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1巻
1-2
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輝かんばかりの金色の髪をふわふわさせて、エメラルドのような瞳を大きく見開いた天使は、ものすごく驚いたというか信じられないものを見るような目で私を見ている。
(天使さま! いやもうナニコレ天使さま⁉)
内心身悶えている私をよそに、さっきまでもじもじしていたのが嘘のように、天使さまはレオニダスの背後から私の目の前にずんずんと歩み寄ってきた。
やっぱり、ものすごく見られてる。
「エーリク、ご挨拶を」
レオニダスが苦笑しながら天使さまに何か言った。
「はじめまして、エーリクです」
天使さま……エーリクは、頬を赤く染めて騎士のように胸に手を当てて挨拶をしてくれた。もうダメ、抱きしめたい。
『長瀬……』
興奮で震える手を自分の胸に当て、自己紹介をする。レオニダスに初めて会った時、つい苗字を名乗ってしまってそのままだったけれど、もうナガセが馴染んでいるからいいかな?
下の名前を名乗るか迷っていると、エーリクは私の手を取って、キラキラの瞳を益々キラキラさせ興奮した様子で鼻息荒く何か言った。
「僕が面倒見てあげるからね!」
エーリクの後ろで、レオニダスが肩を揺らしてクツクツと笑っている。
「エーリク、ナガセは動物じゃないんだ」
「分かってます、伯父上。僕は困った人の手助けがしたいんです!」
「そうか、エーリクに任せるから、ナガセに色々教えてやるといい」
「はい!」
何か分からないけど、エーリクはふんすと鼻息荒く意気込んでいる。
レオニダスはずっと笑っている。笑顔もイケメン。
なんだか分からないけど、二人とも楽しそう!
私もつられてニコニコしちゃう。ていうか、この子は誰。十歳くらいかな? レオニダスの子供だろうか。
でも全然似てない。もしかして、こうやって小さな子を助けるのが仕事なのかな。
この子も私のように拾われた?
ああ、本当に言葉が通じないって困る。伝えたいことも聞きたいことも、たくさんあるのに。
私の名前も、本当は女ですってことも、助けてくれたお礼も、まだまだたくさん。
(……あ、そうか)
じゃあ、覚えればいいのか、言葉を。
こうして私はひとつ、この世界でやることを見つけた。
◆
バルテンシュタッド辺境伯領。
北の最果てに位置するこの辺境伯領には、防壁を守護する王国軍が駐在している。王国の北に広がる魔物が発生する森、深淵の森から這い出て来る魔物から、王国全土を護るのが役割だ。
日々魔物の討伐を行い死闘を繰り返し、人々の安寧を護り、貴族や平民といった身分差など一切関係のない実力主義の世界に身を置いている。彼らは騎士のようにこの国の王に忠誠を誓うのではなく、王国、ここに暮らす人々に忠誠を誓っている。
そんな軍隊を率いるのが、バルテンシュタッド辺境伯だ。
五年前、王弟である父が魔物の討伐で命を落とし、俺は二十四歳で叙爵を任ぜられ、バルテンシュタッド伯レオニダス・フォン・ザイラスブルク=バルテンシュタッド公を名乗っている。
幼い頃から父に鍛えられ、王国軍最強と謳われる辺境の将軍に相応しくあるべく、誰よりも強くあることを心掛け、昼夜問わず休むことなく兵たちを従えてきた。
そんな自分自身に唯一許している、一年に二日だけの自分の時間。
その日はオッテとウルを伴い、一人で深淵の森に入り一夜を過ごすことに決めていた。
これは、俺が十三歳の頃から続けていることだ。初めの頃は危険な目にも遭ったが、今では問題なく過ごしている。今回もいつものように森に入り、地形を調べるために歩いていたのだが。
まさか、生きた子供を拾うことになるとは思わなかった。
「それで?」
「……」
「その子、どこで見つけたの?」
ナガセを深淵の森で見つけ屋敷に連れ帰った翌日。
砦にナガセを連れて執務室に向かうと、既に防壁の衛兵から話を聞いたであろうアルベルトが執務机に寄り掛かりワクワクした様子を隠さず待っていた。
脇を通り抜けオッテとウルは窓際のクッションに陣取り、寛いでいる。
「東の丘辺りだ。魔物に追われていた」
「へぇ、ウルを見つけた辺りだね。レオニダスが子供を連れてきたって聞いて驚いたよ!」
アルベルトは入り口の前でじっと立っているナガセに視線を向けた。その表情はキラキラと輝き、ナガセに対する好奇心が抑えられずにいる。
「ナガセ」
声を掛けると、入り口で立ったままのナガセがピクリと肩を揺らした。
ソファに座るよう促すと、ソロソロとソファに近づきそっと腰を浅く下ろす。警戒しているのか、白いニット帽を目深に被りきょろきょろと辺りを見渡す様子は怯える幼い子供そのものだ。
「ナガセっていうの? 変わった名前だね。僕はアルベルト。かわいいね、なんか拾われた猫みたい。拾ったんだけど」
「言葉が通じないぞ」
「そうか! なんか珍しい顔立ちだなとは思ったけど、そうか、益々庇護欲が増すね?」
アルベルトはニコニコと笑顔を崩さないまま俺に視線を投げる。
「魔物に追われているのを反射的に助けたが、まさか子供だとは思わなかった」
「危機一髪だったわけだ。十二、三歳……もう少し年上かな? どうやって入り込んだのかな。防壁に穴でも開いてる? 親に捨てられたとか。身元を調べないとね。この国に入国した人間から調べるかな……」
