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湖畔
しおりを挟むガタガタと馬車に揺られ、郊外の湖へやって来た。窓を開けると、日差しを遮る森から吹く冷たい風が馬車に吹き込み空気が変わる。遠くに視線を向けると昏い森の向こうに光輝く湖面が見えてきた。
「湖が見えて来たわ!」
青い湖面は日の光を反射しキラキラと輝いている。やがて森が開け見えて来た湖の対岸に、こんもりと緑に覆われた白い建物が見えた。どうやらそこへ向かうらしい。心地良い風に吹かれ窓に張り付いてじっと外の様子を見ていると、向かいの席からくつくつと笑い声が聞こえた。
「子供みたいだな」
ライナルトはそっと手を伸ばして、風に吹かれて全開になった私の額をコツンと指で突いた。ムッと額を手で覆うと、柔らかく笑う。
「だって、遠出なんて久しぶりなんだもの」
「てっきり街中に出るのかと思っていたら、まさかピクニックとは」
「本当は馬車じゃなくて馬に乗りたかったのよ」
「それはまた今度の機会に」
ガタンと音を立てて馬車が減速し、御者が到着を知らせた。見ると、あの白い建物が目の前にある。
「さて、せっかくの機会だ、楽しもう」
「楽しむって、ただのピクニックよ?」
「君をここに連れて来てやりたいことがあったんだ」
「やりたいこと?」
「そう」
ライナルトは立ち上がり馬車を先に降りると、入り口から手を差し出した。その楽しそうないい笑顔を見て、手を乗せながら思わず眉根を寄せる。
「君は故郷では外でばかり遊んでいたって話していただろう」
「そうよ。乗馬もそうだけど、畑仕事も好きだったし領民の鶏小屋の修復を手伝ったり、木登りもかけっこも、釣りもしていたわ」
「特に釣りの腕前を自慢してたよね」
「貴方も子供の頃よく釣りをしていたって言ってたわね。……私たち、比べようもないのに釣果を自慢して」
「それは君だろ」
「あら、私は本当にすごいのよ。領地の男の子たちに負けたことはないんだから」
「それは俺もだよ」
「忖度されたのよ」
「ひどいな! 実力だよ!」
馬車を降りると、ライナルトは待ち構えていた従者を視線で示す。見ると、いい笑顔で立つ従者の手には、釣り竿が二本。
「私と勝負する気?」
「自信がないならいいよ」
「まさか。受けて立つわ!」
柔らかな日差しに照らされ、ライナルトは更に笑みを深めた。
*
「ずるいわ!」
「何が?」
木陰のある湖畔でそれぞれ位置を決め糸を垂らして。
手元にある魚の量の違いは一目瞭然だった。
「ライナルト様の方がよく当たる場所を知ってるに決まってるでしょう!」
「そんなことないよ、俺だって随分久しぶりにここに来たんだから」
「じゃなかったらこんなに差が出るわけ無いもの!」
「それはもう実力の差じゃないかなあ……、おっと、また来た!」
しなる釣竿をグイっと身体に寄せていい笑顔で糸を引く。あの笑顔が段々憎たらしいものに思えてくる。何なのかしら。
微動だにしない釣竿を睨み、ふうっとため息をついた。小さな椅子に腰かけてぼんやりと目の前の湖を眺める。水底の小石や小さな魚が泳ぐ姿が見えるほど水は澄み、林間を吹き抜け湖面を渡って届く風はひんやりと心地いい。青い空がそのまま映ったような青い湖面を白い鳥が遠くですれすれに飛んでいるのが見える。
「……きれいな場所ね」
「気に入った?」
ライナルトがいつの間にか隣に立ち、遠くを眺めている。吹く風に煽られてふわりと髪が舞い上がり、空と同じ青い瞳がキラキラと輝いている。
「昔、母が気に入っていてよく来たんだ」
「じゃあ、あの建物はお母様の?」
「そう。今は誰もいなくて時々手入れをさせている程度だけど、子供の頃はよく遊びにきていたよ」
「私の故郷に似てるわ」
「……神殿を出てどこに行くの」
ライナルトの声が低くなる。顔は見ないまま湖面を見つめる私たちは同じ思いを抱いているのだろうか。
「領地に帰るだけよ」
「そこで誰かと結婚して幸せにのんびり暮らす?」
「まさか。……薬や香辛料を作ろうと思ってるの。私の作るものは回復効果が倍になるから、需要もあるし店を開けば十分暮らしていけるはずだわ」
「ここでも出来るよ」
「……ライナルト様」
「別に城にいなくてもいい。公務や煩わしい社交だってしなくてもいい。俺の前からいなくならなければそれでいいんだ」
「無理に決まってるでしょう」
「無理じゃないよ」
「貴方は一国の王になる人なのよ。戦争が終わったとは言えまだ難しい情勢の中で、一緒に並べる人がいなければだめよ」
「君なら並べる」
「馬鹿言わないで。田舎の男爵家出身で聖女でも何でもない私が、どうして一国の王太子と肩を並べられると思うの」
「君にはそれだけの資質がある。でも、嫌ならいいんだ。人前に出なくてもいい。ただ、俺の帰る場所でいてほしい」
「……ライナルト様、私は……」
「クロエ」
横に立っていたライナルトが跪き、腰掛け俯く私の顎を捉え視線を合わせた。青い瞳が湖面のように静かに私を見つめている。
「優しくしてほしいとか、いつまでも笑っていてほしいなんて思ってない。嫌なことがあれば噛み付けばいいし怒ればいいし、泣けばいい。それも全て君自身の姿だ。俺はそんな君が好きなんだよ」
「……無理よ……」
「無理じゃない……ねえ、だから……俺の前からいなくならないで、クロエ」
