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灰色の雲、ウィンドウの前で1

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 ――ふと気が付くと、目の前のウィンドウを眺めていた。

 テーラーのウィンドウに並ぶ真っ白なドレスとタキシード。華やかに飾り立てられた二体のマネキンが、寄り添うように並んでいる。結婚式の衣装のようだ。
 焦点がゆるゆると目の前のガラスに映る人物に合う。
 ボンネットから溢れる、緩やかにウェーブした金色の髪、ぼんやりとした灰色の瞳。
 ――これは私だ。
 見下ろすと、上質な生地で誂えられた深緑の外套を纏い、茶の毛皮の襟が暖かい。手には革の手袋を嵌めていて、ピッタリとフィットしたその作りから、私のために誂えられたものだと分かる。

「お嬢さん、一人でどうしましたか?」

 不意に背後から声を掛けられそちらに視線を向けると、男性が二人立っていた。
 中綿の入っているであろう厚手のジャケットの襟を立て首には毛糸のマフラー。草臥れたハンチングを被りこちらを見るその視線は、明らかに私の品定めをしている。口調は丁寧でも身に付けている物やその態度で、相手にする必要はないと頭の中で警鐘が鳴る。

「……お構いなく」
「美しい女性が先程から一人で立っていては、心配になりますとも」
「人を待っているだけですので」
「随分と待たされているようですが……あちらのカフェで紅茶でもいかがですか」
「どのくらい?」
「え?」
「私、どのくらいここにいますか?」
「え? かれこれ二十分ほど……」

 靄がかかったようにぼうっとして頭が働かない。質問したまま黙る私に、困惑した男たちは互いを見遣る。

「寒いでしょう。美味しい紅茶のお店があるのでご案内しますよ」
「結構です」
「そう言わず。ほら、雪が降ってきましたよ」

 そう言って有無を言わさず男の一人が私の腕を掴んだ。
 ちょっと、放っておいてくれないかしら。考えを纏めなくちゃいけないのに。

「離してください」
「きっとその待ち合わせの人物はこの雪で来るのを諦めたんでしょう。さあ」

 腰に回された手にゾワゾワと不快感が走った。
 咄嗟に身体を捻り男の腕から逃れ、足払いをする。身体のバランスを崩した男に更に体当たりをして思い切り突き飛ばした。

「うわぁっ!」
「くそっ! 何するんだこいつ!」

 喚いている男たちを置いて、一気に走り人混みに紛れた。何度も道を曲がり大きな通りに出た所で息を吐く。振り返ってみても男たちが追ってきた様子はない。
 深く息を吸い込みはあっと吐き出すと、白い息が視界を覆った。
(……今の咄嗟の動き、無意識だったけど凄くない? ひょっとして、私って只者ではないんじゃないかしら)
 息を整え辺りを見回すと、メインストリートなのだろう、高級な店が立ち並び、路上に並ぶ小さな屋台ではいい香りの焼き菓子やパンに花、新聞などが売られ活気づいている。
 店の前で主人を待っているであろう高級な馬車、買い物を楽しむ人々。皆それぞれ楽しそうに連れ立ち歩いて私の前を通り過ぎていく。
 しばらく周囲を見渡していると、路肩に騎馬隊の制服を着た騎士の姿が見えた。
(ああ、よかった)
 私は息を整え、騎士に近づき声をかけた。

「すみません」

 馬上の騎士が私を見ると、親切に馬から降りニコリと笑顔を見せた。

「こんにちは、レディ。どうかされましたか」
「大変申し訳ないのですけれど、助けて欲しくて」
「何かお困りですか?」
「ええ……。私が誰だか、ご存知ありませんか?」
「え?」

 一緒にいた他の騎士も私の言葉を聞き目を丸くする。

「私は……誰なのかしら」

 そう言う私の言葉は誰か他人の呟きのように響き、そのまま頭の中の靄は私の視界も白く覆ってしまった。

 *

「――記憶喪失?」

 気が付くと見知らぬ天井。
 ……いやこの場合、どこにいても見知らぬ天井なんだと思うけれど、とにかく知らない部屋で目を覚ました私に、白衣を着た医師が告げた言葉。
 医師は背後に立つ看護師とちらりと視線を交わし、気まずそうに私に話を続ける。

