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6・楽しいこと

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 ルーニャは夜になるのが待ち遠しかった。
 ナイトフォールが三冊の本の共通点について話しているときも、じつはあまり頭に入ってこなかった。あいまいにうなずく助手を見て、学者はそれでも表情をくもらせることはしなかった。君の心は妖精にさらわれてしまったのだね、と静かにほほえむだけだ。

 人の話が耳に入ってこないので、ルーニャはしばらく退室をうながされた。申し訳ないと思いながらも、彼はさっき見た一枚の絵が忘れられなかったし、私情を押し込めるにはまだ子どもであった。


 とぼとぼ屋根裏部屋に戻ってきたルーニャは、小さな本棚にしまっていた数冊のノートを引っ張り出した。学者の手伝いをするためには教養が必要だ。学校は行ったことがない。一人で教科書を開く時間は、それでもさびしいとは思わなかった。今では何か話をしたいと思えば、聞いてくれる人がいるからだ。

 問題の黒い本は本棚の隙間すきまに立てておいた。中は開かない。強く印象付けられたものを心の奥で長く味わっていたかった。

「ふわあ……」

 穏やかな春の陽の光を浴びて、あくびが出た。
 目の前に布団があるので、ちょっとくらいなら昼寝をしてもかまわない。けれどルーニャは階段を下りて居間に行く。スカートをはいて、お気に入りの猫耳と尻尾を付けた少年の足取りは軽かった。

 居間は開放的で広くて明るくて、居心地がよかった。物思いにふけりたいときは屋根裏の狭い部屋で目を閉じているのが好きだ。今のルーニャは、明るいものとあたたかいものに包まれていたかった。
 ルーニャは大きなテーブルにノートを置いて、窓に近い席に座った。ペンケースから鉛筆を取り出す。

 まずは語学の本を開いて、覚えなければならない単語や熟語をノートに書き出していった。だんだんきてくると、教科書をぱらぱらめくっては気になる文章を目で追っていく。ここに載っているのは物語の断片だ。すべてを読みたければ作品名をナイトフォールに相談することができた。
 そうやって自分の部屋に本が増えていく。物語に埋もれるのは楽しかった。「欲しい」と思ったものをすぐに手に入れられるのは、本しかなかった。だから食べ物より優先して、食べ物のように取り込んでしまう。

 コンコン

「はい」

 部屋の扉がノックされた。使用人のアリスだ。ルーニャは顔を上げて彼女を迎え入れた。
 アリスは一度お辞儀じぎをしてから明るい居間に入ってきた。真面目に勉強している猫耳君を見て、ほほえましいものを感じたのかやわらかく目を細めた。

「お勉強のお供に、なにか飲み物をお持ちしましょうか」
「ありがとうございます。じゃあ……珈琲コーヒーをいただいていいですか?」
「ええ。先ほど旦那様にも召し上がっていただいたので、あたたかいものをご用意できますよ」

 初めて逢ったときと比べて、アリスの雰囲気が穏やかになったような気がした。几帳面できびきびと行動する人のように思っていたのだが、さっきの猫耳の件があってから、ルーニャはアリスに対してグッと親近感が増したように思えた。
 こういうのを「おちゃめな人」と呼ぶのだろう、という感想は心の中にしまっておいた。


 珈琲の深い香りがルーニャの心を安心させた。一緒に添えられたチーズタルトが口の中で溶けていく。彼は読書を優先してしまうので、いまだ食べることは二の次になってしまうのだが、食事を「楽しい」と感じられるようになったのは、古書店の店長のもとで暮らすようになってからだ。ほんの半年くらい前から、自分の置かれた環境がどんどん変わっていった。

「僕は、もしかしたら、『人間』になれるかもしれない……」

 少年は頭の猫耳をちょこんと指で撫でてみた。
 楽しいと感じられることが増えるのはうれしかった。


 夕食も楽しかった。白熱電球のあたたかい光が部屋を包み込んでくれた。ランプシェードの小さな穴からこぼれた光の粒が、天井に春の星図を映し出す。毎日見上げても飽きなかった。
 ナイトフォールは大学の非常勤講師も兼ねているので、週に何日か屋敷を空ける。明日はルーニャとアリスで留守番だ。


 その時が来た。ルーニャは使用人と共同のシャワーを使ったあとに熱いお湯でタオルを湿らせて屋根裏部屋に持ち帰った。
 ランプに明かりを点けて、寝る前に読む本を選ぶ。昼に見つけた薄い本を毛布の上に乗せた。黒い四角いかたまりが重力と存在感を主張して、ルーニャの心を吸い込もうとしていた。
 それから部屋の隅に置いてある旅行カバンへ近寄って、中を開けた。整理しきれなかった小物が放り込んである。

「………………ふう」

 ルーニャは一度大きく息をついてから、慎重にカバンの中へ手を入れた。探り出した布の包みを見下ろす表情は、なにやら真剣な様子である。

 ナイトフォールから贈られた品は、電池を消耗するので頻繁ひんぱんに使うことはできなかった。楽しんでいる音を主人たちに聞かれてしまうのも、たいへん恥ずかしいことだと思っていた。
 今夜のお供は細長い張型。吸盤が付いているので壁に固定できる。以前の主人からいただいたものだ。タオルで表面をぬぐう。

「早く、早く」と内なる声に急かされて、ルーニャは壁に向かってちょうど良さそうな高さに見当をつけた。

「よおし……」

 準備ができると、するりと丈の長いワンピースのような寝間着を脱いでしまう。かなしいかな、慣れてしまったのでためらいはなかった。脱いだ服は背中に乗せておけば寒さをやわらげてくれる。

 ルーニャは毛布の上に腹這はらばいになると、例の本を引き寄せた。

『異星人、花を植える』

 地球の外からやって来た宇宙人が新しい環境で花を育てようとして、とある少年を実験台にする物語だった。

「なんで人間の体を使うんだろう……書いた人は狂ってるよ……」

 作者の狂気を褒めながら、ルーニャは静かに腰を揺らして、ゆっくりと張型の先を自身の後ろのつぼみにあてがい、くすぐった。同時に物語への期待が高まって、どんどん本のページをめくっていく。

 物語の少年は知恵をしぼって異星人の侵略を食い止めようとするのだけれど、あちらから持ち込まれた科学技術が上回り、ついに少年は心が折れてしまう。体に異星の花の種を埋め込まれて、苗床なえどことなった少年は花の肥料に自我を与えることになる。

 異星人の触手に襲われる少年の挿絵まで辿り着いたころには、ルーニャの胎内にも細長い異物が侵入していた。小刻みに腰を震わせて、以前の主人に刻み付けられた「い場所」を刺激する。

 気分がたかぶってくると、ルーニャは上体を起こして硬くなった胸の突起を指でさいなんだ。かぶっていた寝間着も肌をすべり落ちていく。寒くなんてなかった。
 ページを押さえていた手が離れたので、黒い本はパタンと閉じてしまった。ルーニャはかまわなかった。表紙の絵を見つめ続けた。

 物語の少年が人外のものに快感を植え付けられている。主人公を我が身に重ねて、ルーニャは自身を激しく指でいじりながら解放のよろこびを迎えようとしていた。


 ああ、僕って変態だ……


 人間になろうと思っていたのに、窓から差し込む月の光が自分の正体をあばく。

 つぶやいた孤独のなげきは、ランプの明かりが届かない闇の奥へと吸い込まれていった。


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