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十年後:柔らかな香り ライナルト

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「ライナルト陛下」

 大きな両開きの扉をくぐり廊下に出ると、宰相が臣下の礼を取り立っていた。

「まだいたのか」
「私にも引継ぎがございますので」
「年寄りが無理をするな」
「最後の無理ですぞ。今せずにいつするのです」
「それもあと数日で終わる」
「はい。……やれやれ、若い者は中々素直に言う事を聞かないものですな」

 頭を上げた宰相はふうっと息を吐きだすと白くなった頭を掻きあげた。あまり変わらないと思っていたが、この男も確かに年を取っている。

「細君は息災か」
「ええ。荷物を纏めたり処分したり、生き生きしております」
「ははっ。分からないものだな、王都の方が不自由しないだろうに」
「田舎暮らしが夢だったそうです。王妃殿下と気が合うはずですな」
「まったくだ」
「明日、妻が王妃殿下からお茶にお誘いいただいたと喜んでおりました」
「ああ、聞いている。何やら準備していたぞ。宰相にも来て欲しいそうだから時間を作るといい」
「なんとそれは有難い。ここで王妃殿下のお茶が楽しめるのもあと少しですしな」
「何を言ってる、時々来るといいだろう」
「年寄りに長時間の移動をさせんでいただきたい」
「よく言う」

 俺の言葉に宰相は声を上げて笑うと、では、とまた臣下の礼を取りその場を後にした。


 在位して十年、従兄弟である次期国王の即位式を控え、このところ慌ただしい日々を送っていた。毎日のように日が変わる頃に私室に戻り、泥のように眠る。気配に敏感なクロエを起こしては悪いと思い、もうひと月ほど寝所を共にしていない。毎朝朝食の席でクロエにお茶を淹れてもらうのだけは続いているが。
 なぜか今日は、どうしても顔が見たい。
 あの髪に顔を埋めその香りを吸い込み、柔らかく甘い肌を堪能したい。

 ふるり、と頭をひとつ振り、着いてきた護衛騎士たちを片手を挙げて帰して、情けなくも後ろ髪惹かれる想いで寝室の扉をじっと見つめてからため息とともに私室の扉を開いた。
 

「お帰りなさい」

 扉を開けると、ゆったりとした部屋着に着替えたクロエがソファから立ち上がり出迎えた。

「クロエ?」

 ここは俺の部屋ではなかったか? あまりにもクロエのことを考えすぎて無意識に間違えたのか?

「ふふ、そんな顔しないで。貴方の部屋で間違いないから。さあ、マントを」

 クロエはクスクス笑いながら俺の後ろに回り込むと肩のマントをそっと脱がせる。ズシリと重たく感じていた肩が、ふわりと軽くなった。

「いや、そうか……まだ起きていたのか。あまり遅くなるのは良くない」
「だって、今日はどうしてもあなたの顔が見たくて」

 マントを一人掛けのソファに置くと、クロエは俺の前に回り込み顔を覗き込んだ。昔から変わらず美しい翠の瞳が俺の瞳をじっと見つめる。

「何かあったか?」
「いいえ何も。会いたかっただけよ」

 近くにいるクロエからふわりとほのかに甘い香りが匂い立つ。無意識に腕を伸ばし、目の前の細い腰をグイっと抱き寄せた。

「俺もだ。今日は特に……会いたかった」
「一緒ね」
「ああ。一緒だ」

 クロエの髪に顔を埋めその香りを堪能する。つやつやと室内の明かりを跳ね返す亜麻色の髪は、手入れが行き届きいつまでも触れていられる。そのまま顔を移動させ、下ろした髪に隠れる耳に鼻先を擦りつけると、クロエがくすぐったそうに肩を竦めた。

「疲れてるわね。当然だけど」
「君に会えたからもう平気だ」
「湯の用意をさせてあるの。少し温まったらどう? 疲れに効く香油を用意するわ」
「……それはいいな」

 腰に回していた掌をするりとおろし、布越しでもその張りが分かる双丘を指先でなぞると、クロエの身体がびくりと揺れた。

「君も一緒に入ろう」

 耳もとに唇を寄せて囁くと、小さな貝殻のような耳が赤く熱を持った。

 *

 部屋に続く浴室には既に湯が張られ花の香りがしていた。湯気で曇った視界に湯に浮かぶ花が見える。

「クロエ、こっちへ」
「だ、大丈夫よ自分で脱げるから……」
「いいから」

 部屋着とはいっても寝衣ではない。脱ぎにくいだろうと理由を付けてクロエの服をゆっくりと脱がせる。後ろで結ばれた腰のリボンを解き、小さなクルミ釦をひとつひとつ外していく。前に回り込み柔らかなコルセットの細い紐を丁寧に解けば、目の前のクロエが赤い顔をフイっと横に向けた。
 