あれこれ思考を巡らせ始めたアルベルトを無視して、ナガセの向かいに腰を下ろす。不安げな表情でこちらを見つめるナガセに向かって、安心させるように口の端を少し上げてみせた。
「大丈夫だ」
「だいちょうぷ」
ナガセは膝の上で手を握り締め、眉根を寄せて真剣な表情でコクンと頷く。正確な意味は分かっていないはずだが、それでもこの言葉を伝えると少し安心したような顔をする。
その顔を見てもう一度、ナガセに向けて微笑んだ。
魔物に怯え言葉も通じないこの少年がなぜあんな場所にいたのか、昨夜からずっと考えていた。
防壁は森からの侵入に対しては鉄壁の守りを固めているが、反対に出て行く者に対する警戒が薄い部分がある。
犯罪者が一時的に身を隠すために逃げ込むこともあれば、自ら命を絶とうとする者、生活に苦しくなって子を捨てる者。そんな者たちが衛兵の目をかいくぐり防壁の向こう、深淵の森へと向かう。
そして皆、一晩と持たずに魔物の餌食となる。
はじめはナガセもそれらに巻き込まれたのかと思った。
だが、ナガセは不自然なほど清潔感がある。身に着けている物は見たことのない物ばかりだが、決して安価ではなさそうだ。健康面でも、魔物に襲われ顔色が悪かったものの、生活に窮している様子は見られない。白く長い指は爪に至るまで手入れされて美しく、労働者の手ではない。
それに、思い浮かぶのはナガセの色。
この国では見たことのない漆黒の髪。
耳が見えるほど短く切られた髪は手入れがされているのか、濡羽のように艶やかに光り、目にかかるくらいの長さの前髪がサラサラと揺れる。
その向こうに見える黒曜石のような輝きを持つ双眸。少し切れ長で大きな瞳を涙で濡れた長いまつ毛がぐるりと囲み、神秘的な顔立ちをしている。
白く細い手首は、力を入れたらすぐに折れてしまいそうだった。
素直に、美しい顔をしている少年だと思った。
今目の前にいる男――乳兄弟のアルベルトも王国一の美しさを持つと言われている。
金髪に紫と濃紺のオッドアイを持つこの男は絵本の中の王子様然としていて、王都へ行くと貴族の令嬢のみならず老若男女、この男の美貌に酔いしれる。
幼い頃は好色どもが近付いてきてアルベルトは何度も危ない目に遭っていた。乳兄弟を守るのは自分しかいないと、拳を振り剣を振ってよく追い払ったものだ。
見慣れた自分にはアルベルトが美しいのか最早よく分からないが、ナガセのように見た目の色が珍しい上に、身寄りのない少年が好奇の目に晒されるのは想像に難くない。好色の金持ちに目を付けられ、餌食になりかねない。
一度その考えに囚われてしまっては、もう自分が連れ帰って保護することしか考えられなかった。幸い、屋敷には死んだ妹夫婦の息子がいる。まだ八歳だが、大人しか身の回りにいないあの子にとっていい刺激になるかもしれない。
それに、自分が保護すれば疾しい人間が近づくこともまずないだろう。
自分の庇護の下、言葉が分からないなら覚えさせ、自立できるように手助けすればいい。自分にできる仕事を見つけさせ、この国で生きていく術を身に付ければいい。
そうやって拾った責任を取ろう。身体を震わせ声を殺して泣いた、この子のために。
本当はナガセをどこで見つけたかなど、自分の胸の内にしまっておけばいいのだ。
アルベルトがぶつぶつと独り言を言っている間に、執務室の扉をノックする音が響いた。
「入れ」
「失礼します」
返事をすると、赤い髪の軍服を着た男が背中を丸めワゴンを押して入って来た。ワゴンには茶器とサンドイッチなど、軽食が載せられている。
「クラウス、ありがとう」
アルベルトが片手を上げてワゴンを置く場所を指し示す。
「侍女を入れるなということでしたので私がお持ちしましたが……」
「いいよいいよ、自分でやるから」
アルベルトはワゴンから手際よくサンドイッチやお茶をテーブルに並べ、レオニダスの隣に腰掛けた。
「閣下、お帰りなさいませ」
クラウスは胸に手を当て礼を取り、ちらりと視線だけソファに座るナガセに向けた。クラウスをじっと見ていたナガセがびくっと身体を小さく跳ねさせ、慌てて視線を逸らす。
「それで今回は……この子供ですか」
「今回の拾い物だよ。ナガセっていうんだって。可愛いよね」
「……ついに人間ですか」
「拾い物じゃない、保護したんだ。身元を調べる間は俺が面倒を見る」
クラウスが眉根を寄せた。
「それは……身元の分からない人間を領地内に留め置くということですか?」
「他国の間諜の可能性も考えられるだろうが、言葉も通じない上にこんな目立つ容姿では不向きだ」
「目立つ容姿?」
「ナガセ」
向かいに座りじっとテーブルの上を見つめていたナガセに向かって帽子を取るよう促すと、慌てて白いニット帽を脱いだ。
現れたナガセの艶やかな黒髪とその顔貌に、アルベルトとクラウスが息を呑む。
「――魔の色」
クラウスがぽつりと呟くのをアルベルトは視線で黙らせた。クラウスは口にしてしまったことを自分で驚いたのか、さっと顔を伏せる。
「……なるほどね。これは、生きていくのが大変だ」
アルベルトはびくびくと怯えるような様子のナガセにふっと優しく笑みを見せた。
そう、黒色は魔物の色だ。昔から人々に恐れられている魔の色、不吉の象徴であり災いを齎す色。クラウスの反応は、ここで暮らす者なら誰もがする当然の反応だ。
「俺がナガセを保護する」
そんな容姿を持つナガセを保護しなければ、これからどんな目に遭うか。それを思うと、俺にはこれ以外の選択肢は考えられなかった。
文句はないな、と二人に無言で問えば、アルベルトが深いため息を吐いてソファに背中を預ける。
