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37・ニャニャー

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 ナイトフォールから与えられた宿題は古典の翻訳。ルーニャが勉強している第二言語の教科書に有名な古典がいくつか載っている。その一節を母語に訳すのだ。

 ルーニャは屋敷の一階にある石榴ざくろの部屋にいた。屋根裏部屋に閉じこもっていてもよいのだが、主人とのたわむれの後だったので油断するとついほおがゆるんでしまう。ベッドに飛び込んでゴロゴロ転げ回ったのち、火照ほてった顔のまま下に降りてきた。図書館で借りてきた『女神の吐息』はひとまずおあずけだ。
 石榴の部屋は広いし、たくさんの本に囲まれていると心がしずまる。

「んーー」

 窓辺の机にノートなど勉強道具を置いて、ルーニャはめいっぱい伸びをした。明るい午後のがルーニャのナッツ色の髪を輝かせる。
 机には分厚い本が置いてあった。おや? と少年は表紙をのぞきこんだ。知らない国の言葉だ。

「何て読むんだろう」

 文字は不思議な形の曲線で書かれている。何かの本で見たような気もする。地理の教科書だったろうか?
 本をパラパラめくってみると、呪文のような模様がびっしり印刷してあった。
 しばらくにらめっこしてみたけれど……残念、この本はわからない。パタンと閉じて、ルーニャはふと思い出した。

 少し前、ナイトフォールが電話で仕事先の相手とやりとりをしているとき、途中から知らない言葉で話しているのを聞いたことがあった。語調がなめらかで、耳に心地良いと思っていた。
 ナイトフォールの低い声にうっとりしていると、彼はときどきほがらかに短い言葉を発するのだ。

「ニャニャー」

 ニャニャー。スーツ姿の紳士が可愛らしいことを言っている。そのとき主人の少し後ろで見守っていたルーニャは、肩を震わせながらも声を出さないように耐えるのが大変だった。

「ニャニャー」は「ありがとう」という意味だそうだ。

 ナイトフォールが話していたのは、ルーニャが住んでいる街から地球の裏側にある大陸の共通語らしい。地図帳を開いて位置を確かめた。赤道の向こうでは季節が反対なのだとか。今ルーニャのいる国が初夏だから、あちらは冬が始まろうとしているところだ。雪も降るのだろうか。


「ニャニャー」

 なんとなく新しく覚えた言葉をしゃべってみる。いつか使う機会が来るといいなと思う。気持ちがあたたかくなっているうちにルーニャは椅子に座ってノートを広げた。教科書を黙読する。

 今日の物語は、旅人が自然の美しさに感動して立ち止まり、テントウムシが指の先にとまったのを見てふるさとに思いをせる、というものである。

 指先から飛び立つテントウムシ、青空と赤い虫の背中との対比が印象的なシーンだ。

 思ったより簡単な文章だったので安心した。わからない単語があれば、席を立って本棚から辞書をひっぱり出せばよい。

 今、ルーニャがテントウムシのことを考えているとき、地球の裏側でニャーニャー言っている人がいる。


 唐突にルーニャは「自分は生きている」と強く感じた。


 バッと心にけられて、一瞬ルーニャは鉛筆を止めた。書きかけのノートを見つめたまま、自分の内側から何かがき上がってくるのを理解した。この感情にふさわしい名前が思いつかない。

「…………」

 妙に落ち着いていた。ルーニャは顔を上げてひとつ深呼吸した。窓を見れば庭からピュルル、と鳥の鳴き声が聞こえる。

 少年はもう一度机に目を向けた。鉛筆を持つ自分の手、しなやかできれいな手だとナイトフォールが褒めてくれた。

「えへへ。ニャニャー」

 なんだか無性に嬉しくなって、ルーニャはぎゅーっと目をつむって笑顔になった。


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