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17・朝

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 ベッドで目覚めると、ルーニャはぼんやりした頭でゆっくりと起き上がった。

 屋根裏部屋に朝の光が差し込んでいた。ピュルリリ……とかわいらしい鳥の鳴き声が遠くから聞こえてくる。

「ふわあ……んん」

 伸びをしてしばらく外の音に耳をかたむけていると、ふいに夕べのことが思い出された。記憶に刻み込まれたくちびるの感触が、目覚めたばかりのルーニャの鼓動を騒がせた。

「…………」

 衝動。ナイトフォールに甘えたいと思った。

 契約した主人とのふれあいは、いわゆる「恋人ごっこ」なのだと認識していた。生活の保証をしてもらい、主人の要求に応えるという、仕事なのだと思って受け入れていた。
 昨日のナイトフォールのキスは、今までされてきたどれよりも深く、長い時間をかけてよろこびを与えてくれた。

「はずかしい……」

 ルーニャはくるまっていた毛布をぎゅうとつかんでひざをかかえた。ついカッとなってしがみついたナイトフォールの身体のぬくもりが、余韻よいんとなって少年の胸の内にずっととどまっている。

「うう」

 思い出すほど体温が上がってしまう。いたたまれなくなって身じろぎすると、固い物に当たった。手に取ると、一冊の本だった。石榴ざくろの部屋から借りてきた、表紙に流れ星の絵が描いてあるものだ。

「ああ……結局読めなかったんだ」

 頭が爆発していたので、ルルの本は最後の章を開くことなくベッドに潜り込んだのだ。
 あと二十ページくらいだ。すぐに終わるだろう。ここで読んでしまおうかとちらりと考えたけれど、本と向き合う心の準備ができていない。
 決心すると、ルーニャは顔を洗うために下へ降りることにした。


「旦那様に、どんな顔して会えばいいんだろう……」

 悶々《もんもん》と考えながら廊下を曲がり、通り過ぎようとした階段の手前で、屋敷の主人が二階へ上がってくるところに偶然鉢合わせしてしまった。

「!?」

 突然現れた主人にびっくりしたルーニャは、つい、身を引いて壁に張りついて、姿を隠してしまった。

「ルーニャ」

 少年を見つけたナイトフォールの呼びかける声はやわらかく、とっさに隠れて主人と距離をとった失礼な行動をとがめる様子はなかった。

 ルーニャはそおっと壁の向こうから顔を出した。階段を上がりきったナイトフォールの前に、おずおずと身をさらす。ネクタイをきちんと身に付けた主人と対して、少年はまだ寝間着姿だった。

「……っ」

 ナイトフォールの顔を見たとたん、ルーニャはぱっと夕べのことを思い出して、ほおが赤くなった。嬉しさと、自分のふるまいの恥ずかしさがごっちゃに混ざって、すぐに言葉が出てこなかった。

「おはよう」

 穏やかな笑みを浮かべて、主人のナイトフォールから先に挨拶あいさつした。ルーニャは真っ赤になりながら声をふりしぼった。

「おはよう、……ございます!」

 誰が見ても緊張しているのがわかる。ナイトフォールはさらに目尻を下げて少年を見つめていた。理知的な切れ長の眼がまろやかになっている。

「よく眠れたかね?」
「あっ、……ああ、はい、ええと……!」
「朝食はもうすぐだよ。早く支度しておいで」

 少年は頭から湯気を出してこくこくとうなずいた。

 ナイトフォールはふと手を伸ばして、ルーニャの頬を軽くでた。そしてそのまま身をひるがえして階段を下りていってしまった。主人がここに来たのは、少年の様子を見にくるためだとわかったのはもう少し後になってからだった。


 朝の食堂は爽やかな光に満ちていた。席に着けばすぐに食事が始められるようになっている。

「おはようございます」
「おはよう」

 着替えてきたルーニャはだいぶ気持ちが落ち着いていた。主人が手に持つマグカップから珈琲のいい香りがする。

 使用人のアリスは、ルーニャのために温かなミルクをマグにそそいでくれた。
 三人で食卓を囲むのはルーニャの楽しみのひとつだった。アリスも白いエプロンを外してイスを引く。使用人の同席がゆるされていた。この屋敷では身分による待遇の差はあまりないといってよい。

『いただきます』

 朝食は玉子とハムのサンドイッチだ。軽くトーストしてあるので、パンがカリッとしていてとても美味しい!

「んん!」

 ルーニャの分にはマヨネーズが多めに入っている。食欲が刺激された。

「アリスさん、この玉子すごく美味しいです」
「ふふ、わかりますか? いつもと違う銘柄なんですよ。今日のおやつも楽しみにしていてくださいね」

 パッと頭が冴えてきた。テーブルにはアリスが庭でんできたばかりの花がいろどりを添えている。少年の混乱した心は満足な食事によってどこかへ吹き飛んでしまった。

 ナイトフォールは、言葉少なに食事を終えると、すぐに仕事部屋に直行した。今日は大学の講義があるから、昼まで集中して取りかからなければならなかった。ルーニャはちょっと寂しいなと思ったけれど、主人は今忙しいのだと自分に言い聞かせる。

 主人が食堂から出ていくときに、ルーニャの肩にぽんと手を置いてくれた。ルーニャは背の高い紳士の後ろ姿を見送った。さりげない仕草で、気持ちがあたたかくなる。

 皿洗いは最近ルーニャが手伝うようになった。アリスが洗濯部屋に行ってしまうと、少年は厨房に一人残された。主人が口をつけたカップも丁寧に洗う。

「ふんふん♪」

 すりガラスの窓からやわらかな光が入ってきていた。一息ついたルーニャが片手を上げると、肌目きめのととのった指先から水がしたたる。
 光にかざしたしずくの表面には世界の景色がぎゅっと凝縮されて写っていた。一粒、二粒、ぽたり、ぽたりとシンクに落ちていくところを、ルーニャはいつまでも見守っていた。


 何度思い出しても、幸福感で満たされる。
 夕べのキスは、やっぱり嬉しかったのだ。


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