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ユフィール16

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 その夜は、夢を見ることはなかった。

(疲れ? ……いいえ、違うわね)

 恐れたのかもしれない。
 まるで白昼夢のように見た、自分が死んだ瞬間の夢。その詳細を知りたくないと、心が拒んだのだ。

(……転生、なんて気軽に思っていたけれど、一度死んでいるのよね。そうよ、当たり前だわ)

 ただ、その死を迎えた瞬間が想像と違った。
 穏やかな老後を迎え、家族や大切な人たちに見守られて天寿を全うしたのだと、当然のように思っていたし信じていた。それが、違ったのだ。

(だから、ショックを受けてるのよ)

 膝の上で手のひらをこすり合わせる。冬の季節のように冷え切っているのに、鼓動がいつもより早く感じる。額にじわりと汗が滲んだ。

(もう、過ぎたことよ……)
 
 コンコン、と室内にノックが響き、意識が現実に引き戻された。アナが扉を開け対応すると、シャツにベストというラフな姿のアレク様が現れた。

「おはようございます、ユフィール」
「アレク様、おはようございます」

 立ち上がろうとするとすぐに傍にやってきたアレク様が手で制し、私を座らせる。

「少しは眠れましたか」

 心配そうに私の顔を見る彼の様子に、チクリと胸が痛む。

「ええ、お陰様で。ご心配をおかけしました」
「いいえ、あなたがお元気ならそれでいいんです」

 そう言いながら、彼は私の髪を撫で頬を触り、そして膝の上の手を握った。当然のように触れるその仕草に、顔が熱くなる。慣れていない。

「手が冷たい。寒くはありませんか?」
「大丈夫です。少し指先が冷たいだけで……」
「朝食は取れそうですか? ガゼボに用意しようと思ったんですが、まだ難しいなら……」
「ガゼボ」
「え?」

 きゅっと無意識に握られていた手を握り返すと、アレク様が少しだけ目を見開いた。

「私、ガゼボで朝食を取りたいです」

 あの周囲に咲き誇る花も、そばにある池も、飾りすぎず自然な姿でとても美しい。このモヤモヤと落ち込んだ気持ちを抱えたまま閉じこもるよりは、外の空気を吸ったほうがいいかもしれない。
 アレク様は私の顔を見てふふっと優しく笑うと、「わかりました」と私の手を取り立ち上がらせた。

「では、一緒にガゼボで朝食をいかがですか、ユフィール」
「ええ、喜んで」

 そう返事をして笑うと、アレク様は目許をほんの少し赤く染めて、私の額に口付けを落とした。

 *

 ガゼボにはすでに朝食の乗ったワゴンが用意されていた。使用人はおらず、アナが紅茶を淹れるとすぐにその場を立ち去り、今は私たち二人しかいない。
 そよそよと気持ちよく吹く風が時折アレク様の髪を揺らし、長いまつ毛を伏せ手元に視線を落とした彼の頬を撫でていく。
 アレク様は器用に桃の皮を剥くと、食べやすくカットして皿に乗せていった。

「すごいわ、お上手なんですね」
「学園では自分で何でもしなければならなかったので」

 嬉しそうに笑うアレク様は、お皿を私の前にそっと置いた。
 
「以前、桃がお好きだと聞いたので、ちょうど時期だからご用意できました」
「ええ! 嬉しいわ、よく覚えてらっしゃいますね」
「あなたのことならすべて覚えていますよ」
「……まあ」

 なんと返していいのかわからず、俯く。こんな甘いやりとりに慣れていなくて、恥ずかしくてカップの持ち手をいじっていると、ふふ、とアレク様が小さく笑う。

「どうぞ」

 その声に顔を上げると、アレク様は小さなフォークに桃を刺し、私に差し出している。

「あ、ありがとうございます」

 受け取ろうと手を伸ばすと「違いますよ」とその手をやんわりと握られる。

「え?」
「口を開けて」

 その言葉の意味が、一瞬わからなかった。

「……っ、え」
「はい、ユフィール」

 口許に差し出された桃の甘い香りが鼻腔をくすぐる。この意味がわからないほど、私も無知ではない。

(あ、あーんしてってこと!?)

 アレク様はフォークを私に向けたまま、小さく首を傾げた。その瞳はキラキラと嬉しそうに輝いている。そしてとにかく顔がいい!

(待ってどうしようそんなに期待に満ちたお顔で見られても! 自分で食べられますって断れる雰囲気じゃないわ!)

 多分、顔が真っ赤なんだろうと思う。心の声が漏れていたのか、アレク様はふふっと笑うと私の唇にちょん、と桃を付けた。

「……あーん、ですよ? ユフィール」
「あ……っ!?」
(これはあれよ、前世でよく読んだ小説にあった、ヒーローによる餌付けシーンよ! 私餌付けされてる!?)

