【完結】無表情な婚約者様と当て馬として忙しい私の婚約について

かほなみり

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思いを言葉にして伝えたい

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 庭を抜け人のいない場所にどんどん進んでいくと、いつの間にか目の前に大きな池が現れた。
 どのくらい走って来たのか分からない。
 オレンジ色の空が紺青色に追われ、西の山々の向こうへ沈もうとしている。見上げると頭上の空はすでに濃紺の色。気の早い星がひとつ、瞬いているのが見えた。

 上がる息を整えて、ふうっと大きく息を吐きだしてしゃがみ込む。池のふちを覗くと揺れる水面にぼんやりと自分の顔が見えた。
 揃えた膝の上に顎を乗せて、ギュッと目を瞑る。

(ルーカス様に、想う方がいた)

 考えたことがなかったわけではない。
 私とは七歳も違うルーカス様。学園でご一緒することもなく、ルーカス様の同級生の方ともほとんど交流がない。ルーカス様にはルーカス様の世界があるのを、幼い私はただ遠くから見ている事しかできなかった。

(ルーカス様にとって、幼い子供を押し付けられたと感じてもおかしくないわ)

 お祝いしてあげた方がよかったのかしら。でもこれであの方も憂いなくルーカス様と一緒になれるはず。
 ルーカス様の優しさを、堂々とあの方は受け止められるはず。

(これでよかったのよ)

 家同士の交流がある、ただそれだけで決められた婚約者。
 そんな私にルーカス様は、無表情だけれど決して冷たいわけではなかった。無口だけれど蔑ろにされていた訳ではなかった。
 けれどそれだけじゃ足りなくて、欲張って、私ももっと愛されたいと思ってしまった。
 みんなのように、熱っぽい瞳で見つめられたいと思ってしまった。
 愛を、伝えてほしいと思ってしまった。

「――そんなところでしゃがんでいてはドレスが汚れちゃうよ、ダフネ」

 後ろから声が掛けられて足音が私の隣までやって来た。しゃがみ込む気配を感じて、そっと顔を向けると、ノア様が優しく微笑んで私の顔を覗き込んでいる。

「……ノア様」
「うん。いやあ、盛大な婚約破棄だったねえ」
「……解消です」
「そっか。どちらにせよ、ルーカスの固まり具合が凄かったよ。全然動かなくて大変だった」
「……」
「それで、本当に良かったの? あれが、ダフネの伝えたかったこと?」
「……はい」
「そう? すっきりしたようには全然見えないけど」
「……いいんです。私、邪魔にはなりたくないから」
「ダフネはさ、ちゃんとルーカスに確認した? 口数が恐ろしく少ないアイツもかなり悪いけど、ダフネも頭で考えすぎなんじゃないかな」
「……聞きたくない、です」
「傷つくから?」
「聞かなくても分かります」
「でもそれが、正しいか分からないよ」
「でも正しいかもしれない」

 ぎゅうっとドレスのスカートを握りしめる。近くにある明かりを跳ね返し、ドレスのビーズがキラキラと光る。

「前も、舞踏会でご一緒していた方だったわ。ルーカス様は、それはそれは大切そうに、あのご令嬢の傍に寄り添ってたわ。私……だから、邪魔したくないと思ったの」
「嫌じゃないの?」
「そんなこと、言わないわ」
「どうして? 嫌なら嫌だと言えばいいんだよ。ちゃんと自分の傍にいてって、言っていいんだよ?」
「言えないわ! だって」

 だって、そんなわがままを言っては嫌がられてしまう。

「幼い、子供みたいな婚約者の言うことで、ルーカス様を煩わせたくないもの。私、せめてご迷惑にならないようにって」

 物分かりのいいふりをして、モヤモヤしたものも、ちくちくするものも、全部に蓋をしてきた。
 我儘を言ったら迷惑をかけてしまうかもしれないからって、いつだって何も言わず一歩下がってじっと時間が過ぎるのを待っていた。
 本当は伝えたいことは、言いたいことは溢れるほどあるのに。

「でもだって、じゃあどうしたら良かったの? 私、私は」

 本当は嬉しかった。ルーカス様の婚約者になれてとても嬉しかった。
 でもこの気持ちを一方的に押し付けてもあの方を困らせてしまうかもしれない。だからいつも、ルーカス様の隣に並べるように精いっぱい背伸びして、物分かりのいい婚約者のふりをして、邪魔にならないように過ごしてきたのに。

「私では駄目なの。私ではあんな風に、優しい顔をしてもらえない」

 優しく微笑んであのご令嬢を見つめるルーカス様。

「私ではあんな風に、優しく笑って、見つめてもらえないんだもの……!」

 背中に大きく、硬いものがずっしりと圧し掛かって来た。俯いていた視界が陰で暗くなる。逞しい腕が回されて、私を膝ごとぎゅうっと強く抱きかかえた。

「!?」
「……っ、ダフネ」

 耳元に熱い息と焦ったような低い声。
 耳元でちり、とピアスが音を立て、冷え切った耳朶を温めるように熱い唇を柔らかく押し付けられる。

「る、るー、かす……」

 視界の隅にルーカス様の黒髪がさらりと流れ落ちて来た。ひんやりと冷えた髪が私の頬を撫でる。

「ダフネ……ダフネ、ダフネ」

 私を背後からぎゅうぎゅうと強く抱き締めるルーカス様の身体が、少し震えている気がする。違う、震えているのは私かもしれない。
 ルーカス様の纏っていたマントが私の、私たちの身体をすっぽりと覆い、冷たい外気から守られているように身体が暖かくなる。