そう呟いて近付いてくる静かな湖面のような瞳は、その下に激しい感情が渦巻いている。私はそれを知っている。その激しさをも、私は愛していたのだから。
息がかかる距離まで近づいて、私はそっとその唇を指で押さえた。
「……護衛がいるでしょう」
「見てない」
「そういう事じゃないわ」
「……じゃあ、お昼にしようか」
ライナルトは唇を押さえていた私の手を取り、掌にちゅっと音を立てて口付けを落とす。そんな振舞いひとつひとつに、心臓が高鳴るのを押さえられない。熱くなった頬が恥ずかしくて俯くと、ライナルトはそのまま私の手を取り立ち上がった。
「お弁当を作ってきてくれたんだろう?」
「ええ。貴方の好きなサンドイッチよ」
「いいね。俺は君の好きなワインを用意したよ。きっと食事に合う」
ふわりと笑い自分の腕に私の手を絡ませて、ライナルトはゆっくりと歩き出した。
*
白い屋敷の庭へ移動すると、美しい四阿が立っていた。柱には小さな黄色の花が咲く蔓が絡まり、そばには大きな枝ぶりの木が気持ちのいい木陰を作っていた。
四阿には私が用意した食事と、氷のバケツに入れられたワインのボトルが用意されている。周囲に侍女や護衛の姿はない。
「人払いをした。君はそういうの気にするから」
「一国の王太子の傍に使用人がいないなんて」
「戦場ではそんなこと気にせず一緒に食事をとったじゃないか。気にすることないよ」
「貴方はこういう方が好きだものね」
「そうだよ。さ、座って」
椅子を引かれ大人しく腰掛けると、ライナルトは嬉しそうに向かいに回り自分も腰かけた。ボトルを開けグラスに注ぐ。ほんのりとはちみつ色をした液体が注がれグラスを受け取ると、ふわりと香りが鼻孔を擽った。
「私が何を作るのか分かってたの?」
「俺の好きなものを作るだろうなって思ってた」
悪びれることなく笑顔でそう言うと「乾杯」とグラスを合わせる。一口飲むと冷えた白ワインのキリッとした飲み口が、用意してきたサラダやチキンによく合い美味しい。絵画のような風景にこの美しい人の笑顔、心地いい時間を共有して時々笑い合いながら、私はこの美しい時間を心に刻もうとじっと見つめた。
「午後は何しようか」
日差しが強くなってきた空を見上げてライナルトがナプキンで口元を拭いながら尋ねた。
「帰る?」
「まさか!」
ムッと眉根を寄せ口を尖らせる様子は、昔から変わらない。思わず笑ってしまうとライナルトも機嫌よく笑う。
「屋敷に図書室があるよ。ちょっと古い本ばかりだけど、クロエならその方が好きそうだね」
「素敵ね。お屋敷の中を案内してくれる?」
「いいね、そうしようか。そんなに広くないからすぐ終わるけど」
「私には十分広いわよ!」
あはは、と声を上げて笑うライナルトを睨むとごめんごめん、とまた笑う。この人はこうして、私の前で良く笑う。
「向こうに見える林の中に林道があってね、風が涼しくて気持ちいいよ。確かベンチもあるはずだから本を持って行ってみてもいいね」
「素敵ね。読みたい本を探しましょう」
「もう少し先に行ったところには馬の牧場があるんだよ。馬以外にも家畜や動物がたくさんいてね、畑もあるし君なら気に入りそうだ」
「行ってみたいわ!」
「ちょっと時間が足りないから、また次の機会に一緒に行こう」
「……」
「クロエ」
私の名前を呼び、向かいからそっと手を伸ばして私の手を上から覆うように握りしめる。
「クロエ、また来よう」
「……どうして……」
「連れて来たかって?」
ライナルトは少しだけ眉尻を下げ、寂しそうに笑った。
「ルシル様の言う事だ。必要だと言うならそうなんだと思ったんだよ。あの人は無意識に人を導くところがあるからね。従うのもいいかと思った。それに……、っ」
「……? どうしたの、何か……」
ライナルトが突然口を真一文字に結び、ぐっと息を止めるように下を向いた。
ビクンと大きく背中が揺れたと思った瞬間、吹き出すように口から吐き出された真っ赤な血がテーブルを染める。
「ライナルト!」
ガシャン! と大きな音を立てテーブルの上の食器が床に落ちる。ガボッと更に血を吐きだし、ライナルトが喉の辺りを押さえ床に膝をついた。次々とテーブルのものが床に落ち破片が飛び散る。
「ライ! 誰か、誰か早く!」
私の声にどこかで控えていた騎士や従者が飛び出してきた。
「ライしっかりして、ライ!」
ライナルトは私の手を掴んだまま離さない。
倒れ込んだライナルトの頭を抱え膝に乗せる。吐き出す血で窒息しないよう顔を横に向けると、また更に血を吐きだした。
「殿下! おい! 侍医を早く!」
「クロエ殿離れて下さい!」
「嫌よ、触らないで!」
護衛騎士がライナルトから私を無理やり離そうとすると、ライナルトが私の手を強く握った。何かを言おうとしているけれど、言葉にならずまた血を吐きだす。血で濡れた手がぬるりと滑り無理やりライナルトから引きはがされた。
ライの手が、空を掻く。
「ライ、ライ! 誰かライナルトの頭を抱えて、窒息しないようにしてあげて!」
ライナルトから離され護衛騎士に引きずられながら、振り返り何度も名前を呼ぶ。やがて集まってきた使用人や騎士に囲まれ、ライナルトの姿は見えなくなった。
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