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1巻

1-3

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 食事を終えてエーリクに「おやすみ」を教えてもらい、部屋に戻る。ウルが一緒に着いてきて、扉を開けるとするりと室内に入ってきた。

『ウル、一緒に寝る?』

 そう聞くと、ウルは尻尾を振り室内をふんふんと匂いを嗅いで歩く。その様子を見ながらバタンとベッドに倒れ込んだ。身体が重いことに気がついて、深くため息を吐き出す。
 分からないことだらけでものすごく疲れた。
 折角温泉があるのだから温まろう。レオニダスは帰ってくるかな。


 ――会いたいな。


 レオニダスの顔を見てから眠りたい。あの、優しく笑いかけてくれる顔を見て、安心してからベッドに入りたい。そうしたらきっと、悪い夢も見ないと思うから。このまま眠れる気もしない。

『ウル、一緒に外に行かない?』

 声を掛けると一通り室内の匂いを嗅ぎ終えたウルが私の元に駆け寄ってきて首を傾げた。

『お散歩に行こう』

 ベッドから起き上がりウルの頭を撫でて、外に出てみることにした。

「ナガセ? どこに行くんです」

 階段を下り玄関に向かうと、ホールでアンナさんに会った。私の姿を見て目を丸くするアンナさんは、私がお屋敷に連れられてきた時、ヨアキムさんと一緒に玄関で出迎えてくれた女性だ。侍女じじょをしているらしい彼女は栗色の髪をひとつにまとめ、いつも背筋をぴんと伸ばしている。
 上着を着てウルと一緒にいる私を見て何か思ったのか「大丈夫」と繰り返し、私を部屋に連れていく。

「閣下のお帰りは遅いですからね。待たなくていいのよ」

 きっと優しい言葉をかけてくれているのだと思う。アンナさんは私を見ても嫌な顔をしない人の一人だ。

(でも私、レオニダスを待ちたいの)

 身振り手振りにも限界がある。片言すら話せないのだからものすごく不便。どうしたらいいのか分からず黙っていると、やや強引に部屋へ戻されて「おやすみ」と静かに扉を閉められた。

『どうしようか、ウル』

 足元にいるウルに声を掛けると、首を傾げて私を見返してくる。かわいい。
 窓に近づき外を見る。外灯がいとうのない外は真っ暗な闇が続き、玄関の灯りだけがじんわりと夜の闇に滲んでいる。じっと見つめていればそこからレオニダスが現れるような気がして、私はそっと、再び部屋を出た。
 今度は誰に見つかることもなく、外に出ることができた。
 息が玄関の街灯がいとうに照らされて白く昇り闇に消えていく。

(思ったより寒くない)

 玄関の階段に腰を下ろすと、背後の明かりが座る私の影を長く地面に映し出す。寄り添うウルの体温が温かくてしばらくじっと座っていると、背後から大きなブランケットが掛けられた。振り向くと、困ったような表情でヨアキムさんが私を見下ろしている。

「まるで捨てられた子猫ですね」

 何か呟くヨアキムさんは視線を闇に向けた。

(そっちの方向からレオニダスが戻ってくるの?)

 私もつられてそちらを見る。

「君が逃げ出したいわけじゃないことだけは分かったが……」

 ヨアキムさんが何かを呟いた時、じっと見つめていた闇から馬のいななきが遠くに聞こえた。

「!」

 ぱっと立ち上がると、ひづめの音も聞こえてくる。

「閣下が戻られましたね」

 ヨアキムさんの声に重なるように、優しい声が響いた。

「……ナガセ?」

 暗闇からその姿がぼんやりと浮かび上がる。私を見て馬上のレオニダスが驚いたように名前を呼んだ。

(帰ってきた!)
「あ、ナガセ!」

 背後でヨアキムさんが私を呼んだけれど、構わず玄関の階段を飛び降りてレオニダスに向かい駆け出した。レオニダスは素早く馬から降りると私を受け止めるように腕を広げた。その腕の中に飛び込み、レオニダスの驚いたような顔を見て、すぐに正気に戻る。

(私ったら! 抱き着くなんて!)

