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ライナルト3
しおりを挟むそれから次に彼女にあったのは、終戦を迎えふた月が経った頃だった。
忙殺されずっと気にかけていた彼女を探しに陣営へ戻った時には、既に彼女の姿はなかった。聞くと、体調を崩しルシル殿と神殿に戻ったのだと言う。
まだ帰還できなかった俺は、それでもクロエが神殿に戻ったことを聞き、居場所を知って安堵した。
神殿と王家のつながりは深い。一刻も早く帰国して、クロエに会いに行きたい。ただそれだけを希望に、俺だけの俺のための心の拠り所にして、激しい公務をこなしていた。
帰還し陛下への報告を終えると、真っ先に神殿へ向かった。表向きは王家と神殿のつながりを強調するため、神殿の労をねぎらい感謝を伝えるため。
だが俺は、俺の視線は神殿についてからずっと、迎えに出た一団の後ろに静かに控えるクロエから離せなかった。
戦場では常に一つにまとめていた亜麻色の髪はゆるく下ろし、すぐれなかった顔色も今ではほんのりとバラ色に染まり、その白磁のような肌を際立たせる。そして、やや伏せた瞳の長い睫があの美しい翠の瞳を隠していた。
――早くその瞳が見たい。
神官長とルシル殿に挨拶をし、神殿奥の祭壇で祈りを捧げる。祭壇前に誂えられた椅子に座り神官がずっと祈りを捧げている間、俺はずっと脇に控えているクロエを視界の隅に捉えていた。
「久しぶりだ、クロエ」
祈りを終え、晩餐の席を用意したという言葉に応え来賓控室で待機していると、ノックの音と共にワゴンを押したクロエが入室してきた。
久しぶりに近くで見る彼女の姿に胸が高鳴る。
「ライナルト殿下にご挨拶申し上げます」
だが、そう言って頭を垂れるクロエの顔が見えない。
「……挨拶はいい。元気だったか」
俺はあの頃、彼女とどんな風に話していただろう。こんな風に上からものを言っていただろうか。
「はい。殿下もお元気そうで何よりです」
すっと背筋を伸ばし顔を上げ、こちらを真っすぐに見る翠の瞳。物怖じせず、俺を俺として見てくれるその美しい瞳。
「……クロエのあのお茶が恋しかったよ」
「あれは……きっと今飲んではがっかりされます」
「何故?」
「あの場で飲むからこそ美味しく感じたのでしょう。今飲むとその不味さに驚かれます」
「ははっ! ではその不味さを確かめたいな」
「それは嫌です」
「嫌?」
「まるで私が美味しくないものしかご用意できないようではありませんか」
「ではもっと美味いものを用意してくれると?」
「殿下が、お嫌でなければ」
「嫌なはずがない」
そう答えると、一瞬、本当に一瞬、クロエは泣き出しそうな顔をした。その表情に思わず手を差し伸べそうになる。
耳にあの日の雨の音が蘇る。指先に、彼女の涙の感触が蘇る。
「では、晩餐の前にお茶をご用意しますわ。折角ですから四阿で召し上がりませんか? 今日はとても天気がいいですし」
「……喜んで」
ニコリと笑うクロエに、上げかけた手をそのまま差し出し、彼女をエスコートして神殿の中庭へ向かった。
長い回廊を歩きながら、俺の腕に手を回すクロエをちらりと盗み見る。子どもでもあるまいし、なぜか緊張でソワソワと落ち着かない。
凛とした表情の彼女は、こんなにも美しい人だっただろうか。
いや、あの天幕で見た彼女も美しかった。聖母のように愛情深く、だが戦女神のような強さも備え、そして一人の人間としての弱さを持っていた。その姿に、強く惹かれたのだ。それはあの戦場と言う特殊な場所だったからではない。
俺は恐らく、あの場ではなくともクロエに心惹かれていただろう。出会えば必ず、クロエに惹かれ視線で追い、彼女の手を引いて俺の方を向かせただろう。
「クロエ」
中庭に着き四阿の前で、護衛騎士たちを下がらせ二人きりになった。どうしても彼女と二人で話したかったのだ。
「はい」
「……会いに行けず、すまなかった」
「そのようなこと、王太子ともあろう方が簡単に謝らないでください」
「君を一人残してしまった」
「……分かっているので大丈夫です」
「クロエ」
いつまでも俯きこちらを見ないクロエの顎にそっと指を当てこちらを向かせる。揺れる翠の瞳がこちらを見た。
「あれは、……お忘れください」
「……なに?」
「あの夜の事は忘れてください。私も、もう忘れますから」
そう言ってまた顔を横に向ける。
その言葉に、心が急に重たくなった。
――忘れる? あの夜を? あの、互いの熱をぶつけ合ったあの夜を?
