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知らない名前

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 侍女に案内された部屋は私が利用していた部屋らしく、全ての調度品が洗練され素晴らしいものだった。
 けれど、それらを私が好きなのかは分からない。クローゼットに納められたドレスや、持参したであろう荷物を眺めても特に何の感慨も湧かなかった。

「ふう……」
 
 一人になりたくて、湯浴みを手伝うと言っていた侍女に下がってもらうと、自然とため息が漏れた。
 浴室へ続く扉を開くと、王太子の言うとおり湯が張られた浴槽が準備されている。香油を垂らした浴槽に顎まで浸かり、ほうっと息をついた。私の好きな香りらしい。覚えていないけれど、とてもいい香りがして心が落ち着いた。

「私の名前はルドヴィカ……、ルドヴィカ・ヘルマン……」

 私のだという名前を口にしても、やっぱりピンとこない。けれど、あの人たちがそう言うのだから、そうなんだと思うことにした。
 だって、ここの人たちと接していても、街であった男たちに感じたような不快な気持ちにはならないのだ。今はそれが大事だと思うから。
 
 ――それにしても、我ながら自分の肝の据わり方に感心してしまう。
 自分の置かれた状況に動揺する事なく周囲を観察し、街で絡まれた時も冷静に対応して危険を回避。普通に凄いと思う。凄いわよね?
 自分の境遇も、名前すら覚えていないけれど、取り敢えず今ここにいれば危険はないみたいだし、何とか思い出せるよう努力すればいいんじゃないかと思っている。うん、なんとかなりそう。
 そんなことを思いながら、浴槽の縁に頭を載せ目を閉じると突然、耳許にあの声が蘇った。

『ルディ、呼んで。……の名前を』

「!!」

 バシャンッと浴槽の中で滑り溺れそうになる。先ほどの王太子の口付け、大きな掌を思い出し、かあっと全身が熱くなった。
 (あんなこと、あんなことするなんて……!)
 先ほどの口付けを思い出してしまい、恥ずかしさに居た堪れない。ぎゅっと自分の身体を抱き締めるように肩を抱き、浴槽で小さく身体を丸くした。

 ――最初は、優しくて穏やかな人だと思った。
 私を心配し労る眼差し、優しい手つきや仕草。差し伸べる手は温かく、私を守るようにずっと添えられていた。
(それが……あれは豹変し過ぎではないかしら!?)
 一体何がきっかけであんなことになったの? 王太子の雰囲気が急に変わったのは何故?

『殿下』

 ――そう、そんな風に呼んだからだ。名前が分からずそう呼ぶと、急に雰囲気が変わったのだ。
 両手で頬を抑えじっと考える。考えても名前は思い出せない。

「……名前で呼び合っていたのね」

 湯にゆらゆらと浮かび広がる自分の金色の髪を見つめながら、王太子の怒ったような顔を思い出す。
(全然怖くはなかったけど)
 それどころか、そんな王太子の姿に胸の内でじわりと温かい感情が沸き上がった。これは何だろう。
(あの人、私のことが本当に好きなんだわ……)
 王太子の全てが私を好きだと伝えている気がして、くすぐったさと、罪悪感のようなモヤモヤとした気持ちが胸の内で渦巻く。
(記憶を失う前の私たちの関係はどんな風だったのかしら)
 愛し合っていたという私たち。
 それはどんな様子だったのか。

『続きはまた後で』

「!!」

 ザブンッと水しぶきを上げてお湯に潜る。
(ない! ないないない! 次なんてないから!)
 苦しくなるまで身体を沈め、プハッと水面から顔を出し息を整える。浴槽の縁に腕を乗せて、はあっと深く息を吐きだした。
 ――落ち着こう。
 今は考えなければいけないことが沢山あるんだから。
 縁に頭を載せ目を瞑り、ドキドキとうるさい心臓の音を無視して記憶を探っていく。
 すると、またあのウィンドウを思い出した。
 二体のマネキンが並んでいた、テーラーのウィンドウ。

「……どうして一人であんな場所に立っていたのかしら」

 伯爵令嬢で王太子妃候補であるらしい私が、どうして街のテーラーの前に立っていたのだろう。
 どうして護衛騎士や侍女を王城へ送ったのか。
 一人で残った理由は何だろう?
 殿下の言っていた、誰も知らない私の秘密とは何のこと? 記憶をなくす前の私は、誰かに会う予定だったの?