「なるほどね……確かにこれじゃあ間諜は考えられないね。言葉も通じない上に見た目の珍しさも相まって、色々考えた結果レオの庇護欲が目覚めたんだね」
「おい、変な言い方をするな」
「じゃあ父性?」
クラウスがなるほど、と一言呟く。
「オッテとウルみたいな感覚ですか? 動物とは違いますよ」
「お前たちは俺をなんだと思っているんだ?」
いつものように軽口を叩く二人は、間違いなく俺の部下のはずなのだが。
怒鳴りそうになったが、不安そうに座ってじっとしているナガセを怖がらせまいとグッと言葉を呑み込み、耐えるように目を瞑る。
「それにしても、綺麗な顔をした子だよね。人攫いの被害者かな」
「入国記録を調べて他に行方不明者がいないか調査します」
「人買いの組織が動いている可能性もある。他の被害者もいるかもしれないから、慎重に」
「はい」
俺の言葉にクラウスがすっと背筋を伸ばして頷いた。
「ところで面倒見るって、レオの屋敷で? エーリクはどうするの?」
アルベルトが未だソファに座るナガセをじっと観察したまま、口を開いた。ナガセは居心地悪そうに視線を泳がせている。
「屋敷には大人しかいないからな、エーリクにとってもいい刺激になる」
「随分ナガセのこと買ってるね? 知らない人間を簡単に側に置いていいの?」
「ナガセが演技をしているとしたら大したものだが、ここに来るまでの様子からまずそれはないだろう。大体うちの屋敷の人間はほとんど軍部出身者だ。子供が一人増えたところで、エーリクに危険が及ぶことはない」
「ふうん?」
アルベルトは意味ありげな声を出し俺を見た。
「なんだ」
「別に。僕もナガセは間諜とかそういうんじゃないと思うよ。だから早く身元を確かめてあげて、帰る場所があるなら帰してあげたいなって思ってさ」
「……そうだな」
「あ、ほらナガセ、これ食べなよ美味しいよ~」
アルベルトは会話に全くついていけず居心地悪く座っているナガセに、慣れた手つきでお茶を淹れた。ほら、と俺の前にもカップを置く。
ナガセに見せるようにサンドイッチを掴んで食べると、恐る恐るサンドイッチに手を伸ばした。食べてみると思ったより空腹を感じたのか、夢中になって食べはじめ、お茶も口に運ぶ。美味しいらしく、頬を染めながら食べている。
そんな様子をアルベルトは膝に頬杖をつきながら眺めていた。
「……所作は綺麗だけど貴族のとは違うね。でも労働者には見えない。身に着けてる物は高価そうだけど、お金持ちの家の子かな? 商家とか」
アルベルトの言葉に、クラウスがなるほど、と呟いた。
「確かに、それなら珍しい品を身に着けていても不思議ではないかもしれません。ズボンの形が変わっていますね。随分細身のデザインですが、この色は藍染でしょうか」
「にしても可愛いなあ。警戒心いっぱいだったのに餌付けされちゃって、本当、拾って来た子猫みたいだね、お父さん?」
「うるさい」
「砦や教会に任されないのですか?」
クラウスは未だに身元の不確かな人間を置くことに抵抗があるようだ。その気持ちは分かるが、必要以上に警戒をすれば、ナガセがこちらを信じてくれなくなるかもしれない。
「教会といってもあそこの神父は通いで日中しかいない。夜間に子供を一人にするわけにはいかないし、かといって砦に手の空いている者などいないだろう。だが屋敷であれば使用人も多くいるから様子を見るのに人の目があっていいだろう。クラウス、ナガセに丁度良さそうな着替えを何着か倉庫から見繕ってきてくれ」
「分かりました」
クラウスにそう指示をすると、頬杖をついてナガセを観察していたアルベルトが驚いた表情で俺を見た。
「え、着替えって、うちの兵士の?」
「そうだ。配給する着替えで予備があるだろう。サイズは大きいかもしれんが、ないよりはマシだ」
「ええ? 大きいどころじゃないし、兵士の配給品って……」
「それでは私の実家から、弟たちのもう着ない物をいくつか見繕ってきます」
「え、クラウスも?」
アルベルトは俺とクラウスの顔を交互に見ると、天井を仰いではあ~っと大きく息を吐き出し片手で目を覆った。
「そうかあ」
「なんだ」
「……いいや? ただちょっと、自分のギフトを思い出しただけ」
そう言うとアルベルトは身体をグッと前に起こし、お茶を飲んで一息つくナガセの顔を覗き込んだ。その距離に驚いたのか、ナガセが身体を固くする。
「ナガセ、楽しくなりそうだね」
王国一と言われる美貌の男は、それは楽しそうに、キラキラと満面の笑みを浮かべた。
ナガセはぴたりと固まったまま、じっとアルベルトの顔を見つめていた。
◆
(あんまり眠れなかったな……)
レオニダスのお屋敷に来てから三日目の朝。
無理やり瞑っていた目を開けると、窓の外はまだ薄暗く、青灰色の空がカーテンの隙間から見える。横たわったまま朝のお風呂に入ろうか迷っていると、ノックの音が響き慌てて飛び起きた。
扉を開くとあのロマンスグレーのおじさまが無表情で立っている。
(おはようございますってなんて言うのかな)
なんて言ったらいいのか分からず黙っていると、おじさまは私に部屋を出るように促した。廊下に出ると、ウルが廊下の奥から駆けてきて、足元にまとわりつく。
『ウル! おはよう、来てくれたの?』
しゃがんで首をわしわしと撫でると、ちぎれんばかりに尻尾を振る。かわいい。
そんな私たちを黙って見つめていたおじさまの視線に気がついて、慌てて立ち上がる。おじさまは私についてくるよう手招きし、私はウルと一緒にあとをついて行った。
(食堂、かな?)