クロエに会いたいと思いずっと過ごしてきた日々を、一瞬で打ち砕かれた気分だった。酷く腹が立ち、絶望し、失望した。
「……俺が、気紛れで君を抱いたと思ってる?」
「そ、れは」
「あの夜、君と気持ちを分かち合えたと思ったのは、俺の独り善がり?」
クロエの頬に掌を当てると、クロエはぎゅっと目を瞑る。俺の掌に頬を預けるように、だが、拒否をするように。
「クロエ。俺は君を迎えに来た」
「……迎えに?」
親指で柔らかな肌を撫で、薄くピンク色に染まる唇を撫でると、ピクリと肩を揺らし緑の瞳が俺を見た。
「俺は君と共にありたい。君と一緒にいたいんだ」
「……わ、私はしがない田舎の男爵家の娘です。ライナルト様と釣り合うはずがありません」
「俺と対等に話をするのは君だけだよ、クロエ」
「私となんかより婚姻すべき方がいらっしゃるでしょう」
「いない。それは俺が決めることだ」
「ライナルト様」
「ライって呼んでくれない?」
「よ、呼べません!」
「俺は君が好きだよ、クロエ。……君に会うためにここまで来たんだ」
「……!」
「君が色々と考えるのはよく分かる……まずは、友人として。君に会いに来て、たくさん話したい。押し付けて逃げられては敵わないからね」
「もうすでに押し付けているのは分かっています?」
「嫌なら拒否していいよ」
「嫌です」
「却下」
「ひどいわ!」
ははは、と思わず声を上げて笑うと、クロエもつられたように笑う。
「やっと笑ったね」
そう言うと、その翠の瞳がゆらりと揺れて心の迷いを映し出す。決して、俺の独り善がりではなかったことを雄弁に語る美しい瞳。
吸い寄せられるように、緑の瞳を見つめながらそのまま柔らかく彼女の唇に口付けをした。静かに柔らかく受け入れた彼女は、そっと目を閉じ、すぐに後悔したような表情をした。それでも構わない。クロエの心が俺に少しでも向いているならば、時間をかけてもその心を手に入れよう。
俺はそのために、こうしてここにきて彼女に愛を囁いているのだから。
「君が俺を受け入れてくれるまで、俺は君に愛を囁くからね、クロエ」
俺はこの日から会うたびに、クロエに愛を告げることにした。
*
「恋だね、殿下」
「なんです?」
晩餐が終わり、神殿を去る際にルシル殿に祈りを捧げると言われ祭壇へ向かった。
西の空地平線の向こうは燃えるように赤く染まり、頭上には夜の闇が迫っていた。
「押し通さなかったことは褒めてあげよう」
「……盗み聞きとはあまり良い趣味とは言えませんね」
「人聞きが悪いな! あそこは私の庭だ、勝手に入って来た君たちが悪い」
ルシル殿は悪びれもせずそう言うと、聖騎士に手を振り人払いをする。二人きりで祭壇の前まで進み、参拝者によって手向けられたたくさんの花に囲まれた真っ白な石碑を見上げる。偶像ではないこの聖碑はこの神殿の崇める神を形にしたものだ。
真っ白な聖碑はまっすぐ天に向かって伸び、今は静かに灯された明かりを跳ね返している。
「あの子の心は固く閉ざされている。無理にこじ開けようとしては逃げてしまうだろう」
「逃がしません」
「大した自信だな」
「どうしても、彼女と共にいたい」
「……あの特異な環境に身を置いていたせいではないと言えるのか」
「言えます」
「……そうか」
ルシル殿は蠟燭に火を灯し、祭壇前の一際大きな燭台に火を灯した。オレンジ色の明かりがぼんやりと辺りを照らす。
「あの子はいずれここを出ていくだろう。ここにいる器ではない、もっと自由に、のびのびと過ごさねば幸せを掴めない」
「そこに私がいられるなら、どこにでも行きます」
「王太子をやめてでも?」
「そうです」
「即答か!」
ははは、と声を上げ、ルシル殿はそっと手を組み祈りの言葉を口の中で呟いた。
「特別に応援してあげよう、殿下。殿下にあの子が必要なように、あの子にもあなたが必要だ。けれど一筋縄ではいかない。あの子が自ら話し出すまで、辛抱強く待ってくれ。でも……最後には自分の心に従うんだ」
「最後とは?」
「そこまでは教えないさ。自分で見極めるといい」
組んでいた手を降ろし、そっと手を振り燭台の明かりを消す。
「今は何の祈りを捧げたのですか?」
「恋愛成就だよ」
ルシル殿はまた声を上げて笑うと、「道のりは困難を極める」と俺の肩を叩いてその場を去って行った。
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