49 / 55
49・風邪
しおりを挟む
本を読み終わるころには深夜になっていたらしい。壁の時計がカチコチ鳴っている。
頭がぼあ~っとする。「一冊読んだ」心地良い疲労と満足感でルーニャはにこにこしていた。エネルギーを使い果たした。固くなった体をゆっくり伸ばしてあくびする。
「おもしろかった~」
ルーニャは『蝶々と砂の砦』を両手に抱えてふらふらとソファへ歩み寄った。どっさり倒れ込んで仰向けになり、重たいまぶたを閉じる。照明がまぶしいので腕を顔に乗せる。このまま朝までぐっすりコースだ。
心が無になった。
「あっち」に連れていかれた。
主人公の少年と一緒に旅をした。戻ってきたときにはルーニャの心の奥に据え置きされている「石」が軽くなった。重さが十キログラムだとしたら、七くらいに減っただろう。
頭の中でさまざまな場面が再生される。お気に入りのシーンを繰り返し思い出した。
砂漠の蛇が器用に体をくねくね曲げて文字を描くところ。蛇は少年の名前を教えてやろうとしているのだが、彼は呪いの呪文だと思ってナイフで一刀両断してしまう。自分が何者であるのか知る機会を失った少年を見て、ルーニャは惜しいという気持ちと、親近感がわいた。
彼は何も持っていない。名前すら知らない。
自分と同じだ。ルーニャは本名ではない。
また一人、心を慰めてくれる友達ができた。
ルーニャは深いため息をついた。読んで良かった。…………
ふ、と気がついた。吸い込んだ息が冷えている。
(寝ちゃったんだ……)
外で鳥がさえずっている。朝だ。早朝の薄明るい時間帯はしんと静かだ。
時計を見ようとして顔を上げると、やわらかいものが頬に触れた。毛布がかけられている。
主人だろうか。親切にしてもらったことに感謝しながら起き上がった。なんだか体が重い。頭がぼーっとする。
コツ、と手に固いものが当たった。昨日読みふけった本だ。腕を伸ばして引き寄せる。肩から毛布がゆるりとすべり落ちた。
重たい本。持ち上げる気力がなかったので、表紙をさらっと撫でる。
「……お腹すいた」
ルーニャはだるい体を起こして根性でシャワーを浴びてきた。食堂の冷蔵庫を開けてドーナツをレンジで温めたところまでは覚えている。使用人のアリスはまだここに来ていない。朝食の支度に取りかかる前に他の仕事をしているのかもしれない。
小腹を満たしてテーブルに突っ伏していたら、また寝ていた。
次に目が覚めたとき、確実に体の異変を感じた。
なんとなく、ではなく全身がだるい。
ルーニャはふかふかのベッドで横になっていた。自分の足で歩いてきた記憶がない。ここはいつもの屋根裏部屋のベッドでもない。ぼんやり見えるのは、知らない天井だ。
いい匂いのするベッドの中でもぞもぞ動いてみる。でも起きられなかった。
「頭が痛い……」
たくさん寝たので、もう目をつむっても深い眠りにつくことはできなかった。細切れに意識がかすむ。何度かうとうとして目を開けたとき、ベッドのそばに誰かが立っていた。濃い色のワンピース……使用人のアリスだ。
艶のある黒髪をきりっと後ろでまとめた女性。白いエプロンが印象に残る。
アリスはサイドテーブルにコップと水差しを置いた。もぞもぞしているルーニャに気がついて、そっと声をかけてくれる。
「お水、飲めますか?」
「うん」
あたたかく、慈愛のある声だった。
アリスは透明なガラスの水差しを傾けて、ゆっくりコップに水をそそいでくれた。
ルーニャは苦労して体を起こした。ひどく喉が渇いていた。アリスからコップを受け取って、こくこくと飲み干す。生き返ったような気分だ。
「ここは旦那様の寝室です。あの方がルーニャさんを運んできてくださったんですよ」
「え……」
何か言おうとして頭がくらくらした。アリスがルーニャの言葉をさえぎって話の続きをする。
「今はよく休んでください。おかゆを持ってきますから、少し食べておきましょう」
「……食べたくない」
「風邪薬を飲むためにちょっとだけ必要なんです。無理にとは言いませんけど」
アリスはぼそぼそしゃべるルーニャに体温計を渡してさっと部屋を出ていってしまった。
再び静かになった部屋――主人の寝室でルーニャは自分の手元を見つめた。わざわざ測らなくても、温度が高いのはわかっている。
「はあー」
仕方なくルーニャは体温計を脇にはさんだ。アリスの有無を言わさぬ圧に負けた。
リリリリリン
電話だ。部屋の向こうで鳴っているかん高い音を聞きながら、そういえばジャンが生存報告をするとか言っていたことを思い出した。
僕たちは、二人とも生きてる。なのに自分は電話に出られないことが悔しかった。
頭がぼあ~っとする。「一冊読んだ」心地良い疲労と満足感でルーニャはにこにこしていた。エネルギーを使い果たした。固くなった体をゆっくり伸ばしてあくびする。
「おもしろかった~」
ルーニャは『蝶々と砂の砦』を両手に抱えてふらふらとソファへ歩み寄った。どっさり倒れ込んで仰向けになり、重たいまぶたを閉じる。照明がまぶしいので腕を顔に乗せる。このまま朝までぐっすりコースだ。