一階の奥にあるそこは、使用人たちが集まり食事をする部屋だった。大きなテーブルに皆で座り、思い思いに食事を取ったり話をしたりしている。
室内に入ると私の姿を見て急に話し声がぴたりと止んだ。チラチラと向けられる視線の中、おじさまに指し示された席に腰を下ろすと、嫌そうに顔を顰める人、逃げるように退室する人がちらほらいて、どきりと心臓が嫌な音を立てる。
ウルがテーブルの下で私の足元に寄り添うように座った。
一人テーブルに着き黙って目の前のお皿を見つめ手を出せずにいると、そんな私を遠巻きに見てひそひそと何かを話す人たち。言葉が分からないから、何も分からない。
私のことを話しているのかどうかも分からなくて、不安に押しつぶされる。
(私、何か変なのかな)
ずしりと胃が重くなり、何も喉を通らない。
昨日はレオニダスに連れられて大きな建物に行った。みんな同じ黒い制服を着ていて、多分軍隊とかそういうのだと思う。
レオニダスの姿を見て敬礼する人ばかりで、レオニダスがどうやら偉い人なのだということが分かった。一緒に部屋に入ると、そこには金髪のものすごいイケメンがいて、笑顔で出迎えてくれた。
(すっごい見られてたな)
その人はずっと笑顔で私のことを観察していた。
左右瞳の色が違うオッドアイで、紫の瞳なんて初めて見たけれどとても綺麗で、じっと見られていたけれど嫌な感じがしなかった。アルベルトさんというらしい。すごくイケメンでイケメン過ぎて現実味がないというか。俳優さんとか? なんかオーラが違う。
でも私のことを歓迎してくれているようだった。レオニダスと気さくに話している様子で、二人の仲の良さが窺えて、何も分からなかったけれど居心地は悪くなかった。
(今日もまたあそこに行くのかな)
いつまでここで知らない人たちの視線に晒されるんだろう。
泣きそうになる気持ちをぐっと堪え座っていると、ふと窓の外にレオニダスの姿が見えた。
真っ黒な制服とマントを身に纏い、オッテを連れてまだ早朝の冷たい空気の中、白い息を吐きだして歩くその姿に、心臓が跳ねた。
(待って、どこに行くの⁉ 置いていかないで!)
部屋を飛び出しレオニダスのいた場所へ急いで向かうと、私の姿を見たレオニダスが目を見開いた。私を追いかけてきたおじさまに何か言っている。少しだけ困ったような顔をしたレオニダスが、私の頬をそっと親指で撫でた。その仕草に、顔が熱くなる。
(どこに行くんだろう、私は一緒に行ったら駄目?)
でもこの思いを伝える言葉を私はまだ持っていない。
ねえ、どうして私を見て嫌そうな顔をする人がいるのかな。レオニダスはそんなことしないのに。
エーリクやアルベルトさんみたいに親切な人もいるのに。
何が違うの? 何も分からなくて、不安で仕方ない。
レオニダスは少し困ったような表情で私の顔を覗き込み、何かを言った。その中に何度か「エーリク」という言葉が混ざる。
(エーリクといろってことかな)
ひとつだけ頷いてみると、レオニダスはふっと口元を緩め、今度は大きな掌で私の頬をそっと包み込んだ。ぶわっと顔が熱くなり、その優しさに泣きそうになる。
(私も一緒に行きたい。……一緒にいたい)
これはきっと、知らない場所で一人でいる私の、不安な気持ちの表れなんだろう。優しくしてくれるレオニダスの側にいて、安心したがっているだけなのだ。
ぎゅうっと胸が苦しくなる。
心細いだけ、一人が辛いだけ。こんなことで迷惑をかけては駄目。
呪文のようにそんなことを心の中で繰り返しているうちに、レオニダスはさっと馬に跨り、まだ青白い早朝の景色の中へ駆けていってしまった。
レオニダスを見送り、おじさまにさっきの部屋に連れ戻されると、食堂にはもう誰もいない。一人席に着き、冷めたスープを少しだけ口にする。
味は、感じられなかった。
「エーリク!」
「ナガセ、おはよう!」
朝食を終え、おじさまに連れられていった部屋に、たくさんの本やノートを用意したエーリクが大きなテーブルに座って私を待っていてくれた。
(わわ、かわいい!)
今日もやっぱりかわいい天使さま、エーリク。私を見て笑顔で「おはよう」と言う。
よかった、嫌な顔をされない。そう思っただけで、泣きそうだった気持ちが軽くなる。
エーリクの真似をして「おはよ」と言うと、エーリクはパチパチと手を叩いて笑った。
かわいい!
「おはようございます、だよナガセ」
「おはよ、ごじゃ……」
「おはよう、ございます」
「おはよごじゃす」
「上手!」
日中の時間はずっとエーリクが私と一緒にいてくれて、優しく楽しく色んなことを教えてくれて、笑顔を見せてくれて。ウルはずっと私に寄り添い、その温もりを分けてくれた。
(優しい人たちだな)
その温かさに、じんわり心が溶けていくようだった。
夜。夕食の時間になり、朝とは違う広い部屋に通された。
室内には大きなテーブルが置かれ、エーリクが一人で座っていた。
私の姿を見て嬉しそうに頬を染める。かわいい。テーブルのセンター席には誰もいないけれどお皿が並べられていて、きっとレオニダスの席なんだと思う。
ロマンスグレーのおじさま、もとい、ヨアキムさん(昼間に教えてもらった)は私をエーリクの席の向かいに座らせてくれた。もうお料理は並んでいて、エーリクが私に食べるよう促している。
(レオニダスはどうしていないの?)
仕事に行ったんじゃなかったのかな。でもテーブルにお皿があるってことは帰ってくるんだよね。忙しいのかな?
