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10・猫の素顔

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 ジャンは壁掛けの時計をちらりと見る。

「ルーニャ君はいくつなんだ?」
「……十六」
「の、わりにはチビだな。俺は十七。どこの学校?」
「……」
「まあいいか」

 ひまつぶしの会話はすぐに終わってしまった。
 自分で宣言したとおり、彼はルーニャの身体にさわろうとはしなかった。
 代わりに脚をひろげられてスカートの内側を隅々すみずみまでながめられ、ルーニャは顔をそむけて早く終わってほしいと祈るしかなかった。

 仰臥ぎょうがの姿勢で男性と向き合うのは、理性が飛んでいた方が楽だった。しかし今のルーニャは、秘密の遊びがバレてしまったただの恥ずかしい男の子である。

 生えかけの毛をきれいにり落とした脚を高みから見下ろして、ジャンはルーニャの尊厳をズタズタにしようとする。腕力で無理やり奪ったりしなくても、相手を服従させるすべを知っていた。器用で、ずるい人だ。ただし、相手のルーニャも特殊な環境で生きてきた経験から、そう簡単にはいかなかった。

 ルーニャはしだいに燃えるような熱い感情が体中を駆け巡っていくのを感じた。恥ずかしさ、あるいは怒りであるかもしれなかった。自分の気持ちがわかった。ジャンはきらいだ。ヤケクソになった。

 しばらく誰もしゃべらなかった。時計だけがカチコチと進む。ルーニャは目を伏せて横顔を絨毯じゅうたんに押し付けた。ほおにかかったナッツ色の髪がつやを帯びる。このときジャンが少年のほんのり朱くなった顔を見ていたら、胸がざわめいたかもしれない。


「ナイトフォール先生はちょっと変わり者なんだ。お前とは気が合うのかもな」

 ジャンはルーニャの脚に視線を落としたまま、静かに話しはじめた。少しだけ手の力がゆるんだ気がした。ルーニャはちらりとジャンの顔を見上げた。

「……変わり者、って……?」
「この間、屋敷に来たときさ。庭に降りてきたカラスに向かって、お前たちの王の名は何だ、って尋ねてるのを見てしまった」
「カラス……」
「ほんの遊び心なのはわかってるよ。あの人は妖精はいると信じてるんだ。もちろん外ではやらないよ。この聖域だけだ」
「僕は、旦那様のこと……何も知らないんだ」
「知らない人についてきたのか? 大丈夫なのかよ。先生とどこで出逢ったんだ」
「……本屋」
「お前、本の妖精だったりしてな」

 くすくすとジャンは一人で笑っている。いやみな笑い方ではなかった。

 ガチャン

「おっと」

 階下から扉の鍵を回す音が聞こえた。
 ジャンは心得ていてパッと手を離した。いきなり体が自由になっても、ルーニャはなかなか起きられなかった。まず最初に広がったスカートをよろよろ直すのがやっとだ。

「アリスさんだな。早く着替えてこいよ」

 先に立ち上がったジャンが手を差し出した。すっかり主導権を握られている。着替えと聞いて、ルーニャは必死で半身を起こし、体に力が入らないので素直にジャンの手をとると、お姫様と王子様のように優雅に引っ張りあげられた。勢いで抱きしめられてしまうのではないかと不安がよぎった。

「ど、どこにも行かないでくださいね」

 ルーニャはからすの部屋にジャンを残して、廊下へまろび出ると一目散に屋根裏へ向かった。解放された喜びで思考が吹き飛んだので、火事でも起きたかのように素早く行動した。

 拠点に戻ってくると、毛布の上にぽつんと残された小さな銀色の物を見つけた。あたためていた鳥の卵のようだった。

「え……なんで」

 ルーニャはとっさにスカートのポケットを探った。無い。リモコンを忘れて下に行ったらしい。

「………………」

 それはそれでよかったのかもしれない。もしさっき転んだはずみでリモコンがポケットから飛び出したりしたら、必ずジャンに取り上げられるだろう。そして、「さわらない」「見るだけ」でルーニャを完璧にはずかしめることができる。ゾッとした。学習した。一人遊びは慎重にやろう。

 大急ぎで身支度をととのえた。ルーニャは床にぺたんと座り、ようやく人心地ついて、大きな大きなため息をついたのだった。

 烏の部屋に戻ってくると、ジャンはソファーにゆったり座って厚い本を広げているところだった。

「へえ。ズボンはいたらそれなりに見えるんだ」
「……どういう意味ですか」
「ご想像にお任せしますよ」

 肩で息をしているルーニャが入口の扉を押さえて待っているので、ジャンはパタンと本を閉じてバッグに入れると、ご丁寧に部屋の窓を閉めてから悠々とルーニャの横を通りすぎていった。


「こんにちは、アリスさん。ルーニャ君に無理言って、上の本を見せてもらっていたんです」
「早い時間にいらしたんですね。学校はもう終わったんですか?」
「今日は頭痛がするので早退したんです。バスを待ってる間に本を読み終えてしまったので、近くだから返してしまおうと思って」
「お医者様に言われたのでしょう? あなたは体を大切にしないと。旦那様とお会いするのは明日の予定だったのだし、あまり無理しては……」
「薬は飲んだからもう痛くないんです。それに、明日もちゃんと生きてるかわからないから」
「ジャンさん」

 ジャンが軽い口調で言うものだからつい世間話のつもりで聞いてしまったが、どうやらなみなみならぬ事情があるらしい。居間のテーブルの端に座って、ルーニャはなんともいえない面持ちで並べられた紅茶のカップを見つめていた。ほったらかしにしていた勉強道具は隅に追いやってある。
 使用人のアリスは無事に主人の忘れ物を届けることができたらしく、さっと白いエプロンを着け直して客人のもてなしに取りかかった。

 ジャンは紅茶を一杯いただいて、チョコレート味のワッフルをゆっくり頬張ると、まだお菓子が残っている小皿をルーニャの方に押しやった。

「今日はありがとう」

 なにがありがとうなのか。ルーニャの返事を待たず、ジャンはバッグから一冊分厚い本を取り出した。

「アリスさん、今日はこれを借りていっていいですか? 『恐竜から鳥へ』」
「あら、SF以外も読まれるんですね」
「遠い未来の話を読んでいたら、遠い過去のことも知りたいな~と思ったんです」
「わかりました。旦那様に伝えておきますね」

 年がひとつ上というだけなのに、彼は大人のような笑顔をつくる。ルーニャは甘いお菓子で糖分を摂取せっしゅしながら、ジャンの猫かぶりをジト目でながめていた。そういう自分もときどき猫耳を着ける。

 見送りはルーニャが玄関まで付き添った。廊下を歩きながら、背の高い若者の隣に並ぶ。
 ジャンはルーニャの秘密についてあれこれ聞かなかったので、ルーニャもジャンの抱えているものについてあれこれ言わないことにした。しかし、彼はさっきのことを一言もあやまるつもりはないようだ。ルーニャの心にトゲが生えてくる。

「ルーニャ、今日のことは黙っておいてやるからさ。俺の手下にならないか?」
「なりません。」
「先生に言いつけるぞ」
「好きにしてください」

 ルーニャの趣味はナイトフォールも知っている(!)ので後ろめたいことはないのだが、ジャンに秘密を握られたのはどうも厄介だ。
 彼は苦笑いしながら、玄関ホールへ向かう足が速くなった。少年が小走りに追いかける。

 屋敷を出るとき、ジャンは片手を上げてルーニャに軽く挨拶あいさつしていった。

「じゃあな」
「……気をつけて」

 扉から入ってきた風が少し冷えていた。


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