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2・出発

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 ナッツ色の髪の少年は、意外と大きな旅行カバンを持ってきた。
 身寄りのない年少の者が持てる財産といってもささやかなものだろうとナイトフォールは想像していたので、「おや」とつい小さな声が出てしまった。少しだけ驚いて、切れ長の眼がわずかに丸くなる。

 濃色のスプリングコートのすそを揺らしながら、背の高い紳士は古書店の奥へ進み、十五、六歳くらいであろう少年の前に立った。

「こんにちは、ルーニャ。旅の準備はよろしいかね?」
「今日からお世話になります。旦那様。僕ならいつでも出発できるようにしてあります」

 ルーニャは膝下丈のズボンにブーツをコツンと鳴らして返事をした。やわらかな仕草は見ていて心地好い。仕事着(?)の猫耳と尻尾を外してしまえば、ただの物静かな本好き少年だ。

 男子三日会わざれば……か。
 ナイトフォールはふふとほほえんだ。

 街角の古書店で働いていた少年ルーニャは、今日からナイトフォール氏の屋敷へ住まいを移す。表向きは学者の身の回りの手伝いをすることになっていた。

「私の屋敷にはたくさんの本が積んであるから、退屈はしないだろう」
「ありがとうございます。……あの、旦那様……異国の本というのは、海の物語もあるのでしょうか……?」
「もちろん。海洋の冒険、海賊、海の王者、色々あるとも」
「わあ……」

 ルーニャ少年は興奮を隠さずため息をもらした。紳士を真っ直ぐに見上げる碧い瞳。物語を愛する少年の深く澄んだまなざしに吸い込まれそうになると、カウンターの奥から陽気なガラガラ声が近づいてきた。

「旦那様、バスの時間はよろしいのですかな」
「ええ。急ぎの用事はありませんので。少し遠回りして、海を見ていこうかと思っています」
「そりゃあありがたい。この子は本と出会わなかったら航海士になると言っていましたよ」
「なるほど。心に留めておきましょう」

 ナイトフォールは近くの書棚から二、三冊本を選んでルーニャに会計を頼んだ。丁寧に渡された紙袋を黒いかばんにしまう。
 それからぺらぺらの書類にサインをして、ナイトフォール氏は身寄りのないルーニャ少年を引き受けた。
 あっさりとした別れだった。少年は店主にぺこりと頭を下げると、両手でカバンの持ち手を引っ張った。

「よいしょ」
「重いかね?」
「あ、いいえ、僕があれもこれもと詰め込んだので……、ちゃんと自分で持てますから」

 うん、とうなずいてナイトフォールが顔を上げたとき、店内の書棚がところどころ穴が空いていることを思い出した。
 ははあ、と紳士は合点する。少ない給料でお気に入りの本を購入したのだろう。「ここ」で手に入れなかったら二度と会えない絶版の書ばかりだなと見当をつける。店主に頼めば、後日屋敷へ届けてもらうこともできるのだが……。

 店主は名残惜しさを顔に出さず、仕事場を離れる少年に声をかけた。

「ルーニャ、ちゃんと旦那様の言うことを聞くんだぞ」
「はい。僕、ときどきお店に来てもいいですか?」
「ははは、旦那様のお屋敷の本の方がずっと面白いだろうさ。暗いところで読みふけったらだめだぞ? お前は何度言っても聞かないんだから……」
「店長ぉ……」

 ほほえましいやりとりを見守りながら、ナイトフォールは店の出入口へ歩き始めた。店長が太鼓腹を抱えてあたふたと走ってくる。扉を押さえてやりながらナイトフォールを送り出し、続くルーニャとすれ違う。

「旦那様、ルーニャをどうぞよろしくお願いします」


 春の街は花曇りであった。
 うっすらと地面に落ちたふたつの影は南の停車場へ向かう。街道に植えられたチューリップが花色鮮やかに咲いていた。春の灯火ともしびは次々と街の雰囲気を明るくする。