じっとお皿を見つめていると「ナガセ」とエーリクが優しく声を掛けてくれた。
「ナガセ、伯父上は仕事で遅くなるから先に食べよう。大丈夫だよ」
「だいじょぶ」
「そう、大丈夫。温かいうちにいただこうね」
エーリクはぱくりと小さくカットしたお肉を口に運び、嬉しそうに頬を染める。
だいじょうぶって言った。それはきっと『大丈夫』なんだと思う。ほら、と私を促すエーリクを見てお皿のお肉を口に運ぶと、彼は嬉しそうに笑った。
(天使さま! いやもうナニコレ天使さま⁉)
内心身悶えている私をよそに、さっきまでもじもじしていたのが嘘のように、天使さまはレオニダスの背後から私の目の前にずんずんと歩み寄ってきた。
やっぱり、ものすごく見られてる。
「エーリク、ご挨拶を」
レオニダスが苦笑しながら天使さまに何か言った。
「はじめまして、エーリクです」
天使さま……エーリクは、頬を赤く染めて騎士のように胸に手を当てて挨拶をしてくれた。もうダメ、抱きしめたい。
『長瀬……』
興奮で震える手を自分の胸に当て、自己紹介をする。レオニダスに初めて会った時、つい苗字を名乗ってしまってそのままだったけれど、もうナガセが馴染んでいるからいいかな?
下の名前を名乗るか迷っていると、エーリクは私の手を取って、キラキラの瞳を益々キラキラさせ興奮した様子で鼻息荒く何か言った。
「僕が面倒見てあげるからね!」
エーリクの後ろで、レオニダスが肩を揺らしてクツクツと笑っている。
「エーリク、ナガセは動物じゃないんだ」
「分かってます、伯父上。僕は困った人の手助けがしたいんです!」
「そうか、エーリクに任せるから、ナガセに色々教えてやるといい」
「はい!」
何か分からないけど、エーリクはふんすと鼻息荒く意気込んでいる。
レオニダスはずっと笑っている。笑顔もイケメン。
なんだか分からないけど、二人とも楽しそう!
私もつられてニコニコしちゃう。ていうか、この子は誰。十歳くらいかな? レオニダスの子供だろうか。
でも全然似てない。もしかして、こうやって小さな子を助けるのが仕事なのかな。
この子も私のように拾われた?
ああ、本当に言葉が通じないって困る。伝えたいことも聞きたいことも、たくさんあるのに。
私の名前も、本当は女ですってことも、助けてくれたお礼も、まだまだたくさん。
(……あ、そうか)
じゃあ、覚えればいいのか、言葉を。
こうして私はひとつ、この世界でやることを見つけた。
◆
バルテンシュタッド辺境伯領。
北の最果てに位置するこの辺境伯領には、防壁を守護する王国軍が駐在している。王国の北に広がる魔物が発生する森、深淵の森から這い出て来る魔物から、王国全土を護るのが役割だ。
日々魔物の討伐を行い死闘を繰り返し、人々の安寧を護り、貴族や平民といった身分差など一切関係のない実力主義の世界に身を置いている。彼らは騎士のようにこの国の王に忠誠を誓うのではなく、王国、ここに暮らす人々に忠誠を誓っている。
そんな軍隊を率いるのが、バルテンシュタッド辺境伯だ。
五年前、王弟である父が魔物の討伐で命を落とし、俺は二十四歳で叙爵を任ぜられ、バルテンシュタッド伯レオニダス・フォン・ザイラスブルク=バルテンシュタッド公を名乗っている。
幼い頃から父に鍛えられ、王国軍最強と謳われる辺境の将軍に相応しくあるべく、誰よりも強くあることを心掛け、昼夜問わず休むことなく兵たちを従えてきた。
そんな自分自身に唯一許している、一年に二日だけの自分の時間。
その日はオッテとウルを伴い、一人で深淵の森に入り一夜を過ごすことに決めていた。
これは、俺が十三歳の頃から続けていることだ。初めの頃は危険な目にも遭ったが、今では問題なく過ごしている。今回もいつものように森に入り、地形を調べるために歩いていたのだが。
まさか、生きた子供を拾うことになるとは思わなかった。
「それで?」
「……」
「その子、どこで見つけたの?」
ナガセを深淵の森で見つけ屋敷に連れ帰った翌日。
砦にナガセを連れて執務室に向かうと、既に防壁の衛兵から話を聞いたであろうアルベルトが執務机に寄り掛かりワクワクした様子を隠さず待っていた。
脇を通り抜けオッテとウルは窓際のクッションに陣取り、寛いでいる。
「東の丘辺りだ。魔物に追われていた」
「へぇ、ウルを見つけた辺りだね。レオニダスが子供を連れてきたって聞いて驚いたよ!」
アルベルトは入り口の前でじっと立っているナガセに視線を向けた。その表情はキラキラと輝き、ナガセに対する好奇心が抑えられずにいる。
「ナガセ」
声を掛けると、入り口で立ったままのナガセがピクリと肩を揺らした。
ソファに座るよう促すと、ソロソロとソファに近づきそっと腰を浅く下ろす。警戒しているのか、白いニット帽を目深に被りきょろきょろと辺りを見渡す様子は怯える幼い子供そのものだ。
「ナガセっていうの? 変わった名前だね。僕はアルベルト。かわいいね、なんか拾われた猫みたい。拾ったんだけど」
「言葉が通じないぞ」
「そうか! なんか珍しい顔立ちだなとは思ったけど、そうか、益々庇護欲が増すね?」
アルベルトはニコニコと笑顔を崩さないまま俺に視線を投げる。
「魔物に追われているのを反射的に助けたが、まさか子供だとは思わなかった」
「危機一髪だったわけだ。十二、三歳……もう少し年上かな? どうやって入り込んだのかな。防壁に穴でも開いてる? 親に捨てられたとか。身元を調べないとね。この国に入国した人間から調べるかな……」