「君はいつまでもこういう事に慣れないな」
「仕方ないでしょう、恥ずかしいんだもの」
「それがかわいくてやってるんだけど」
「もう!」
「はは、俺の楽しみを奪わないでくれ。君の色んな姿を知ってるのは俺だけでいいんだから」

 紐を全て解き床にふわりと落とすと、真っ白な肌が現れる。その白い胸元にそっと唇を寄せるとピクリとクロエの身体が揺れた。

「湯につかるだけよ」
「そうだな?」

 クツクツと身体を揺らすとムッと口を尖らせてクロエが俺の服を脱がせ始めた。時折肌を掠めるように触れる指先がくすぐったい。駄目だ、これ以上は辛くなる。下履きは自分で脱ぐからと手で制して、先に身体を洗うよう促した。
 こちらに背を向けて座るクロエは、下ろしていた髪をひとつにまとめ高い位置で結い上げた。陶器のような滑らかな肌を見つめ、真っ白な項に赤い痕を付けたのは、最後にクロエを抱いたのはいつだったかと考える。
 そんな事を考えていると、グッと腹の底に熱が溜まった。
 今夜はダメだ、明日もクロエは忙しいのだ。大人しく眠らなければ。
 慌てて視線を逸らし服を全て脱ぎ去ると、クロエの背後に回りその背中をたっぷりの泡で包み込んだ。

 
「いい香りね」

 互いの髪や身体を泡で洗い湯で流して、二人で浴槽に身を沈めた。俺の脚の間にクロエを座らせ掌でお湯を掬い肌にかけてやると、背中を俺の胸に預けていたクロエが息を吐きながら呟いた。

「君の庭に咲いている花だろう」

 つん、と湯に浮かぶ白い花を突くと、クロエは意外そうな顔でこちらを仰ぎ見た。
 
「そうよ、よく知ってるわね」
「時々庭に足を運んでいたんだ。この花の香りは好きだ」
「庭に?」
「ちょっと休憩しにね」

 クロエの肩にゆったりとお湯をかけ、そのまますべすべとした腕を撫でる。陶器のような滑らかな肌は湯を玉のように弾きしっとりと輝く。目の前のうっすらと赤く染まるうなじをじっと見つめ、無意識に唇を寄せて柔らかく口付けを落とした。

「ライ?」
「ん、ごめん」

 そう言ってまたちゅっと音を立てて口付けを落とす。
 抵抗する訳でもなく大人しく腕の中に納まっているクロエの腰に腕を回しグッと抱き寄せ、その白いうなじに舌を這わせるとクロエの身体が揺れた。クロエの手が俺の腕に重ねられ、湯の中でクロエの腰がゆるりと揺れる。

「……ごめん、明日も早いだろう、もう上がったほうがいい」
「ライ、何かあった?」
「え?」

 腕の中でクロエがくるりと回転し、俺と正面で向き合う。顔を両手で挟まれ、翠の瞳がじっと瞳の中を覗くように向けられた。

「疲れてるだけだ」
「それはそうだけど、それだけじゃないでしょう。……何が不安?」
「不安……」

 不安なことなどあるだろうか。
 これからはこの身分を離れ、クロエの両親の領地で二人でゆっくりと過ごすのだ。僅かな護衛と使用人を連れて、クロエの好きな庭仕事や馬の世話、湖に釣りにも行ける。この日が来るのを心待ちにしていたのだ。

「楽しみしかないけどなぁ……」

 クロエの掌に頬を摺り寄せるように顔を寄せると、クロエの親指が俺の唇を優しく撫でる。

「譲位したくなくなったとか」
「まさか! 今すぐにでも明け渡したいくらいだ。だがきっと、王位を退いたところで政治的な思惑からは逃れることが出来ないだろう。俺ではなく君や君のご家族を利用しようとする者もいるだろう。そう考えたら、ここにいるのが一番安全なのかもしれない……」