 我に返り素早く身体を離すと、私を受け止めたレオニダスの手が背中に回り引き寄せられた。

『!』
「こんな寒い中どうしたんだ。まさか待っていたのか?」

 見上げるとレオニダスが目を見開き私を見ている。

(――ああ、会いたかった)

 じわりと視界が滲む。側にいたかった。
 こんなに会いたかったなんて。こんなに、会えて嬉しいなんて。

(――どうしよう)
「ヨアキム!」

 レオニダスが私の背後にいるヨアキムさんに声を掛けた。

「ナガセは食事をしていないのか?」
「エーリク様と取られましたが、あまり食べていません」
「そうか」

 レオニダスは手袋を外すと私の頬をそっと包み込んだ。温かいてのひらにほっと息を吐きだす。私を覗き込むレオニダスの近さに、また顔が熱くなる。

「ナガセ、食事はちゃんと取らないと駄目だ。それにこんなに冷たくなって」

 何かを言うと、レオニダスは素早く屈み私の膝裏に腕を回して抱き上げた。

「ひゃ……⁉」
「ヨアキム、ナガセに温かいスープを用意してくれ。俺も共に食事を取ろう」
「承知しました」

 高く抱き上げられ、怖くてレオニダスの首にしがみ付く。

「怖いのか? 落としたりしないぞ」

 声を上げて笑うレオニダスに、レオニダスを出迎えていたアンナさんや他の使用人の人たちもクスクスと笑った。

(なんだか……みんなの様子が少し柔らかくなった?)

 レオニダスはふと私を見上げ、そっと私の頬を親指で撫でた。
 その仕草にまたドキッと心臓が跳ねる。

「俺の帰りは待たなくていい。ちゃんと身体を休める方が大事だぞ」
「……? たいにぞ」
「だいじ。大事、だ」
「たいち」

 言葉を繰り返せば、レオニダスはまた声を上げて笑った。

(……会えてよかった)

 レオニダスに抱き上げられ、そのままお屋敷の中を歩く。その足元をウルが歩き、ヨアキムさんが少しだけほっとした表情でレオニダスのあとをついてくる。
 なんだかみんなの優しさと温もりに泣きそうな気持ちになって、レオニダスの肩に隠すように顔を伏せると、レオニダスは優しく私の背中を撫でてくれた。
 エーリクもヨアキムさんもアンナさんも、良くしてくれる。
 それは今日一日過ごしてよく分かった。
 でも、不安なのだ。
 ここがどこなのか、私が今どんな場所にいるのか、さっぱり分からない。置かれた状況も立場も、言葉も、何も分からない。そのことに、こんなにも絶望している。

(でも、レオニダスといると違う)

 レオニダスといるとふわふわ不安な気持ちが落ち着く。私がレオニダスの目に映し出されるだけで、存在しているのだと感じられる。

(もしも、もう元の世界に帰れないのだとしたら)

 帰り方なんて分からない。どうしてここに来たのかも分からないのだから。
 もしかしたら、私はこの世界で生きていかなければならないのかもしれない。
 そんなことが常に頭の片隅にあって、笑っていてもふいに不安に襲われる。私がレオニダスに抱くのは、そんな不安を取り除いてくれる、居心地のいい場所を見つけたような気持ちなのだ。

(そうじゃないと、困る)

 そうでなければ、私は見知らぬこの世界でレオニダスなしには生きていくことができない。


「ナガセ、だめだ。一緒に行けないんだ」

 翌朝、レオニダスが出ていく時間に合わせ上着を持って玄関に行ってみた。私の姿を見たレオニダスがまた困ったような顔で私を見て何か言った。

(私も一緒に行きたい。街も見たいし、ここがどんな世界なのか知りたい)

 でもそんなことは上手く伝えられない。だからこうして行動で示そうと思ったんだけれど。困った顔をしたレオニダスをじっと見つめていると、段々と落ち込んできた。

(私を連れて行くつもりはないみたい)