「これと言った外傷は見当たりませんが、強いショックを受けられたようですな」
「強いショック」

 確かに自分の名前も分からない。どこから来たのかここがどこなのか、何も分からない。
 自分の中が空っぽだ。

「ご令嬢のお名前は、ルドヴィカ・ヘルマン。ヘルマン伯爵家のご息女であらせられます」

 看護師はそう言うと、恭しく両手で私に新聞を差し出した。
 受け取り開いてみると、新聞の一面に『王太子妃候補の一人 ルドヴィカ・ヘルマン伯爵令嬢 行方不明』と大きく文字が躍っている。

「行方不明?」

 日付を確認すると三日ほど前のもの。
(三日も私は行方不明だったの? ……おうたいしひ、こうほ?)
 突拍子もないことに言葉を失っていると、扉の向こうが俄かに騒々しくなった。バタバタと人が走る音、誰かの声が重なっている。顔をそちらに向けた途端、勢いよく扉が開かれた。

「……っ! ルディ!」

 黒髪に真っ青な瞳の男性が一人、私の顔を見てその瞳を見開き、すぐにくしゃりと表情を歪めた。そしてその勢いのまま駆け寄り、ぎゅうぎゅうと抱き締められる。

「!?」
「ルディ、ルディ……!」

 突然のことに身体を仰け反らせ離れようとすると更に強く抱き締められる。冷たく冷えた外套が肌に触れ、見ると髪にも肩にも、雪が降り積もったままだ。

「ルドヴィカ……!」

 私の肩に額を押し当て、身体を震わせる男性。抱き締められている事実に驚くよりも、男性の感情の波に飲み込まれるような気がした。
 ――知り合いなんだわ。こんなに心配してくれている。
 けれど、誰なのか分からない。なんて言葉を掛けたらいい?
 どうしたらいいものか迷い、いつの間にか脇に避けた医師に視線を向けると医師は困ったように眉尻を下げた。
 
「……あ、あの」
「探した……探したんだ、ルディ! 良かった、本当に良かった!」

ぱっと顔を上げて私を見上げるその顔は、確かにとても心配していたのだろう、安堵、不安、後悔、様々な感情がないまぜになった表情をしている。
 白皙の肌は外気に当たったせいか頬を赤く染め、黒髪から覗く青い瞳は潤んでいる。何と言うか、美しい顔立ちの男性だと思った。
 
「ご無事で何よりです、ヘルマン伯爵令嬢……!」

 息を切らせながら部屋に入って来た、同じく肩や頭に雪を積もらせた男性にも声を掛けられた。掛けている眼鏡が曇って顔がよく分からないけれど、私を知っているようだ。男性は眼鏡を取ると外套で眼鏡のレンズを拭きながら、私を抱き締めたまま動かない美丈夫に声を掛けた。

「殿下、まずは落ち着いて話を伺いましょう」
「ああ……、ああ、そうだな……!」
「……でんか?」
(――でんか。殿下。殿下って言った? 今)
「ルディ? どうした、どこか怪我を?」

 黒髪の美丈夫、もとい殿下、王太子は顔色を真っ青にして私にぐいっと顔を寄せた。急に視界いっぱいに飛び込む美丈夫の顔……!

「ちっ、近いです!」
「るっ、るでぃ……?」

 両手でその身体を思いっきり押し返すと、王太子は驚いたのか目を真ん丸に開いて私から身体を離した。両手は私の腕をしっかりと掴んだままだけれど。
 王太子妃候補らしい私を迎えに来た、殿下と呼ばれる男性。
 もしかしてこの人が王太子……?

「あー……、殿下にご挨拶申し上げます」

 それまで気配を消していた医師が、横からそっと前に歩み出て頭を下げた。

「ヘルマン伯爵令嬢は、何も覚えていらっしゃらないご様子です」

 医師の放ったその言葉に、時が止まったように室内が静まり返った。
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