「……もの凄く気になるわ」

 自分のことなのにさっぱり分からない。もどかしい。それなら、自分で行動するのみ。
 私の直感が、考えるより行動に移せと言っている。
 明日から自分でも色々調べてみよう。思い出せないのなら調べたらいい。分からないのなら、覚えたらいい。
 なんだか急に目の前が開けた気がして、心が軽くなる。
 
「よし!」

 勢いをつけて立ち上がると、お湯が勢いよく浴槽から溢れた。

 *

 緊張で眠れないのでは、と落ち着かない気持ちで早めにベッドに潜り込んだけれど、しっかりぐっすり眠り、朝を迎えた。
 お腹がすいて目が覚めるなんて、なんて健康的なのだろう。頭もスッキリしている。
(どうしてこうも危機感がないのかしら……私って……)
 熟睡した自分になんとなく幻滅しながらベッドから降りると、暖炉にはしっかりと薪がくべられ室内は暖かい。侍女に手伝ってもらうのも気が引けてそそくさと身支度を整えていると、見計らったかのようにノックと共に朝食が運ばれてきた。
 正直、誰か知らない人と食事を取ることになるのではと少し気が重かったので、これは嬉しかった。

 目の前で食事のセッティングを進める使用人を見ていて、ふと、彼等に王太子の名前を尋ねればいいのでは……? と思いついた。
 そうよ、それが一番間違いないじゃない?
 近くにいた執事に声を掛けると、手を止め恭しく頭を垂れた。

「聞きたいことがあるんだけれど」
「何でございましょう」
「あの、殿下のお名前は何と言ったかしら?」
「申し訳ございません、それはお答えいたしかねます」
「……え?」

 ――ちょっと意味が分からない。
 同じく手を止めて頭を垂れる使用人たち、扉の向こうの護衛騎士たちに同じ質問をしても、皆が口を揃えて同じことを言う。
 どうしてそこに箝口令を敷く必要が……?

 結局誰からも王太子の名前を聞き出せないまま、食事の準備を終えた使用人たちは退室した。
 落ち着かないからと給仕のために残っていた使用人にも下がってもらい、釈然としない気持ちで一人で食事をしていると、廊下から人の声が響き騒がしくなった。

「何かしら」
 
 視線を向けると突然大きな音を立てて扉が開き、外套を纏ったままの女性が飛び込んできた。

「ル、ルドヴィカお嬢様!」

 女性は私を見ると手に持っていた鞄をどさりと床に落とし、みるみる緑の瞳に涙を浮かべ私にガバッと抱き着いた。

「……!?」

 ひんやりと冷たい外套が肌に触れる。女性の肩越しに開け放たれた扉の向こうで、困ったように笑う護衛騎士の姿が見えて、どうやらこの人は私の知り合いのようだと分かった。
 
「あ、あの……」
「ルドヴィカお嬢様、心配したんですよ! どこにいたのですか!? ひどい目に遭っていませんか!?」

 おいおいと声を上げて泣く女性の背中を恐る恐る叩くと、更にきつく抱き締められる。

「殿下に探し物を頼まれてタウンハウスにおりましたが、居ても立ってもいられず馳せ参じましたわ……!」

 タウンハウス? タウンハウスがあるのね? ならどうして私ここに滞在しているのかしら。えっと、探し物って? なんだか色々分からないことが多すぎて何を聞いていいのか分からない。

「ね、ひとまず落ち着きましょう?」

 いつまでも泣き続ける女性を宥め、私は女性から話を聞くことにした。
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