心が無になった。
「あっち」に連れていかれた。
主人公の少年と一緒に旅をした。戻ってきたときにはルーニャの心の奥に据え置きされている「石」が軽くなった。重さが十キログラムだとしたら、七くらいに減っただろう。
頭の中でさまざまな場面が再生される。お気に入りのシーンを繰り返し思い出した。
砂漠の蛇が器用に体をくねくね曲げて文字を描くところ。蛇は少年の名前を教えてやろうとしているのだが、彼は呪いの呪文だと思ってナイフで一刀両断してしまう。自分が何者であるのか知る機会を失った少年を見て、ルーニャは惜しいという気持ちと、親近感がわいた。
彼は何も持っていない。名前すら知らない。
自分と同じだ。ルーニャは本名ではない。
また一人、心を慰めてくれる友達ができた。
ルーニャは深いため息をついた。読んで良かった。…………
ふ、と気がついた。吸い込んだ息が冷えている。
(寝ちゃったんだ……)
外で鳥がさえずっている。朝だ。早朝の薄明るい時間帯はしんと静かだ。
時計を見ようとして顔を上げると、やわらかいものが頬に触れた。毛布がかけられている。
主人だろうか。親切にしてもらったことに感謝しながら起き上がった。なんだか体が重い。頭がぼーっとする。
コツ、と手に固いものが当たった。昨日読みふけった本だ。腕を伸ばして引き寄せる。肩から毛布がゆるりとすべり落ちた。
重たい本。持ち上げる気力がなかったので、表紙をさらっと撫でる。
「……お腹すいた」
ルーニャはだるい体を起こして根性でシャワーを浴びてきた。食堂の冷蔵庫を開けてドーナツをレンジで温めたところまでは覚えている。使用人のアリスはまだここに来ていない。朝食の支度に取りかかる前に他の仕事をしているのかもしれない。
小腹を満たしてテーブルに突っ伏していたら、また寝ていた。
次に目が覚めたとき、確実に体の異変を感じた。
なんとなく、ではなく全身がだるい。
ルーニャはふかふかのベッドで横になっていた。自分の足で歩いてきた記憶がない。ここはいつもの屋根裏部屋のベッドでもない。ぼんやり見えるのは、知らない天井だ。
いい匂いのするベッドの中でもぞもぞ動いてみる。でも起きられなかった。
「頭が痛い……」
たくさん寝たので、もう目をつむっても深い眠りにつくことはできなかった。細切れに意識がかすむ。何度かうとうとして目を開けたとき、ベッドのそばに誰かが立っていた。濃い色のワンピース……使用人のアリスだ。
艶のある黒髪をきりっと後ろでまとめた女性。白いエプロンが印象に残る。
アリスはサイドテーブルにコップと水差しを置いた。もぞもぞしているルーニャに気がついて、そっと声をかけてくれる。
「お水、飲めますか?」
「うん」
あたたかく、慈愛のある声だった。
アリスは透明なガラスの水差しを傾けて、ゆっくりコップに水をそそいでくれた。
ルーニャは苦労して体を起こした。ひどく喉が渇いていた。アリスからコップを受け取って、こくこくと飲み干す。生き返ったような気分だ。
「ここは旦那様の寝室です。あの方がルーニャさんを運んできてくださったんですよ」
「え……」
何か言おうとして頭がくらくらした。アリスがルーニャの言葉をさえぎって話の続きをする。
「今はよく休んでください。おかゆを持ってきますから、少し食べておきましょう」
「……食べたくない」
「風邪薬を飲むためにちょっとだけ必要なんです。無理にとは言いませんけど」
アリスはぼそぼそしゃべるルーニャに体温計を渡してさっと部屋を出ていってしまった。
再び静かになった部屋――主人の寝室でルーニャは自分の手元を見つめた。わざわざ測らなくても、温度が高いのはわかっている。
「はあー」
仕方なくルーニャは体温計を脇にはさんだ。アリスの有無を言わさぬ圧に負けた。
リリリリリン
電話だ。部屋の向こうで鳴っているかん高い音を聞きながら、そういえばジャンが生存報告をするとか言っていたことを思い出した。
僕たちは、二人とも生きてる。なのに自分は電話に出られないことが悔しかった。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
保健室の秘密...
とんすけ
大衆娯楽
僕のクラスには、保健室に登校している「吉田さん」という女の子がいた。
吉田さんは目が大きくてとても可愛らしく、いつも艶々な髪をなびかせていた。
吉田さんはクラスにあまりなじめておらず、朝のHRが終わると帰りの時間まで保健室で過ごしていた。
僕は吉田さんと話したことはなかったけれど、大人っぽさと綺麗な容姿を持つ吉田さんに密かに惹かれていた。
そんな吉田さんには、ある噂があった。
「授業中に保健室に行けば、性処理をしてくれる子がいる」
それが吉田さんだと、男子の間で噂になっていた。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる