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16・星の涙
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寝床に入る前。ルーニャは居間のソファに座って、今日読んでいた本の残りを平らげていた。暖炉の火は消えて、燠火の熱が少しずつ冷めていく。
『星盗りの砂丘』
ナイトフォールの推し作家、ルルの入門書としてオススメされたのが、この短いファンタジーだ。
砂漠に棲んでいる大地の妖精が、ある晩、見上げた星が涙をこぼしているのを見て、この水を使って砂漠にオアシスをつくろうという物語だ。
星の恋人である月は、妖精の企みを知ってあれこれ邪魔をしてくるのだが、いつもあと一歩のところで逃げられてしまう。
「うわっ、バケツに穴があいてる」
月のしわざだ。これでは水をためられない……。
詰めはあまいけど、転んでもただでは起きない。したたかな月のキャラに好感度が上がっていく。
妖精も頭がキレるので、風を操り砂を飛ばし、大地に呪文のような模様を描き出す。それを見た星は方角がわからなくなり、墜落してしまう。
「トンボに指をぐるぐるする、アレみたいだなあ」
くすりと笑ったところで、コンコン、と部屋の扉がノックされた。
居間にやって来たのは主人のナイトフォールだ。常に身なりをととのえている人だが、今夜はもうネクタイを外して、楽な格好になっていた。
「ルーニャ、夜更かしかい」
「はい。借りていたルルの本を読み終わるまで、あと少しなんです」
ナイトフォールがルーニャの座っているソファの隣に腰かけてきたので、少年は本に栞をはさみ、閉じてわきに置いた。
「私は一休みに来ただけだから、続きを読んでいてかまわないよ」
「いえ、最後の章はベッドの中で読めますから」
「うん……そうか。では、ちょっと失礼」
ことわりを入れて、ナイトフォールはルーニャの背中にそっと腕を回した。ドキッとした少年は意識を切り替えて、主人の求めに応じるよう背筋を伸ばした。
……が、ナイトフォールはルーニャに寄りかかったままで、大きく息を吐いただけだった。なんだかぐったりしているようだ。
「旦那様……?」
「……論文の……締切が…………」
魂が消えていきそうな切なる声だった。
ずーんと主人の体重が増したように感じられる。その重みがルーニャには心地好かった。
「だいぶおつかれのようですね」
「そう、そうなんだ。憑かれているんだよ……」
もう一度ため息をついた主人は、ふだんは見せることのない弱気モードになっていた。ルーニャは彼の大きな手に、自分の手をそえた。
「ああ、やはりルーニャが一番抱き心地がいい」
ぎゅう、と軽く力がこめられる。
むしろ押し倒してほしいと、少年に甘い想いが芽生えた。
しばらく二人で寄り添っていると、ルーニャの頭上で静かな規則正しい呼吸が聞こえ始めた。少年は顔を上げて主人に声をかける。
「旦那様、少しおやすみになりますか? 僕の膝枕でよければ」
「ありがとう……」
うっすらと目を開けたナイトフォールは、素直に従ってルーニャの膝元へ体を横たえた。重力に負けている。
ルーニャは主人の暗色の髪をやさしく撫でてやった。自分の二倍長く生きている年長者に対して、こんなときでないとゆるされない行為だ。ふさふさの髪のすきまに、一本の白い毛を見つけてしまう。
昼間、鍵のかかった部屋で見かけたナイトフォールのさびしそうな雰囲気は、仕事に追われているせいなのだろう。
「あまり無理はなさらないでくださいね」
「うん、でも……あと少し。いい本が手に入ったんだ。これで、学会の老人たちをうならせることができる……かもしれない」
歳が三十にたどり着いたといっても、まだまだ若い野心に燃えている。細面の横顔を見下ろしながら、旦那様はカッコいいなあ、とルーニャは思った。
ナイトフォールは目をつむりながら少年に呼びかける。
「ルーニャ。その本の最後の辺りに、詩があっただろう」
「はい。大地の妖精が、星に語りかける詩ですね」
「ひとつ、君の声で朗読してくれないか。子守歌にぴったりだ……」
「僕では棒読みになってしまいますが……」
「いいんだ。ルーニャの声が好い」
「……」
頼りにされている。そう思うと心に灯がともるようで、彼はすう、とひとつ息を吸った。
ルルの本を手に取り、詩の書いてあるページを探して開く。栞をはさんだ場所より数十ページ前にある。ついさっき読んだばかりだ。
テノールの澄んだ声が、静かな夜を慰める。
ーー星よ 星よ
かなしみの涙を いつくしみの湖に
いのちの水を 与えておくれ
ここは 砂と風が吹くばかり
渇きと飢えが あるばかり
いのちの欲を 満たしておくれ
妖精の願い事は、生命の根源的な望みだ。
朗読が終わると、ルーニャはちょっと照れくさくなってぱたんと本を閉じた。
「ありがとう。いい詩だった」
「そう言っていただけると、うれしいです」
主人の微笑みはいつでもルーニャを安心させてくれる。
ナイトフォールは少年の膝の上で頭の位置を直した。
「人類は砂漠の地方から生まれた。そのためだろうか、我々は欲望のかたまりだ」
「旦那様の欲望……世界のお伽話を集めることですか?」
「そうだね。これは知識欲というべきかな。ルーニャも、おもしろい本を読みたいという、欲があるだろう?」
「僕は……」
ルーニャが一瞬言いよどんだので、ナイトフォールはふしぎに思ってわずかに顔を上に向けた。
ルーニャは真っ直ぐにナイトフォールを見つめていた。今なら言える気がする。
「僕は……僕は、人間になりたい」
「…………」
ナイトフォールは、何も言わなかった。
かわりに、むくりと起き上がる。主人と少年の目が合った。深い色の瞳に深淵をのぞく。
「?」顔をしているルーニャにかまわず、ナイトフォールはその温かな頬に手を触れて、やさしくくちづけた。
『星盗りの砂丘』
ナイトフォールの推し作家、ルルの入門書としてオススメされたのが、この短いファンタジーだ。
砂漠に棲んでいる大地の妖精が、ある晩、見上げた星が涙をこぼしているのを見て、この水を使って砂漠にオアシスをつくろうという物語だ。
星の恋人である月は、妖精の企みを知ってあれこれ邪魔をしてくるのだが、いつもあと一歩のところで逃げられてしまう。
「うわっ、バケツに穴があいてる」
月のしわざだ。これでは水をためられない……。
詰めはあまいけど、転んでもただでは起きない。したたかな月のキャラに好感度が上がっていく。
妖精も頭がキレるので、風を操り砂を飛ばし、大地に呪文のような模様を描き出す。それを見た星は方角がわからなくなり、墜落してしまう。
「トンボに指をぐるぐるする、アレみたいだなあ」
くすりと笑ったところで、コンコン、と部屋の扉がノックされた。
居間にやって来たのは主人のナイトフォールだ。常に身なりをととのえている人だが、今夜はもうネクタイを外して、楽な格好になっていた。
「ルーニャ、夜更かしかい」
「はい。借りていたルルの本を読み終わるまで、あと少しなんです」
ナイトフォールがルーニャの座っているソファの隣に腰かけてきたので、少年は本に栞をはさみ、閉じてわきに置いた。
「私は一休みに来ただけだから、続きを読んでいてかまわないよ」
「いえ、最後の章はベッドの中で読めますから」
「うん……そうか。では、ちょっと失礼」
ことわりを入れて、ナイトフォールはルーニャの背中にそっと腕を回した。ドキッとした少年は意識を切り替えて、主人の求めに応じるよう背筋を伸ばした。
……が、ナイトフォールはルーニャに寄りかかったままで、大きく息を吐いただけだった。なんだかぐったりしているようだ。