あれこれ思考を巡らせ始めたアルベルトを無視して、ナガセの向かいに腰を下ろす。不安げな表情でこちらを見つめるナガセに向かって、安心させるように口の端を少し上げてみせた。
「大丈夫だ」
「だいちょうぷ」
ナガセは膝の上で手を握り締め、眉根を寄せて真剣な表情でコクンと頷く。正確な意味は分かっていないはずだが、それでもこの言葉を伝えると少し安心したような顔をする。
その顔を見てもう一度、ナガセに向けて微笑んだ。
魔物に怯え言葉も通じないこの少年がなぜあんな場所にいたのか、昨夜からずっと考えていた。
防壁は森からの侵入に対しては鉄壁の守りを固めているが、反対に出て行く者に対する警戒が薄い部分がある。
犯罪者が一時的に身を隠すために逃げ込むこともあれば、自ら命を絶とうとする者、生活に苦しくなって子を捨てる者。そんな者たちが衛兵の目をかいくぐり防壁の向こう、深淵の森へと向かう。
そして皆、一晩と持たずに魔物の餌食となる。
はじめはナガセもそれらに巻き込まれたのかと思った。
だが、ナガセは不自然なほど清潔感がある。身に着けている物は見たことのない物ばかりだが、決して安価ではなさそうだ。健康面でも、魔物に襲われ顔色が悪かったものの、生活に窮している様子は見られない。白く長い指は爪に至るまで手入れされて美しく、労働者の手ではない。
それに、思い浮かぶのはナガセの色。
この国では見たことのない漆黒の髪。
耳が見えるほど短く切られた髪は手入れがされているのか、濡羽のように艶やかに光り、目にかかるくらいの長さの前髪がサラサラと揺れる。
その向こうに見える黒曜石のような輝きを持つ双眸。少し切れ長で大きな瞳を涙で濡れた長いまつ毛がぐるりと囲み、神秘的な顔立ちをしている。
白く細い手首は、力を入れたらすぐに折れてしまいそうだった。
素直に、美しい顔をしている少年だと思った。
今目の前にいる男――乳兄弟のアルベルトも王国一の美しさを持つと言われている。
金髪に紫と濃紺のオッドアイを持つこの男は絵本の中の王子様然としていて、王都へ行くと貴族の令嬢のみならず老若男女、この男の美貌に酔いしれる。
幼い頃は好色どもが近付いてきてアルベルトは何度も危ない目に遭っていた。乳兄弟を守るのは自分しかいないと、拳を振り剣を振ってよく追い払ったものだ。
見慣れた自分にはアルベルトが美しいのか最早よく分からないが、ナガセのように見た目の色が珍しい上に、身寄りのない少年が好奇の目に晒されるのは想像に難くない。好色の金持ちに目を付けられ、餌食になりかねない。
一度その考えに囚われてしまっては、もう自分が連れ帰って保護することしか考えられなかった。幸い、屋敷には死んだ妹夫婦の息子がいる。まだ八歳だが、大人しか身の回りにいないあの子にとっていい刺激になるかもしれない。
それに、自分が保護すれば疾しい人間が近づくこともまずないだろう。
自分の庇護の下、言葉が分からないなら覚えさせ、自立できるように手助けすればいい。自分にできる仕事を見つけさせ、この国で生きていく術を身に付ければいい。
そうやって拾った責任を取ろう。身体を震わせ声を殺して泣いた、この子のために。
本当はナガセをどこで見つけたかなど、自分の胸の内にしまっておけばいいのだ。
アルベルトがぶつぶつと独り言を言っている間に、執務室の扉をノックする音が響いた。
「入れ」
「失礼します」
返事をすると、赤い髪の軍服を着た男が背中を丸めワゴンを押して入って来た。ワゴンには茶器とサンドイッチなど、軽食が載せられている。
「クラウス、ありがとう」
アルベルトが片手を上げてワゴンを置く場所を指し示す。
「侍女を入れるなということでしたので私がお持ちしましたが……」
「いいよいいよ、自分でやるから」
アルベルトはワゴンから手際よくサンドイッチやお茶をテーブルに並べ、レオニダスの隣に腰掛けた。
「閣下、お帰りなさいませ」
クラウスは胸に手を当て礼を取り、ちらりと視線だけソファに座るナガセに向けた。クラウスをじっと見ていたナガセがびくっと身体を小さく跳ねさせ、慌てて視線を逸らす。
「それで今回は……この子供ですか」
「今回の拾い物だよ。ナガセっていうんだって。可愛いよね」
「……ついに人間ですか」
「拾い物じゃない、保護したんだ。身元を調べる間は俺が面倒を見る」
クラウスが眉根を寄せた。
「それは……身元の分からない人間を領地内に留め置くということですか?」
「他国の間諜の可能性も考えられるだろうが、言葉も通じない上にこんな目立つ容姿では不向きだ」
「目立つ容姿?」
「ナガセ」
向かいに座りじっとテーブルの上を見つめていたナガセに向かって帽子を取るよう促すと、慌てて白いニット帽を脱いだ。
現れたナガセの艶やかな黒髪とその顔貌に、アルベルトとクラウスが息を呑む。
「――魔の色」
クラウスがぽつりと呟くのをアルベルトは視線で黙らせた。クラウスは口にしてしまったことを自分で驚いたのか、さっと顔を伏せる。
「……なるほどね。これは、生きていくのが大変だ」
アルベルトはびくびくと怯えるような様子のナガセにふっと優しく笑みを見せた。
そう、黒色は魔物の色だ。昔から人々に恐れられている魔の色、不吉の象徴であり災いを齎す色。クラウスの反応は、ここで暮らす者なら誰もがする当然の反応だ。
「俺がナガセを保護する」
そんな容姿を持つナガセを保護しなければ、これからどんな目に遭うか。それを思うと、俺にはこれ以外の選択肢は考えられなかった。
文句はないな、と二人に無言で問えば、アルベルトが深いため息を吐いてソファに背中を預ける。