「る……」
「……婚約解消なんてしない」
「るーかす、さま」
「絶対に駄目だ。俺の婚約者は君だけだ」

 ぎゅうっと抱き締められて、振り返ることも出来ない。視線だけ動かすと、さっきまでそこにいたノア様の姿はない。
 
「だ、駄目です、赤ちゃんはどうするのですか? あのご令嬢だって」
「あれは従兄弟の妻だ!」
「……え? なん……」
「……俺の、従兄弟の妻だ。従兄弟が騎士団で国境警備に従事している間、こちらにある実家で出産するからと王都に帰ってきている。今回のような社交の場で、夫の代わりに顔を出さねばならないと言うから、頼まれて付き添いをした」

 ぐ、と喉を鳴らして、ルーカス様は小さな声で「すまない」と言った。
 何が? 一体何に謝っているのだろう。頭がグルグルと混乱してちゃんと考えられない。
 
「……説明が、不足していたのは……申し訳ないと思っている。君に、甘えてしまった」
「あ、甘え……?」
「君の前では……口下手なのを、許されている気がしていた。何も言わない君の傍が……心地よかった」
「そ、そんな風に見えなかったです」
「すまない」
「そんな、謝られても……!」

 頭の中で、パンっと大きな音が響く。
 
『お二人とも、思いは言わなければ伝わりません! 自分だけでは何も解決できないのですよ!』

 このドレスを着た日、初めてルーカス様に伝えた私の気持ち。
 サンドピンクの繊細なドレスが、あの日の私を思い出させる。

「わ、私はもっと、ルーカス様にふさわしいレディになりたかったんです」
「十分だ」
「私、私はもっと、ルーカス様とたくさんお話したいんです」
「ああ」
「お出かけもしたいし、観劇だって行きたい」
「ああ」
「馬で遠出もしたいわ!」
「ああ」
「く、口下手すぎです!」
「ぐ、ぬ」
「目も合わないし!」
「……それは」
「そうやって結局何も言わないなんてずるいわ!」

 胸の前でぎゅっと握りしめた拳を本当はルーカス様に振り下ろしたいくらいだけれど、背後からぎゅうぎゅうに抱き締められてはどうすることも出来ない。言葉にするととても惨めで、じわりと涙が浮かんでくる。

「と、年下で幼い私を押し付けられて困っているんだろうなって」
「そんなことはない」
「目も合わないしほとんど話さないから」
「違う」
「だからルーカス様にはもっと相応しい大人の女性がいいだろうなって」
「……っ」

 突然頤を大きな手に掴まれて後ろを振り向かされた。
 至近距離に飛び込んでくる、ルーカス様の美しい青灰色の瞳。そして柔らかく押し付けられた、唇。それはぎゅっと押し付けられてすぐに離れていった。
 何が起きたのか分からなくて、目を見開いたままルーカス様の瞳を見つめた。こんな至近距離で見つめるのは初めてだ。

(やっぱり、綺麗な瞳だわ)

 そう思ってそのままじっと瞳を見つめていると、その瞳がまた更に近くなる。
 熱い吐息を乗せた唇が、また強く柔らかく押し付けられて離れていく。何度も、何度も。
 瞳を見つめていたはずなのに、いつの間にか目を瞑りその唇の柔らかさに翻弄された。柔らかく食まれ、吸い付き、また合わせる。
 頤を掴んでいた手袋をしている手がするりと喉に降りて、むき出しになっている私の肩から腕を優しく撫でる。

「ん、ぁ」

 小さく甘く声が出るとやっとルーカス様の唇が離れた。息を大きく吸い込むと、頬を支えるようにルーカス様の大きな掌が添えられる。

「君は十分、み、魅力的で、美しい。俺の婚約者は君だけだ、ダフネ。俺があ、あ、愛しているのは、君だけだっ」

 その言葉に驚いてルーカス様の顔を見つめると、見たことがないほど真っ赤な顔をしている。首も耳も、まるでお酒に酔ったかのように赤い。

「る、ルーカス様?」

 ぎゅうぎゅうに抱き締められているその腕から何とか手を抜き取ってそっと頬に触れると、瞳を潤ませたルーカス様が私の冷えた掌に頬を寄せた。掌に触れるルーカス様の頬は熱い。

「真っ赤です」
「そ、うだ。君を見ると、どうしても……こう、なってしまう」

 もごもごと真っ赤な顔で瞳を潤ませながら話すルーカス様は、本当にいつもの涼しい表情とは別人のよう。なんだかかわいそうなくらい赤い顔を見つめ、潤んだ瞳を見つめて、初めてルーカス様をかわいいと思ってしまった。

(赤面症?)

 私を見ると真っ赤になってしまうということ?

『俺があ、あ、愛しているのは、君だけだ』

 私を愛している? 本当に?

「ルーカス様、もう一度言ってください」
「え?」
「私のこと、どう思っているのか」
「!」
「お願いです、言って?」

 緩んだ腕の中で身体の向きを変えて、ルーカス様を正面から、下から見上げるように懇願する。
 もう一度、聞かせてほしい。瞳を見つめて、私を見ながら。

 ルーカス様はこれ以上ないというくらい顔を赤くして瞳を潤ませ、でも決して視線は外さずに私の頬に手を添え、消え入りそうな声で囁いた。

「君を愛している、ダフネ。この世の何よりも、君が大切で愛おしい」
 
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