 ふっとクロエが俺の口元を掌で覆った。

「ほらね、やっぱり不安なのね」

 仕方ないわね、と言いながらクロエは優しく微笑む。

「身辺の警護についてはここ以上に安全な場所はないでしょうけど、領地に行っても大丈夫よ。そのために下の弟が騎士団で研鑽を積んで、貴方の退位に合わせ退団して着いてくるのだから。護衛騎士も貴方に忠実な人たちばかりよ」
「わかって……」
「しっ。いいから聞いて。貴方は今、環境が変わることに不安を感じてるのよ。それはきっと、見知らぬ土地で私と二人で過ごすことで、危険が増えることを恐れている。私の身に危険が及ぶことを、恐れているのよ」

 口を開けようとするとクロエが視線で黙っているように促す。それに従い、黙ってクロエの瞳を見つめ返した。

「ねえライナルト、私たちの歩みはこれがゴールじゃないのよ。これから始まるの。新しい土地で二人きりの生活。二人で生きていくの。だから、ね。約束するわ」
 
 俺の口元を塞いでいた掌でするりと頬を撫で、柔らかく口付けを落とす。吐息が触れる距離で、クロエの翠の瞳がゆらりと揺れる。

「私は貴方を置いていかない。貴方のそばにいて、最後まで貴方の手を握りしめてその瞳を見つめているわ。貴方を一人になんてしない……少し待たせるかもしれないけれど、貴方は安心して先で待ってて。……きっとあの子も、貴方を優しく迎えてくれるから」

 その言葉に、グッと胸が支えたように苦しくなった。

「ライナルト」

 柔らかく微笑む目の前の女性が、聖女でないのなら誰が聖女なのだろう。宥めるように優しく頬を撫で、目元を指でそっと撫でるその指先が濡れているのは、この香りの良い湯のせいか。

「愛してるわ、ライナルト」

 クロエの頤を両手で包み込み、強く唇を合わせる。ざばんと浴槽の湯が大きく揺れて溢れた。

「クロエ、愛してる……愛してる」

 失う恐怖を知っていてもなお、愛することは止められない。この腕の中の存在を、命をかけて守ろうという思いだけは、誰にも止められない。

 首に腕を回ししがみつくように口付けに応えるクロエを、膝の上に乗せて強く抱きしめた。

 ぬるりとクロエの舌が唇を割り口内に侵入する。
 焼き切れそうだった理性が急に現実に引き戻され、慌てて口付けを解いた。

「クロエ、駄目だ煽らないでくれ」
「どうして?」
「君は明日も朝から忙しいだろう、宰相夫妻とのお茶会もあるし……」
「なんとかなるわよ」

 クロエはほんのりと色づいた頬でふわりと笑い、ちゅっと口付けをひとつ落とす。

「起きられなかったら、後で謝りましょう。ね?」

 いたずらっ子のように笑うクロエの表情に、胸の奥の錘がじわじわと溶けていく。

「クロエ、君って本当……」
「なあに?」
「本当に、最高だよ」
「そうでしょう!」

 声をあげて笑うクロエを抱きかかえ、勢いよく浴槽から立ち上がる。

「愛してるよ、クロエ」

 不安も恐れも、君となら立ち向かえる。
 きっと素晴らしい日々が、この先待ち構えているだろうから。
 
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感想 3

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みんなの感想(3件)

トーコ
2023.09.30 トーコ

映画を観終わった感覚に浸っています。
いつも素敵なお話しを読ませていただきありがとうございます。

かほなみり
2023.09.30 かほなみり

トーコさま
いつもお読みいただき、ありがとうございます😊💕
また楽しんでいただけるようなお話を作れるよう、がんばります!🔥

解除
かかし
2023.09.29 かかし

2人の物語、素敵でした💓
番外編、楽しみにしてます!

かほなみり
2023.09.30 かほなみり

かかし様
お読みいただきありがとうございます!
二人の幸せな時間を楽しんでいただけると嬉しいです😊

解除
as
2023.09.28 as

完結おめでとうございます。ワクワクしてみてました。つい夢中になって2度読みしました。

かほなみり
2023.09.28 かほなみり

asさま
お読みいただきありがとうございます!
お楽しみいただけたようで嬉しいです。
二人の番外編、この後の様子も楽しんでいただけますように。

解除

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