夜伽話につきあって

つらつらつらら

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4・喜びの記憶

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「さあ、ルーニャ。君の尻尾しっぽが二本に増えたように見えるが、ひょっとして、ネコマタと呼ばれる妖精だったのかね?」
「旦那様……あっ……ちがいます、それは……ぼくの××です……っ、」
「怒りんぼうのように真っ赤になっているよ。なぐさめてあげようか」
「ふぁぁ!」

 敏感な場所を指先でなぞられて、ルーニャは腰を震わせた。声変わりの終わったのどからはテノールの吐息がれる。主人であるナイトフォールの手が少年の第二の尻尾(!)を軽く握って、上下した。
 ナイトフォールはひじ掛けイスに座り、少年をひざに乗せて落ちないように後ろから体を支えてやった。フリル付きのスカートをたくし上げてやさしく手を動かしている様子は、泣いている小さい子の頭を撫でているように見えた。

 少年は作り物の猫耳と尻尾を着けていた。ナッツ色の髪と同色の尻尾は開いた脚の間からだらんとたれている。
 風に揺れるカーテンを透かして、やわらかな午後の光がルーニャの紅潮した顔を明るく見せた。

 ルーニャは強すぎる快感から逃れようとくねくね動き回った。主人を喜ばせるようなびた姿を演出する余裕は持っていなかった。そのうち限界が来て、ぐったりと主人に背をあずけてうなだれる。心地さそうな深い息を繰り返した。背の高いナイトフォールは少年の後ろ頭にそっと唇を押し当てて、低い静かな声でささやいた。

「君は繊細な身体をしているね。好い所は前の主人に教えてもらったのかい」
「……古書店の、店長は……ちがいます……。その、まえの……」

 ルーニャは大きく息を吸い込んだ。呼吸をととのえながら、後ろから抱きかかえてくれるナイトフォールの胸に体をゆだねた。とてもあたたかい。それに、ほんのり珈琲コーヒーの香りがするような……。
 なかなか次の言葉が出てこなかったけれど、ナイトフォールは急かしたりしなかった。ようやくルーニャが目を開けて何かを話そうとした頃には、主人はぽんぽんとやわらかな髪を撫でてくれて、それ以上は会話を求めなかった。


 ルーニャの体に力が戻ってきて、身支度をととのえる間、ナイトフォールは立ったままで書き物机にペンを走らせていた。

「ルーニャ、一階の石榴ざくろの部屋から、この本を持ってきてくれるかい」
「はい。ええと……『太陽の王』、『悪魔にさらわれた子ども』……あ、『さまよえる海の騎士』は読んだことがあります!」
「あの作者は詩のような文章が美しい。海底にまう真珠の乙女、あれの正体はなんだと思う?」

 紳士は読書仲間をちらりと見て、片眉を上げた。グレーの細いストライプの入った白いシャツに、濃色のベスト。学者の屋敷にはときおり訪問者がやって来るので、ナイトフォールは常に身なりをととのえている。年少の者との蜜事は本棚に埋もれて表には見えない秘密のたわむれであった。

 ルーニャはちょっと虚空を見つめたあと、ナイトフォールに考えていることを話してみた。身振りを加えるとスカートの下の尻尾がゆらりと泳ぐ。

「あの人は……太古の鉱物に精霊が宿ったものだと思います。でも、何千年も時が経つうち、人間が海にてたけがれをみ込んで、魔物になってしまったのではないかと……」
「満月の夜にのみ、いにしえの清らかな姿を見せることができる。でもそれは、月の魔力による幻影。乙女を求める若者の孤独の旅は、印象的だったな……」
「……」

 ナイトフォールはいつの間にか少年から視線を外して、ひとり記憶の世界を歩いていた。物語に没頭する人の顔を見て、ルーニャはこの大人ともっと話がしてみたいと思った。一歩近寄ろうとしたところで気がついた主人が現実に戻ってきて少年に声をかける。

「本の話をすると長くなる。大学でもよくからかわれたよ。妖精と結婚するつもりなのかと」

 ルーニャ少年は尊敬の意味を込めてほほえんだ。


 階段を下りて居間を通り過ぎたルーニャは廊下で使用人とすれ違った。学者の助手としてやとわれただけの少年は、年上のアリスにぺこっとお辞儀じぎをした。彼女もゆっくりと足を止めて、ルーニャのために道をあけてくれた。

 ルーニャが屋敷に来てから数日。勇気を出してスカートを引っ張り出してみたところ、ただ一人の使用人は特に表情を変えることもなく、「可愛らしいですね」と穏やかに感想を述べるだけだった。
 いつものようにつややかな黒髪を後ろで束ねたアリスは、ふいに頭を上げた。

「ルーニャさん、お耳が曲がっていますよ」
「えっ、あ。ありがとうございます」

 アリスはきりりとしたまなざしで家事をこなす。きっとほこりの高い人なのだろうなと思いながら、ルーニャは立ち止まって丁寧にお礼を言った。頭に手を伸ばして作り物の猫耳をいじる。ふわふわの毛をくっつけた細いヘアバンドを頭にかぶせて使っているものだ。
 アリスはじっとたたずんでいたが、やがて意を決したようにそっと小さな声で申し出た。

「あの、ルーニャさん……」
「はい、なんでしょう」

 ためらいがちに、おずおずと、両手を重ねて、アリスはルーニャの顔を見つめた。眼に光が宿っている。成長途中の少年は大人の女性とほとんど背の高さが同じだった。
「きゅん」という効果音が聞こえてきそうな声音で、アリスは口を開いた。

「あの、少しだけ、あなたのお耳をさわってもよいでしょうか?」
「耳? ええと、こっちの耳ですか?」

 ルーニャが猫耳の方を指差すと、アリスは両手を組んで「はい」とうなずいた。目がきらきらしている。
 彼女の情熱をただちに理解して、ルーニャはちょっと顔を下げた。

「どうぞ」
「ありがとうございます。では、失礼します……」

 ふわ

 アリスのしなやかな指先が、ふわふわのナッツ色の猫耳に触れた。つまんだり撫でたりせず、本当にちょっとだけさわる程度だったにも関わらず、彼女が歓喜の悲鳴を飲み込んだのをルーニャは気配でわかってしまった。

 ほんの数秒だった。アリスがため息と一緒に一歩退しりぞいたので、ルーニャも姿勢を正す。猫耳はどこも変わらず少年の頭に飾られている。

「…………………………可愛らしい。素晴らしいです。どうもありがとうございました。ルーニャさん、天の授かり物を大切になさってね」
「はい」

 アリスが隠すことなく見せてくれる喜びの笑顔に、ルーニャ少年は気分が浮き立った。
 彼女と別れてから真っ直ぐに「石榴の部屋」へと辿たどり着き、ドアノブを回すときも、少年は気持ちがほかほかしていた。

 屋敷の空き部屋はだいたい本で埋まっていて、わかりやすいように名前が付いている。
 石榴の部屋は、人間の営みに関する本でまとまっていた。生活、歴史、戦争、愛についての物語……。

 ほこりの払われた部屋に入って、ルーニャは身長より高い本棚に囲まれた。主人に頼まれた本のリストを確かめる。作者名順に並べられた背表紙を指で追いながら、あの学者はすべてのタイトルと書いた人の名前を覚えているのだろうか? とふしぎな気持ちになった。

「あった。『さまよえる海の騎士』……」

 なつかしい布張りの青い表紙だ。よみがえる高揚感。物語との再会。
 ルーニャは記憶の世界を歩きながら、いとおしそうに本の輪郭線を撫でるのだった。


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