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48・蝶々

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 一人になると石榴ざくろの部屋はずいぶん広い場所のように思えた。
 ルーニャは部屋の電気をつけた。夕方、光と影の境界線があいまいだった世界に区別がつく。

 物言わぬ本棚はしんと静まっていた。しかし千を超える背表紙に印刷された言葉はルーニャを呼んでいる。私を読んで。
 ルーニャは誘われるように奥へ進み、背伸びをして『竜騎士レッドウルフ』を棚に差し入れた。隙間が埋まり、目立つ赤い色の本はすんなりと風景の一部に溶け込んでしまう。

 本を手放すと、ふっと身も心も軽くなった気がした。

 二、三歩後ずさってなんとなく本棚を見渡してみる。毎日のようにながめているのに、どこにどの本があるのかまだ全てを記憶できていない。でも、読んだ数が増えていくとだんだん頭の中の本の地図が細かく詳しくなっていく。
 そういえば、レッドウルフの近くにそのうち読もうと思っていた物語があったはずだ。

「あった」

 目に入ったのはすぐに読み終えてしまえそうな細い本だった。さらさらした肌触りの良いカバーだ。沈んだ気持ちを紛らわせたくて取ろうと思ったその本の隣に、質感の異なるもう一冊の本があった。

「……新しい本?」

 屋敷の主人が新しい本を購入したときはルーニャにも見せてくれる。それでも知らないうちに蔵書が増えていて、屋敷という「本の森」はどんどん成長していくのだ。

 ほんの気まぐれだった。ルーニャは重くて分厚い本を手に取った。

『蝶々と砂のとりで

 表紙の文字は細くて美しい。文字の端はくるくると巻いて装飾されていた。蝶の触覚のようだ。
 日に焼けた黄色い紙をペラとめくる。最初に物語の世界地図が描かれていた。ほとんど砂漠地帯で、人々が暮らす国は一つ、森林や海は地図の隅にちょっと見えるくらいだ。
 地名も独特だった。風鈴通りの市場、腹立ち猫の秘密基地、目隠し甲虫の道標みちしるべ、……。言葉の組み合わせが面白くて、どんな不思議なことが起きるのかを想像する。

「……」

 次にめくった一ページで、物語のあっちの世界に吸い込まれてしまった。

 それは、お腹をすかせて死んだ子どもが荒野に迷い、魂の旅をする物語だった。彼を導くようにひらひらと蝶が飛んでいく。
 少年は自分が死んだあとの世界を旅する。彼には生前の記憶がない。

 ルーニャはしばらくのあいだ彼の冒険を追っていたが、手に持っていた本が重たくなったのでじゅうたんの上に座ってあぐらをかいた。ソファに腰かけるより早くページをめくりたかった。

 物語の少年は常に孤独だった。
 砂漠の花に語りかけ、月の雫を飲み、地下迷宮への入口を求めて砂丘の風紋ふうもんにじっと目をらす。

 悲しいエピソードがあるわけではない。むしろ物語は軽快な語りで進み、少年は自由に走り回る。魂は歌い、怒り、そっと涙をこぼす。
 死は救済。きゅうくつな生のおりから解放されたご褒美だった。


「ルーニャ」
「わあっ」

 ナイトフォールが呼びに来たことに気づかず、ルーニャは肩をぽんと叩かれるまで一心に読みふけっていた。
 そっと声をかけられたとき、本当にびっくりして肩を震わせた。

「大丈夫かい? そろそろ食事にしよう」

 驚かせるつもりはなかったナイトフォールの方がわずかに目を見開いている。
 ルーニャは急に現実へ引っ張ってこられたので意識を切り替えるのに時間がかかった。あぐらを崩して失礼のないように座り直す。しおりひもをはさむのを忘れて本を閉じてしまった。

「あ、あの……」
「うん」

 今はぜんぜんお腹が空いていない。

 片膝かたひざをついて隣にしゃがんでいるナイトフォールへ、ルーニャは勇気を出して言ってみた。

「あの、もう少しこの本を読んでいてもいいですか?」

 食事をするのに一時間、いや食べるだけなら三十分もかからない。でも今はこの物語から離れることが惜しい。
 現実逃避だ。
 初めて主人にわがままを言った。

 ナイトフォールはそれ以上を言わず、わかった、とうなずいた。本の表紙をちらりと見て少しほほ笑んだ。

「徹夜はよくないよ。お腹がすいたらきちんと何か食べること。いいね?」
「はい」

 ナイトフォールは緊張と興奮で血色の良くなった少年のほおをするっと指で軽くでて、立ち上がった。
 
 主人が退室するまで見送って、ルーニャはふうっと大きく息をついた。罪悪感で気持ちを上書きする前に、再び楽な姿勢になって本を開く。まだ三分の一。少年の旅は続く。

 途中トイレに行ったりはするものの、ルーニャはほとんど飲まず食わずで物語の世界に没頭していた。むしろ物語をもぐもぐ食べている。とても読みやすい文章なのだ。章が終わって本を閉じようとすると、次のエピソードが目に入ってつい「読んでしまう」

 あれから主人は石榴の部屋にやって来なかった。
 屋敷は静かで、ときどき庭の木がざわざわと揺れる音が聞こえる。ふと気がつくたび、空気が冷えていく。もう寝る時間だ。

 物語は陽気で不思議なできごとをつづっていく。砂中に眠る巨大な亀が話しかけてきたり、唯一の街で押し売りされた弓で流星を狙ったりする。名前を失った少年は自分が死んだことを知らない。大きな目的はなく、旅をしていくうちにやがて身体も風にとけてちりになっていく。誰にも何も言わず、最後に何を見たのかも記憶できずに消えていくのだ。
 砂漠を舞う蝶は「楽しかった」という魂の声を聞いた。


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