 天気はしだいに雲が厚くなり、なにやらひと雨来そうな雰囲気である。ナイトフォールは古書店の店主に述べた通り、予定のバスを乗り換えて海の見える道を目指したのだが、途中下車して砂浜を歩いてみるのは次の機会に譲ることにした。ルーニャの荷物が重いのだ。

 客の少ないバスに乗り込んで間もなく、灰色の窓にぽつりぽつりと水滴が尾をいていく。なだらかな道をときどきガタゴト揺られながら、ルーニャは窓に鼻を押しつけるようにしてしっかりと外の景色を記憶した。
 曇り空の下で、碧い海は静かに波が打ち寄せていた。目をこらせば白い飛沫が舞うのが見える。遠くの岩場に座って釣糸を垂らしている老人がいた。

 少年の隣に座っていたナイトフォールは、好奇心で身を乗り出す細い背中を見下ろした。淡いブルーグレーのセーターがよく似合っている。

「あいにくの雨だったね」
「……はい。でも……どんな天気の海も、僕は好きです。あの青い水海は、ずうっと遠くまで広がっているんですね」
「近いうちに南の大陸へ足を伸ばすから、そのときは君も一緒に連れていこう。船は初めてだね?」
「そうです。僕は……本を読んでばかりで、外の世界をぜんぜん知らないんです……」

 ルーニャはしょんぼりした顔で窓に額をくっつけた。ナッツ色のやわらかな前髪が伏せたまぶたにかぶさる。ガラスに反射して映る寂しそうな表情を見つけて、ナイトフォールはそっと少年に寄り添った。

「ルーニャ、君は賢い子だ。分別のある者は私の助手としてふさわしい。それに、失われた月の民。君の出自については私の研究対象でもある。書物はこの国にのみ存在するのではない。外の世界ならいくらでも見せてあげよう」
「旦那様……」

 世界中のお伽噺とぎばなしを集める学者と、本が大好きな孤児の少年。
 紳士のささやきは少年の孤独をあたためた。


 ルーニャがようやく顔を上げて振り向こうとすると、いまだ彼の近くに身を寄せていた主人の唇と触れそうになり、あわてて横を向いた。ナイトフォールはかまわずに少年の耳元へ吐息を吹きかけた。低い声が耳の奥を犯し、下半身に響いた。

「ところで。アレは、ちゃんと持ってきたね?」
「あれ……? …………ッ」

 数秒考えて、ルーニャはパッと顔を赤らめた。先日、主人と契約する際に贈られた品のことをいっている。
 とたんにルーニャは身をひねって、ナイトフォールと距離をとろうとした。理性を保つために、拒絶と見える仕草をしてしまう、幼い少年に対して紳士はとくに気をわるくした様子はない。ゆっくりと、質問を続ける。

「新しい電池は入れてみたかな?」
「………………」

 ルーニャ少年の身体に火を点ける玩具おもちゃ。彼は小さく、こくりとうなずいた。欲望と期待が空振りした夜を明かし、うずく身体を走らせてマーケットへ飛び込んだのだ。
 空の玩具に電池を入れて「試してみた」ことを、それと言わなくても主人に悟らせてしまった。ルーニャは頭を抱えて床を転がりたい衝動に駈られた。

 ナイトフォールは、表情がころころ変わる素直な助手をたいそう気に入った。自分の屋敷へ来れば退屈はさせまい。たくさんの本に囲まれ、そして新しい出会いを求めて旅をする。知的好奇心を満たすこと、人間に生まれてきた喜びを味わわせてやるつもりだった。心も、身体も。

 やがて雨はパタパタと音を立てて窓を斜めにすべり落ちていく。灰色にけぶる彼方の水平線は重たい雲と混ざり合うように境界線がにじんでいった。本降りになるのは夕方だろう。屋敷に辿り着くまでまだ時間はたっぷりあった。


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