「なるほどね……確かにこれじゃあ間諜は考えられないね。言葉も通じない上に見た目の珍しさも相まって、色々考えた結果レオの庇護欲が目覚めたんだね」
「おい、変な言い方をするな」
「じゃあ父性?」
クラウスがなるほど、と一言呟く。
「オッテとウルみたいな感覚ですか? 動物とは違いますよ」
「お前たちは俺をなんだと思っているんだ?」
いつものように軽口を叩く二人は、間違いなく俺の部下のはずなのだが。
怒鳴りそうになったが、不安そうに座ってじっとしているナガセを怖がらせまいとグッと言葉を呑み込み、耐えるように目を瞑る。
「それにしても、綺麗な顔をした子だよね。人攫いの被害者かな」
「入国記録を調べて他に行方不明者がいないか調査します」
「人買いの組織が動いている可能性もある。他の被害者もいるかもしれないから、慎重に」
「はい」
俺の言葉にクラウスがすっと背筋を伸ばして頷いた。
「ところで面倒見るって、レオの屋敷で? エーリクはどうするの?」
アルベルトが未だソファに座るナガセをじっと観察したまま、口を開いた。ナガセは居心地悪そうに視線を泳がせている。
「屋敷には大人しかいないからな、エーリクにとってもいい刺激になる」
「随分ナガセのこと買ってるね? 知らない人間を簡単に側に置いていいの?」
「ナガセが演技をしているとしたら大したものだが、ここに来るまでの様子からまずそれはないだろう。大体うちの屋敷の人間はほとんど軍部出身者だ。子供が一人増えたところで、エーリクに危険が及ぶことはない」
「ふうん?」
アルベルトは意味ありげな声を出し俺を見た。
「なんだ」
「別に。僕もナガセは間諜とかそういうんじゃないと思うよ。だから早く身元を確かめてあげて、帰る場所があるなら帰してあげたいなって思ってさ」
「……そうだな」
「あ、ほらナガセ、これ食べなよ美味しいよ~」
アルベルトは会話に全くついていけず居心地悪く座っているナガセに、慣れた手つきでお茶を淹れた。ほら、と俺の前にもカップを置く。
ナガセに見せるようにサンドイッチを掴んで食べると、恐る恐るサンドイッチに手を伸ばした。食べてみると思ったより空腹を感じたのか、夢中になって食べはじめ、お茶も口に運ぶ。美味しいらしく、頬を染めながら食べている。
そんな様子をアルベルトは膝に頬杖をつきながら眺めていた。
「……所作は綺麗だけど貴族のとは違うね。でも労働者には見えない。身に着けてる物は高価そうだけど、お金持ちの家の子かな? 商家とか」
アルベルトの言葉に、クラウスがなるほど、と呟いた。
「確かに、それなら珍しい品を身に着けていても不思議ではないかもしれません。ズボンの形が変わっていますね。随分細身のデザインですが、この色は藍染でしょうか」
「にしても可愛いなあ。警戒心いっぱいだったのに餌付けされちゃって、本当、拾って来た子猫みたいだね、お父さん?」
「うるさい」
「砦や教会に任されないのですか?」
クラウスは未だに身元の不確かな人間を置くことに抵抗があるようだ。その気持ちは分かるが、必要以上に警戒をすれば、ナガセがこちらを信じてくれなくなるかもしれない。
「教会といってもあそこの神父は通いで日中しかいない。夜間に子供を一人にするわけにはいかないし、かといって砦に手の空いている者などいないだろう。だが屋敷であれば使用人も多くいるから様子を見るのに人の目があっていいだろう。クラウス、ナガセに丁度良さそうな着替えを何着か倉庫から見繕ってきてくれ」
「分かりました」
クラウスにそう指示をすると、頬杖をついてナガセを観察していたアルベルトが驚いた表情で俺を見た。
「え、着替えって、うちの兵士の?」
「そうだ。配給する着替えで予備があるだろう。サイズは大きいかもしれんが、ないよりはマシだ」
「ええ? 大きいどころじゃないし、兵士の配給品って……」
「それでは私の実家から、弟たちのもう着ない物をいくつか見繕ってきます」
「え、クラウスも?」
アルベルトは俺とクラウスの顔を交互に見ると、天井を仰いではあ~っと大きく息を吐き出し片手で目を覆った。
「そうかあ」
「なんだ」
「……いいや? ただちょっと、自分のギフトを思い出しただけ」
そう言うとアルベルトは身体をグッと前に起こし、お茶を飲んで一息つくナガセの顔を覗き込んだ。その距離に驚いたのか、ナガセが身体を固くする。
「ナガセ、楽しくなりそうだね」
王国一と言われる美貌の男は、それは楽しそうに、キラキラと満面の笑みを浮かべた。
ナガセはぴたりと固まったまま、じっとアルベルトの顔を見つめていた。
◆
(あんまり眠れなかったな……)
レオニダスのお屋敷に来てから三日目の朝。
無理やり瞑っていた目を開けると、窓の外はまだ薄暗く、青灰色の空がカーテンの隙間から見える。横たわったまま朝のお風呂に入ろうか迷っていると、ノックの音が響き慌てて飛び起きた。
扉を開くとあのロマンスグレーのおじさまが無表情で立っている。
(おはようございますってなんて言うのかな)
なんて言ったらいいのか分からず黙っていると、おじさまは私に部屋を出るように促した。廊下に出ると、ウルが廊下の奥から駆けてきて、足元にまとわりつく。
『ウル! おはよう、来てくれたの?』
しゃがんで首をわしわしと撫でると、ちぎれんばかりに尻尾を振る。かわいい。
そんな私たちを黙って見つめていたおじさまの視線に気がついて、慌てて立ち上がる。おじさまは私についてくるよう手招きし、私はウルと一緒にあとをついて行った。
(食堂、かな?)