 食べてしまうしかない。
 これを断るという、そんな高度な技術は経験不足から持ち合わせていないのだ。もう、ささっと食べてしまえばいいだけよ!
 意を決してぎゅっと目を瞑り、勢いよくその桃に齧り付く。勢い余って歯がカチッとフォークに当たった。
 けれどそんなことを気にしている暇もなく、もぐもぐと一生懸命咀嚼する。

「……ふ」

 震えるような声がして、ゴクリと桃を飲み込みそっとその顔を見ると、口許を片手で覆ったアレク様が肩を震わせている。翠玉の瞳とバッチリと目が合うと、アレク様が頬を赤く染めて破顔した。

「ふふっ! かわいい!」

 そういうと、目許を赤く染め笑った。自然な姿が年相応のような気がして、なんだか新鮮だ。
 
「か、からかってます!?」
「違う、からかってないです! た、ただ……、ふ、あはは!」

 アレク様がとても自然に、楽しそうに笑っている顔を見ているうちに、恥ずかしさから、段々と自分でも可笑しくなってくる。

「仕方ないじゃないですか、こんなことしたことがないんですもの! もう、笑わないでください!」
「ふふ、違います、本当に……かわいくて」
「かわいいだなんて、やっぱりからかっているわ!」

 目尻に溜まった涙を長い指で拭うと、彼はまだ楽しそうに笑いながら私を見つめた。その瞳は甘くとろりと溶けているようで、ドキリと小さく胸が鳴る。

「違いますよ。ふふ、本当に、かわいいです、ユフィール」

 そんなふうに甘い言葉を吐きながら、アレク様は私の手に指を絡め持ち上げると、ちゅ、と手の甲に口付けをした。そのまま唇を押し当て、じっと私を見つめる。
 その姿に言いようのない色気を感じて、怯んでしまう。

「信じられない?」
「そ、んなこと、言われても」
「ん?」
「さ、散々笑ったではありませんか!」
「だって、あなたがかわいすぎるから」

 手の甲に押し当てられた唇の熱がくすぐったい。意外と柔らかいんだな、なんて頭の片隅でぼんやり思う。完全に逃避だ。
 そのお顔を見ていられなくて、プイッと横を向く。

「あ、あなたのお顔が素敵過ぎて、かわいいなんて言われても信じられません」

 ――あ、ちょっと言葉を間違えたかもしれない。

「ユフィール」

 大きな掌が顎を掴み、背けていた顔をアレク様に向けられる。思ったよりも近い距離にあるその顔にかあっと顔が熱くなった。

「本当に、真っ赤になって恥ずかしがるあなたが、とてもかわいいと思ったんです」

 親指がゆっくりと私の唇を撫でる。
 彼の瞳が私の唇を見つめているのを至近距離で見て、恥ずかしさに突き飛ばしてしまいたい衝動に駆られた。そんな気持ちを抑えるためにぎゅうっと手に力を入れると、それは指を絡め繋いでいたアレク様の手。

「あなたにそんな顔をさせることができるなら、この顔も捨てたものじゃないな」
「あ、アレク様」
「ユフィール」

 繋いでいる手をアレク様の長い指がするりと撫でる。すりすり、と何度も擦るように撫でられ、先程まで冷たかった手が熱くなっていることに気がついた。

「僕はもう成人しました」
「は、はい……?」
「あなたの記憶にある、幼い僕ではない」
「……そ、それは」
「だから僕は、あなたに意識してもらいたいんです」
(十分してますけどね!?)
「意識してくれるなら、いくらでもあなたに僕の気持ちを伝えますよ」

 そんなことを言われてなんと返したらいいのかわからず、はくはくと口を開け閉めしていると、顎を掴んでいた手が私の頬を包み込んだ。
 まっすぐ真剣な瞳にたじろいでしまう。
 
「あなたはとてもかわいい」
「!」
「僕はあなたのことをそう思うし、言葉にして伝えたいくらい、あなたが愛しくてかわいくて仕方ないんですよ」
(そんな言葉を恥ずかしげもなく……!)

 益々顔が熱くなる。私は今、一体どんな顔をしているのだろう。なんなら視界も滲んでいるし顔も熱いし、目が回っている。
 
「ど、どうして」
「どうして?」

 アレク様の顔がさらに近づく。その瞳には私が映り込んでいる。

「どっ、どうして私、なのですか」

 話してくれるという約束。それはいつ?

「知りたいと思ってくれますか?」
「もちろん……」 

 会ったこともない年上の私に婚約の申込みをしてきたアレク様。成人したら話してくれると約束した。

「ずっと、待っていましたもの」

 そう言うと、アレク様はふわりと嬉しそうに、ほころぶような優しい笑顔を見せた。

(……あ)

 そうしてそっと、私の唇の端に、柔らかく口付けを落とした。
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