 うつむき足元を見ていると、大きな手が私の顎を掴み上を向かせた。目の前にレオニダスの碧い瞳がある。

「ナガセ、まだ顔色が悪い。今はまだ身体をしっかり休めて食べることに集中するんだ」

 レオニダスは私の顎を掴んだまま、ゆっくりと親指で頬を撫でた。途端に、ぶわっと顔が熱くなる。

(ど、どうしよう、顔が赤いかもしれない)

 まっすぐ私を見つめる瞳から逃げるように視線をおろおろさせると、レオニダスがふっと息を吐きだすように笑った。

「エーリクと過ごして、ゆっくりするんだ。自分を大事にしろ。いいな?」
(あ、昨日教えてもらった言葉)
「たいち」
「そう、大事」

 レオニダスはいい子だ、とでも言うかのように私の頬をてのひらで温めるように撫でて、また馬に跨り朝の空気の中を馬で駆けていった。その後ろ姿を見えなくなるまで玄関で見送る。
 心にぽっかりと穴が開いたように感じて動けない。ウルが寄り添うように脚にぴったりとくっついて一緒にレオニダスとオッテの姿を見送った。

「……朝食はエーリク様と取りましょう」

 ヨアキムさんが昨日よりも優しい声で、私に声を掛けた。


 ◇


 それからしばらくは、毎日のように朝になると、なんとかレオニダスについていこうと上着を持っていったり先回りしてうまやで待っていたりしたけれど、結局レオニダスが私を連れていってくれることはなかった。
 一週間ほどで諦めた私は、それでもと玄関でレオニダスを送り出すことだけはしている。
 そして夜は、初めの頃は遅かったレオニダスも、玄関で待つ私に折れたのか段々早く帰ってくるようになり、私もヨアキムさんとアンナさんに教えられた部屋で、レオニダスを待つことにした。そこにいると、レオニダスが帰ってくると必ずまっすぐ来てくれることが分かったから。
 ヨアキムさんやアンナさん、使用人のみんなが毎日玄関に行く私を待ち構えて、必死に身振り手振りで伝えてくれたそのことをやっと私が理解した時、みんながわあっと歓声を上げて喜んだ。
 みんな笑顔になって、私の背中を優しく叩いたり温かいミルクを持ってきてくれたり。

(心配してくれていたんだ)

 そのことが嬉しくてじわりと視界が滲んだ。優しい人たちなんだ。
 ただ私が何も分からなくて、心が不安に押しつぶされてマイナスなことばかり考えてしまって、何も見えていなかったのかもしれない。そう思うとすごく心も身体も軽くなった。

「ナガセ、今日はどんな言葉を教えてもらったんだ?」

 帰宅して部屋にやって来たレオニダスは、優しく少し低い声で私に分かるようにゆっくりと話す。
 時折優しく髪を撫でてくれるその手つきに、いつも顔が熱くなる。私のことを子どもだと思っているからなんだろうけれど、そのスキンシップはとても甘えたくなってしまう。
 ね、レオニダス。
 私が元の世界に戻れなかったら、ずっとここにいてもいい?
 それが叶わなかったら私は、この世界で何者になって生きていくんだろう――


 ◆


 ナガセが屋敷にやってきてから、一週間が経った。
 執務室で書類に目を通しながら、ふと今朝のナガセを思い出す。
 落ち着いた様子で俺を玄関から見送ってくれたナガセは、少しだけはにかんだように微笑み、片手をあげて送り出してくれた。
 初めの頃は俺に置いていかれるのを恐れていたのか、毎朝屋敷から飛び出し俺についてこようとしていた。上着を抱え、青い顔をして息を切らせ俺の元へやってくるナガセとウル、そのあとを執事しつじのヨアキムが困った顔で追ってくる毎日。
 それを思えば、やっと理解したということだろうか。
 初めて血相けっそうを変えて飛び出してきたナガセを見た時は驚いた。聞けば、朝食を食べていたところ俺が出ていく姿を見たナガセが突然部屋を飛び出したという。