一階の奥にあるそこは、使用人たちが集まり食事をする部屋だった。大きなテーブルに皆で座り、思い思いに食事を取ったり話をしたりしている。
室内に入ると私の姿を見て急に話し声がぴたりと止んだ。チラチラと向けられる視線の中、おじさまに指し示された席に腰を下ろすと、嫌そうに顔を顰める人、逃げるように退室する人がちらほらいて、どきりと心臓が嫌な音を立てる。
ウルがテーブルの下で私の足元に寄り添うように座った。
一人テーブルに着き黙って目の前のお皿を見つめ手を出せずにいると、そんな私を遠巻きに見てひそひそと何かを話す人たち。言葉が分からないから、何も分からない。
私のことを話しているのかどうかも分からなくて、不安に押しつぶされる。
(私、何か変なのかな)
ずしりと胃が重くなり、何も喉を通らない。
昨日はレオニダスに連れられて大きな建物に行った。みんな同じ黒い制服を着ていて、多分軍隊とかそういうのだと思う。
レオニダスの姿を見て敬礼する人ばかりで、レオニダスがどうやら偉い人なのだということが分かった。一緒に部屋に入ると、そこには金髪のものすごいイケメンがいて、笑顔で出迎えてくれた。
(すっごい見られてたな)
その人はずっと笑顔で私のことを観察していた。
左右瞳の色が違うオッドアイで、紫の瞳なんて初めて見たけれどとても綺麗で、じっと見られていたけれど嫌な感じがしなかった。アルベルトさんというらしい。すごくイケメンでイケメン過ぎて現実味がないというか。俳優さんとか? なんかオーラが違う。
でも私のことを歓迎してくれているようだった。レオニダスと気さくに話している様子で、二人の仲の良さが窺えて、何も分からなかったけれど居心地は悪くなかった。
(今日もまたあそこに行くのかな)
いつまでここで知らない人たちの視線に晒されるんだろう。
泣きそうになる気持ちをぐっと堪え座っていると、ふと窓の外にレオニダスの姿が見えた。
真っ黒な制服とマントを身に纏い、オッテを連れてまだ早朝の冷たい空気の中、白い息を吐きだして歩くその姿に、心臓が跳ねた。
(待って、どこに行くの⁉ 置いていかないで!)
部屋を飛び出しレオニダスのいた場所へ急いで向かうと、私の姿を見たレオニダスが目を見開いた。私を追いかけてきたおじさまに何か言っている。少しだけ困ったような顔をしたレオニダスが、私の頬をそっと親指で撫でた。その仕草に、顔が熱くなる。
(どこに行くんだろう、私は一緒に行ったら駄目?)
でもこの思いを伝える言葉を私はまだ持っていない。
ねえ、どうして私を見て嫌そうな顔をする人がいるのかな。レオニダスはそんなことしないのに。
エーリクやアルベルトさんみたいに親切な人もいるのに。
何が違うの? 何も分からなくて、不安で仕方ない。
レオニダスは少し困ったような表情で私の顔を覗き込み、何かを言った。その中に何度か「エーリク」という言葉が混ざる。
(エーリクといろってことかな)
ひとつだけ頷いてみると、レオニダスはふっと口元を緩め、今度は大きな掌で私の頬をそっと包み込んだ。ぶわっと顔が熱くなり、その優しさに泣きそうになる。
(私も一緒に行きたい。……一緒にいたい)
これはきっと、知らない場所で一人でいる私の、不安な気持ちの表れなんだろう。優しくしてくれるレオニダスの側にいて、安心したがっているだけなのだ。
ぎゅうっと胸が苦しくなる。
心細いだけ、一人が辛いだけ。こんなことで迷惑をかけては駄目。
呪文のようにそんなことを心の中で繰り返しているうちに、レオニダスはさっと馬に跨り、まだ青白い早朝の景色の中へ駆けていってしまった。
レオニダスを見送り、おじさまにさっきの部屋に連れ戻されると、食堂にはもう誰もいない。一人席に着き、冷めたスープを少しだけ口にする。
味は、感じられなかった。
「エーリク!」
「ナガセ、おはよう!」
朝食を終え、おじさまに連れられていった部屋に、たくさんの本やノートを用意したエーリクが大きなテーブルに座って私を待っていてくれた。
(わわ、かわいい!)
今日もやっぱりかわいい天使さま、エーリク。私を見て笑顔で「おはよう」と言う。
よかった、嫌な顔をされない。そう思っただけで、泣きそうだった気持ちが軽くなる。
エーリクの真似をして「おはよ」と言うと、エーリクはパチパチと手を叩いて笑った。
かわいい!
「おはようございます、だよナガセ」
「おはよ、ごじゃ……」
「おはよう、ございます」
「おはよごじゃす」
「上手!」
日中の時間はずっとエーリクが私と一緒にいてくれて、優しく楽しく色んなことを教えてくれて、笑顔を見せてくれて。ウルはずっと私に寄り添い、その温もりを分けてくれた。
(優しい人たちだな)
その温かさに、じんわり心が溶けていくようだった。
夜。夕食の時間になり、朝とは違う広い部屋に通された。
室内には大きなテーブルが置かれ、エーリクが一人で座っていた。
私の姿を見て嬉しそうに頬を染める。かわいい。テーブルのセンター席には誰もいないけれどお皿が並べられていて、きっとレオニダスの席なんだと思う。
ロマンスグレーのおじさま、もとい、ヨアキムさん(昼間に教えてもらった)は私をエーリクの席の向かいに座らせてくれた。もうお料理は並んでいて、エーリクが私に食べるよう促している。
(レオニダスはどうしていないの?)
仕事に行ったんじゃなかったのかな。でもテーブルにお皿があるってことは帰ってくるんだよね。忙しいのかな?
じっとお皿を見つめていると「ナガセ」とエーリクが優しく声を掛けてくれた。
「ナガセ、伯父上は仕事で遅くなるから先に食べよう。大丈夫だよ」
「だいじょぶ」
「そう、大丈夫。温かいうちにいただこうね」
エーリクはぱくりと小さくカットしたお肉を口に運び、嬉しそうに頬を染める。
だいじょうぶって言った。それはきっと『大丈夫』なんだと思う。ほら、と私を促すエーリクを見てお皿のお肉を口に運ぶと、彼は嬉しそうに笑った。
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