「旦那様……?」
「……論文の……締切が…………」
魂が消えていきそうな切なる声だった。
ずーんと主人の体重が増したように感じられる。その重みがルーニャには心地好かった。
「だいぶおつかれのようですね」
「そう、そうなんだ。憑かれているんだよ……」
もう一度ため息をついた主人は、ふだんは見せることのない弱気モードになっていた。ルーニャは彼の大きな手に、自分の手をそえた。
「ああ、やはりルーニャが一番抱き心地がいい」
ぎゅう、と軽く力がこめられる。
むしろ押し倒してほしいと、少年に甘い想いが芽生えた。
しばらく二人で寄り添っていると、ルーニャの頭上で静かな規則正しい呼吸が聞こえ始めた。少年は顔を上げて主人に声をかける。
「旦那様、少しおやすみになりますか? 僕の膝枕でよければ」
「ありがとう……」
うっすらと目を開けたナイトフォールは、素直に従ってルーニャの膝元へ体を横たえた。重力に負けている。
ルーニャは主人の暗色の髪をやさしく撫でてやった。自分の二倍長く生きている年長者に対して、こんなときでないとゆるされない行為だ。ふさふさの髪のすきまに、一本の白い毛を見つけてしまう。
昼間、鍵のかかった部屋で見かけたナイトフォールのさびしそうな雰囲気は、仕事に追われているせいなのだろう。
「あまり無理はなさらないでくださいね」
「うん、でも……あと少し。いい本が手に入ったんだ。これで、学会の老人たちをうならせることができる……かもしれない」
歳が三十にたどり着いたといっても、まだまだ若い野心に燃えている。細面の横顔を見下ろしながら、旦那様はカッコいいなあ、とルーニャは思った。
ナイトフォールは目をつむりながら少年に呼びかける。
「ルーニャ。その本の最後の辺りに、詩があっただろう」
「はい。大地の妖精が、星に語りかける詩ですね」
「ひとつ、君の声で朗読してくれないか。子守歌にぴったりだ……」
「僕では棒読みになってしまいますが……」
「いいんだ。ルーニャの声が好い」
「……」
頼りにされている。そう思うと心に灯がともるようで、彼はすう、とひとつ息を吸った。
ルルの本を手に取り、詩の書いてあるページを探して開く。栞をはさんだ場所より数十ページ前にある。ついさっき読んだばかりだ。
テノールの澄んだ声が、静かな夜を慰める。
ーー星よ 星よ
かなしみの涙を いつくしみの湖に
いのちの水を 与えておくれ
ここは 砂と風が吹くばかり
渇きと飢えが あるばかり
いのちの欲を 満たしておくれ
妖精の願い事は、生命の根源的な望みだ。
朗読が終わると、ルーニャはちょっと照れくさくなってぱたんと本を閉じた。
「ありがとう。いい詩だった」
「そう言っていただけると、うれしいです」
主人の微笑みはいつでもルーニャを安心させてくれる。
ナイトフォールは少年の膝の上で頭の位置を直した。
「人類は砂漠の地方から生まれた。そのためだろうか、我々は欲望のかたまりだ」
「旦那様の欲望……世界のお伽話を集めることですか?」
「そうだね。これは知識欲というべきかな。ルーニャも、おもしろい本を読みたいという、欲があるだろう?」
「僕は……」
ルーニャが一瞬言いよどんだので、ナイトフォールはふしぎに思ってわずかに顔を上に向けた。
ルーニャは真っ直ぐにナイトフォールを見つめていた。今なら言える気がする。
「僕は……僕は、人間になりたい」
「…………」
ナイトフォールは、何も言わなかった。
かわりに、むくりと起き上がる。主人と少年の目が合った。深い色の瞳に深淵をのぞく。
「?」顔をしているルーニャにかまわず、ナイトフォールはその温かな頬に手を触れて、やさしくくちづけた。
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