「閣下と一緒に行くつもりなのではないでしょうか」

 ヨアキムがそんなことを無表情に言った。

(俺に置いていかれると思った、のか)

 そのことに、じわりと胸の内に温かい感情が湧く。

「ナガセ、朝食はちゃんと食べろ。お前は少し細いぞ」

 そう言って不安げな表情のナガセの頬を親指で撫でると、ぱっとその頬に赤みが差し、大きな切れ長の瞳が揺れた。

「……俺は勤務がある。日中はエーリクに色々教わればいい。ナガセ、いいか。もう少し身体を休めて、エーリクと一緒にいるんだ。エーリクだ」

 分かるか? そう言うと、理解したのか、それでも少し不安な表情を残したまま頷いた。

「いい子だ。なるべく早く帰る」

 もう一度、今度は冷たい頬をてのひらで撫でてやるとさらに顔を赤くする。

「……行ってくる」

 心細そうに今にも泣きだしそうな顔のナガセに俺の気持ちが引きずられる。淋しい思いをさせている。そのことがこんなにも自分に罪悪感を抱かせるとは思わなかった。
 そんな思いを振り切るように、毎朝ナガセに言って聞かせるのは中々辛いものがあった。理解できてよかったのだが、あのやり取りがなくなったことを少しだけ寂しく感じる自分もいる。


「なーにニヤニヤしてるの?」

 窓の外を見つめていると、アルベルトが追加の書類を手に執務室へやってきた。

「ノックぐらいしろ」
「仕方ないでしょ、書類で手が塞がってるんだからさ」
「そこに置け」

 まだ書類が山になっている場所を示せば、アルベルトは遠慮なくその上に書類を追加する。
 たった二日留守にしただけでこの量だ。

「どう? ナガセとエーリク、上手くやってる?」
「随分と気が合うようだぞ。エーリクがべったり張り付いてあれこれ世話を焼いているし、ナガセは喜んでエーリクのあとをついて回っている」
ができたみたいな?」

 その言葉に二人の姿を思い出し、自然と笑い声が漏れた。
 エーリクは毎日ナガセの手を引いて連れ歩いている。身振り手振りであれこれと教え、それを嬉しそうにうんうんと頷き聞いているナガセ。
 自分の勉強している本やノートを見せて、兄のように振る舞うおいの姿は可愛らしかったし、エーリクの教える言葉を懸命に何度も繰り返しているナガセも素直で可愛いと思った。

「どちらかと言うと飼い主とペットだな」
「ふふっ、かーわいいなぁ。お父さんよかったねぇ」
「やめろ」

 アルベルトはクスクス笑いながら、執務室にあるワゴンの前で紅茶を淹れる。この男の淹れる紅茶は美味い。
 カップを優雅な仕草で執務机に置くと、アルベルトはソファに腰を下ろしカップを口元に運ぶ。

「クラウスが昨日から出入国の記録を調べてるけど、ナガセのような外見の人物は見当たらないね」
「だろうな。あの見た目で真っ当に入国していたら目立つ」
「随分とゆったり構えてるね」
「焦っても仕方のないことだろう」
「そうだけど。まあ、ナガセもまだどうしたらいいのか分からないだろうからね。せめてどこの国か分かればいいんだけど、言葉が通じないなら難しいなぁ」
「……」
「何?」

 アルベルトがすっと目を細めた。

「……このままどこの人間か分からなかったら、ここで暮らせるよう手助けするだけだ」

 そう言うと、アルベルトが浅くため息を吐いた。

「あのさレオ、森で拾った子をいちいちそうやって親身に助けるの? 慈善事業じぜんじぎょうじゃないんだよ、入れ込み過ぎ」
「分かっている」
「オッテやウルを拾うのとはわけが違うでしょ。……レオニダスは、ナガセだから信用してるんだ」

