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54・美味しい水

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 ルーニャは屋根裏部屋へ戻って厚手の上着を引っ張り出してきた。ほくほくしながら庭へまわると、リンゴの木の近くで身をかがめていた主人の姿を見つけた。彼もまたあたたかそうなセーターを着込んでいる。

「昨日が満月だったから、少しだけ端が欠けているよ」

 望遠鏡の調整をしていたナイトフォールは体を起こして腰をとんとんと叩いた。
 近くのガーデンテーブルに小さなランプがともっている。それに水筒とカップが二つ。
 下からランプに照らされた主人の顔はいつもと違うような幻想的な感じがした。

 雲はほとんどない。小さな星が点々としている横で、月は明るく黄色くてまん丸に見える。ルーニャは目を細めてクレーターの模様を見ようとした。

「ルーニャ、おいで」
「はい」

 ナイトフォールに呼ばれてそばへ行った。お茶を一杯頼まれる。

「もう十年以上前の望遠鏡だから、きれいに見えるかは保証できないがね」
「旦那様が子どものときに買ってもらったものなんですか?」
「いいや、これは父の望遠鏡なんだよ」
「へえ、からすの部屋の月の写真も……お父様は夜空が大好きなんですね」
「うん」

 カップを受け取ったナイトフォールは静かにお茶をすすった。
 望遠鏡は三脚に乗せてしっかり固定されている。この白い筒の中で何が起きているのか、本で読んでなんとなくわかってはいるけれどちゃんと理解しているわけではない。望遠鏡の種類にも色々あって、レンズを二枚使ったもの、鏡を利用したもの、他にも倍率を変えて見たいものを拡大することもできる。過去の人たちのくなき好奇心と挑戦の結果、今ルーニャ少年は手でさわれない遠くのものを間近で見ることができるのだ。あと数百年、いや今の科学ならたった百年あれば望遠鏡はさらに進化するだろうか?

 そういえば、さっき読んだ『時間ときの流れの行き止まり』の中で主人公の少年がブラックホールの中を観察する望遠鏡の設計図を描くシーンがあった。仕組みが複雑すぎてほとんど覚えていないのだが、あれがアシスタントロボットのマックスを復活させる手がかりになったのだ。

 お茶を飲みながらぼんやり物思いにふけったあと。ナイトフォールに背中を押されて、ルーニャはそーっと接眼レンズをのぞいてみた。

「わあー」

 突然現れた黄色い光に声が出た。月だ! 目の前にある。
 薄暗いシミのようなクレーターがいくつもあった。それぞれに天文学者の名前が付けられていたはずだ。

「おおーー」

 ルーニャは人の言葉を忘れて感嘆かんたんの声をらした。思考が追いつかない。顔を上げて本物の月を見て、また望遠鏡を覗いて答え合わせをする。月の模様は同じだ。

 隣で「ふふっ」と主人が笑っている。

「旦那様もどうぞ!」
「私はあとでいいよ。君の好きなだけ楽しみなさい」

 ルーニャは目をきらきらさせてナイトフォールにあれこれ報告した。月をじっくり見てみると、その表面が「太陽の光に当たっている」ことを実感する。そして、なんというか、月そのものが「光って見える」のだ。光が反射しているだけなのに。昼に見た庭のようにかがやいている。

 ナイトフォールがお茶の入ったカップを差し出したので、ルーニャはひと休みすることにした。

 体調を崩してから数日、ずっと自分の世界にもってものを考えていた気がする。主人たちと顔を合わせる必要はなく、好きなときに寝起きして、本を読むことを許されていた。古書店にいたときも同じような生活だった。でもあのころは何かに積極的な気持ちになれず、手を伸ばせば本があったので読んでいた。現実逃避だ。ナイトフォール屋敷に来てからも、一日の大半は物語の世界に逃げていた。
 今日は少し違う。コップに水がなみなみと入っていて、美味しく飲むことができる。
「満ち足りている」という言葉に辿たどり着いたのは、もう少しあとになってからだった。


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