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49・風邪

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 本を読み終わるころには深夜になっていたらしい。壁の時計がカチコチ鳴っている。

 頭がぼあ~っとする。「一冊読んだ」心地良い疲労と満足感でルーニャはにこにこしていた。エネルギーを使い果たした。固くなった体をゆっくり伸ばしてあくびする。

「おもしろかった~」

 ルーニャは『蝶々と砂の砦』を両手に抱えてふらふらとソファへ歩み寄った。どっさり倒れ込んで仰向けになり、重たいまぶたを閉じる。照明がまぶしいので腕を顔に乗せる。このまま朝までぐっすりコースだ。

 心が無になった。
「あっち」に連れていかれた。
 主人公の少年と一緒に旅をした。戻ってきたときにはルーニャの心の奥にえ置きされている「石」が軽くなった。重さが十キログラムだとしたら、七くらいに減っただろう。

 頭の中でさまざまな場面が再生される。お気に入りのシーンを繰り返し思い出した。
 砂漠の蛇が器用に体をくねくね曲げて文字を描くところ。蛇は少年の名前を教えてやろうとしているのだが、彼は呪いの呪文だと思ってナイフで一刀両断してしまう。自分が何者であるのか知る機会を失った少年を見て、ルーニャはしいという気持ちと、親近感がわいた。

 彼は何も持っていない。名前すら知らない。
 自分と同じだ。ルーニャは本名ではない。

 また一人、心をなぐさめてくれる友達ができた。
 ルーニャは深いため息をついた。読んで良かった。…………


 ふ、と気がついた。吸い込んだ息が冷えている。

(寝ちゃったんだ……)

 外で鳥がさえずっている。朝だ。早朝の薄明るい時間帯はしんと静かだ。
 時計を見ようとして顔を上げると、やわらかいものがほおに触れた。毛布がかけられている。
 主人だろうか。親切にしてもらったことに感謝しながら起き上がった。なんだか体が重い。頭がぼーっとする。
 コツ、と手に固いものが当たった。昨日読みふけった本だ。腕を伸ばして引き寄せる。肩から毛布がゆるりとすべり落ちた。
 重たい本。持ち上げる気力がなかったので、表紙をさらっとでる。

「……お腹すいた」

 ルーニャはだるい体を起こして根性でシャワーを浴びてきた。食堂の冷蔵庫を開けてドーナツをレンジで温めたところまでは覚えている。使用人のアリスはまだここに来ていない。朝食の支度に取りかかる前に他の仕事をしているのかもしれない。
 小腹を満たしてテーブルに突っ伏していたら、また寝ていた。

 次に目が覚めたとき、確実に体の異変を感じた。
 なんとなく、ではなく全身がだるい。

 ルーニャはふかふかのベッドで横になっていた。自分の足で歩いてきた記憶がない。ここはいつもの屋根裏部屋のベッドでもない。ぼんやり見えるのは、知らない天井だ。

 いい匂いのするベッドの中でもぞもぞ動いてみる。でも起きられなかった。

「頭が痛い……」

 たくさん寝たので、もう目をつむっても深い眠りにつくことはできなかった。細切れに意識がかすむ。何度かうとうとして目を開けたとき、ベッドのそばに誰かが立っていた。濃い色のワンピース……使用人のアリスだ。
 つやのある黒髪をきりっと後ろでまとめた女性。白いエプロンが印象に残る。

 アリスはサイドテーブルにコップと水差しを置いた。もぞもぞしているルーニャに気がついて、そっと声をかけてくれる。

「お水、飲めますか?」
「うん」

 あたたかく、あいのある声だった。
 アリスは透明なガラスの水差しを傾けて、ゆっくりコップに水をそそいでくれた。
 ルーニャは苦労して体を起こした。ひどくのどが渇いていた。アリスからコップを受け取って、こくこくと飲み干す。生き返ったような気分だ。

「ここは旦那様の寝室です。あの方がルーニャさんを運んできてくださったんですよ」
「え……」

 何か言おうとして頭がくらくらした。アリスがルーニャの言葉をさえぎって話の続きをする。

「今はよく休んでください。おかゆを持ってきますから、少し食べておきましょう」
「……食べたくない」
「風邪薬を飲むためにちょっとだけ必要なんです。無理にとは言いませんけど」

 アリスはぼそぼそしゃべるルーニャに体温計を渡してさっと部屋を出ていってしまった。
 再び静かになった部屋――主人の寝室でルーニャは自分の手元を見つめた。わざわざはからなくても、温度が高いのはわかっている。

「はあー」

 仕方なくルーニャは体温計をわきにはさんだ。アリスの有無を言わさぬ圧に負けた。

 リリリリリン

 電話だ。部屋の向こうで鳴っているかん高い音を聞きながら、そういえばジャンが生存報告をするとか言っていたことを思い出した。
 僕たちは、二人とも生きてる。なのに自分は電話に出られないことがくやしかった。


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