 アルベルトは音を立てずにカップを置き、ひとつ息を吐いた。

「……で、どこで拾ったの?」

 左右色の違う瞳でアルベルトは迷いなく俺を見た。

孤児こじでも犯罪の被害者でも間諜かんちょうでもないって確信してる。その根拠は何?」
「……」

 いつもの柔らかな笑顔を消し、宝石のような瞳を鋭く細めてヒタリと俺を見据えるアルベルト。分かっているくせに、と言いたいのをグッと呑み込んだ。

「……お前がギフトで最後に母を見た森だ」

 そう答えると、小さく笑い声が返ってきた。

「レオのそういう素直なところが昔から好きだよ。そのまま大人になってくれて僕は嬉しい」
「お前は真っ黒な大人になったな」
「そうじゃないと閣下の補佐なんてできないから!」

 アルベルトは声を出して笑うと「まあいいさ」と呟いた。

「一生懸命ナガセの身元を調べてるクラウスがかわいそうだよ。どうするの?」
「ある程度調べたら打ち切る」
「まあ、今はそれしかないか」

 そう言うとアルベルトは立ち上がり、ヒラヒラと手を振って執務室をあとにした。


 この世界の人間は、ギフトを持って生まれてくる。
 それは特別なことではなく、ただ他の人間よりも得意なことがあるという程度がほとんどだ。
 耳がいい者もいれば、鼻がきく者、足が速い、声が大きい、握力が強い、様々だ。ほとんどの者がそのギフトを鍛錬し、個性としてだけではなく自らの能力として活かし生きるかてを得ている。
 ただまれに、得意な程度ではない、異能のギフトを持って生まれてくる者がいる。
 それは、アルベルトのように遠くのものが見えるだけではなく透視とうしができたり、俺や父のようにひとつの能力だけではなく身体能力全てを強化したり、教会の枢機卿すうききょうが持つ、病を治したり雨を降らせるような、いわゆる奇跡と呼ばれるギフトなどがそうだ。
 そして俺の母も、今思えば異能のギフトの持ち主だった。


