせたのか? 分からない。フィオルゼル同様、周囲の兵士たちも呆然として少女を見つめた。

「……何が起きたんだ? フィオルゼル殿下、無事ですか?」

 気を取り直したように、カイルが声を上げて近付いてきた。と、その前に炎が跳ねる。

「うわっ」
「近付かないで」

 少女が強張った声で言う。カイルはその場に立ち止まって、目を白黒させた。

「い、いや、待って下さいって。俺は味方で……」
「兄様を守れなかった無能な味方なんて要らない。この世で私に必要なのは兄様だけだわ。さっきも言ったけど、他は全員殺す」
「う、うわ、本気っぽい……フィオルゼル殿下! 何とか言ってやって下さいよ!」

 カイルの必死な声を掛けられ、フィオルゼルは「ああ」と頷いた。

 名も知らぬ少女に向かって、真剣な顔で向き直る。少女がいくらか緊張した気配を漂わせたのを見ながら、真面目な口調で言った。

「……そうやって勇ましいことを言っている姿も、凛とした戦乙女ヴァルキリーのようだね」
「は、はああ?!」

 カイルが叫びながら、大仰に頭を抱え込んだ。

「どうしたんだい、カイル」
「で、殿下! 洗脳とかされてないよな?」
「なぜ洗脳なんかする必要がある? 命の恩人だし、好意を抱かないはずがないのに」
「そ、そうですかね……?」

(本当にどうしたんだ、カイルは)

 この少女に対して、何の疑いの気持ちを抱くというんだ? こんなに可憐なのに……と思いながら、フィオルゼルは視線を少女に戻した。

「兄様……」

 少女の頬は、真っ赤に染まっていた。
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