 ――俺の母は、聖女だった。


 三十年ほど前のある日、聖女が現れると神託が降りた。
 ただそれだけの神託だったが、魔物の発生が突然増え恐怖に怯える日々の中で、百年ぶりに下されたそれは教会や人々を熱狂させるのに十分だった。
 いつ現れるのか、どこに現れるのか。
 誰もが待ち望み様々な憶測おくそくを呼ぶ中、深淵しんえんの森で討伐を行っていた辺境伯と兵士たちが一人の女性を保護した。言葉が通じず混乱していた亜麻色あまいろの髪の女性は、度重なる魔物の襲撃を受け疲弊しきっていた人々の希望として、教会によってまつり上げられた。深淵しんえんの森に現れた、それだけで人々にとって特別な存在になったのだ。
 教会で保護という名の下に王都の神殿に幽閉ゆうへいされ、わけも分からず朝から晩まで祈りを捧げる日々。
 しかし、魔物の発生が抑えられることはなく、人々はいつしか聖女は偽物であると囁き出した。
 聖女にはギフトがないではないか、と。
 言葉の分からない異国の女を教会が人々をあざむくためにまつり上げたのだと。
 まことしやかに囁かれる噂により求心力を失いつつあった教会は、聖女に最後の祈りを捧げさせると発表した。深淵しんえんの森で、神に祈りを捧げる、と。
 聖女を否定することも、これ以上前に出すこともできなくなった教会の、最後の手段だった。一人深淵しんえんの森に送られた聖女はその後、姿を消した。
 やがて魔物は緩やかに数を減らしていき、日常を取り戻した人々は聖女のギフトが魔物の発生を抑えたのだと感謝した。それが本当に聖女の力だったのか、辺境の地を守る王国軍の力だったのかは分からない。
 そして聖女が消えてから一年後、王弟であるバルテンシュタッド辺境伯は領地でひっそりと結婚式を挙げた。
 俺は両親の馴れ初めについて聞いたことがない。
 母が聖女であることも、はっきりと聞いたわけではない。
 母の親族や出身地について何も聞いたことがないため、はじめは平民なのかと思ったが、王弟である父が爵位しゃくいを持たない平民を正妻に置くことは考え難く、自分が貴族にありがちなめかけの子でもなかったことから、なんとなくそうなのだと感じていただけだ。
 教会で語られる聖女は既に伝説の人物となり、「聖女」としか語られない。そこに名前はない。
 それは父の、王家の情報操作によるものなのかもしれない。
 母の容姿は完全に人々に語られる聖女のそれであったが、特に目立つような色を持つ人物でもなく、言葉ははじめの頃不自由であったそうだが、俺が子供の頃には周囲と普通に会話をしていた。
 父は大変寡黙かもくな人間で、ほとんど屋敷にはいなかった。夫婦仲がどうだったのかは知らない。
 母はいつも、双子の俺と妹を産んで、大変だ、幸せだと笑っていた。
 明るく、知らない言葉の歌を歌い、いつも自分たちと乳兄弟ちきょうだいのアルベルトを分け隔てなく可愛がってくれた。
 幸せな日々が続いていたある日、これまでにない規模のスタンピードが起こった。
 魔物の数に加え、見たことのない大きさの魔物が現れ、辺境の兵士たちは命を懸けて戦った。多くの人間が命を落とし、鉄壁と呼ばれた防壁も破壊され防戦一方の戦いの中、母は深淵しんえんの森へ一人降り立った。
 なぜなのかは分からない。
 誰も母が防壁を越えたことに気がつかなかったが、アルベルトはそのギフトで見たのだ。母が一人、深淵しんえんの森に向かって走る姿を。
 取り乱したアルベルトは周囲の大人に喚きすがり、当時既にアルベルトのギフトを知っていた父が深淵しんえんの森に向かったが、もうそこには母の姿はなく、同時に、魔物の姿も煙のように消えた。
 それは、俺と妹の十二歳の誕生日だった。
 母は確かに、聖女だったのだろう。だが確かめるすべはもうない。
 アルベルトはそれからしばらく塞ぎ込み誰とも話さず、何も見ないようにいつも眼を隠し、妹は部屋に引きこもりずっと泣いていた。父は何も言わず、毎日深淵しんえんの森へ行き、母を捜索し続けた。後妻ごさいもいない。
 そして俺も毎年、自分の誕生日になると深淵しんえんの森へ出掛けるようになった。
 そこで、俺は見つけたのだ。
 母が現れ消えた深淵しんえんの森で、魔の色と恐れられる黒色の髪を持つ、――ナガセを。


 ◆


 レオニダスの屋敷で暮らすようになって二ヶ月ほどが経過した。

「じゃあこれはなんて読む?」
「んー、……わ、たし、の、ほん」
「正解!」
「これ、おもろ」
「面白い」
「おもしろい」

 日中は、エーリクがいつも色んなことを教えてくれる。かわい過ぎる。抱きしめたい。
 エーリクは屋敷のみんなの名前や文字、数字を丁寧に教えてくれた。それはエーリクの勉強にもなるから大いに学べ、みたいな雰囲気で(多分)レオニダスは言った。ヨアキムさんは私にノートと鉛筆を用意してくれて、エーリクと一緒に書き取りをするのが日課になった。
 今日もこうしてエーリクと文字や言葉を学ぶ。エーリクはいつもすごいと褒めてくれるから、褒められるのが嬉しい私はすぐに得意げな顔をしてしまう。だって嬉しいから!
 たまに頭も撫でられてどっちが年上か分からなくなるけれど、私もどさくさに紛れてふわふわの髪を撫でたりしちゃう。はあ、かわいい。
 二人で勉強をしているとノックの音が響いて、ヨアキムさんが部屋の扉を開けた。

「エーリク様、家庭教師の先生がいらっしゃいました」

 学校に通わないエーリクは、家庭教師の先生に勉強を教わっている。毎日一人で勉強するエーリクのいい刺激になるからと、そこに私も参加させてもらうようになった。


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