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最終章 深淵
白い沼
しおりを挟む――ワンッ
ウルの声が聞こえる。
眩しくて瞑っていた目を恐る恐る開けると、目の前は真っ白な世界が広がっていた。
でも雪ではない。
足は雪に埋もれていないし寒くなく、ただ白い空間が広がっている。
声のした方を向くと、ウルがこちらを見て尻尾を振っていた。
「ウル!」
駆け寄りその身体を抱き締める。
「ウル、心配したんだよ、ウル!」
ウルの温もりに涙が出てくる。
フンフンと私の顔や頭の匂いを一通り嗅いだウルは服の裾を噛んでグイッと引っ張った。
「何?」
私から離れ少し進み、振り返る。
着いて来いってこと?
私はウルを追って歩き出した。
真っ白な空間を進み、どのくらい歩いているのか分からない。
でも、ウルは迷いなく進む。
ウルの後をついて進んでいると、やがて先に、何か黒い点が見えて来た。
どんどん近付いてくるそれはやがて、人が座っているのだと分かった。
女の人だ。
明るい栗色の艶やかな長い髪、深緑色のドレスを着てる。一心に何かを見つめているその横顔はどこかで見た事がある気がして、無意識に呼び掛けた。
「あの、すみません」
ビクッと身体を大きく揺らしてその人はこちらを見た。溢れそうな程大きなエメラルドの瞳が真っ直ぐ私を見つめる。
「……あなたは」
エーリクと同じ瞳を持つこの人は。
「…ナガセ?」
「…ラケルさん?」
同時に声に出すとなんだかおかしくなってきて、クスクスと二人で笑い合った。なんだか昔の知り合いにあったような、くすぐったい気持ちが去来する。
「…はじめまして」
「いいえ…私は初めてではないのよ。ずっと貴女達をここから見ていたから」
「ここから?」
「そう。貴方とレオニダスのことも、アルベルトのことも。辺境のことも。貴方が…私と同じ世界から来たのも知っているわ。でも今は何も見えなくなってしまった…」
そう言ってラケルさんはまた視線を下に落とす。
座り込んで覗いているそれは、白い円形の水盆。
「それは何ですか…?」
「さあ? 分からないわ。知りたいと思ったら目の前に現れたの。もう、何でもありよね」
そう言ってクスクス笑う。
「……ラケルさん、ここは何処ですか」
「分からない。何処かしら…」
ラケルさんはぼんやりと何も入っていない水盆を見下ろし、ため息を吐いて虚な瞳を閉じた。
「ラケルさん私、帰らないと…どうしたら」
「帰る? 何処へ?」
ゆらりと立ち上がり目の前まで滑るように移動して来るラケルさんは私より小さくて、この身体でレオニダスとエウラリアさんを出産したんだな、とぼんやり場違いな事を考えた。
「私も、何度も何度も帰ろうとしたわ。ここから出ようとした。私の…私のエウラリアが死んだ時も、ジークムントが死んだ時も……一緒に行きたかった」
声を震わせ両手で顔を覆う。その白くて細い指も、全てがまるで作り物のようで。
「私はここから動けない。ここでずっと、皆が成長し日々を過ごしているのを見守るだけ」
「何故ですか?」
「……何故?」
「何故ここに一人でいなくてはならないの?」
「…聖女だから、かしらね」
「それは…違います」
「違う?」
「だって…だって、私たちにはギフトなんてないんですよ?」
「あるわ。…貴女にもあるでしょう?」
「いいえ…ありません」
私のギフトを音楽だとみんなが言うけれど、それは違う。
私は音楽が好きで、上手くなりたくて、音楽と向き合い努力をして来た。たくさん練習をして、みんなに聴いてもらうことに喜びを感じていた。
その好きなことを今この世界でも活かせているだけ。
「私たちは違う世界から来ただけです。彼等とは違う。聖女の意味だって、本当はよく分かってないのに」
「でも私は呼ばれたのよ。あのスタンピードが起こった日、彼等を助けるために。私がここに来ることで魔物はいなくなったでしょう? これが私の役割だったのよ」
「呼ばれた?」
「そう。…貴女には聞こえなかった?」
そう言うとラケルさんはまた水盆の側に移動した。何も映さない水盆を見下ろして、ため息を吐く。
「……じゃあ、どうして今また魔物が現れたんですか?」
「そうね…私もそろそろ、彼方へ行けるのかもしれないわね…」
ラケルさんのエメラルドの瞳はどんよりと曇天のようにほの昏い。
「ラケルさん…、ここはラケルさんの居場所じゃない。一緒に行きましょう」
「一緒にですって?」
驚いた顔をこちらに向けたラケルさんは私より少し上くらいの年齢に見える。
「そうです。私たちは違う世界から来ただけ。ここに居ても何も出来ないんです」
「私がここから居なくなる事で更に悪化するかもしれないわ」
「そんなの間違ってます。ラケルさんの犠牲の上に成り立つ平穏なんて」
「犠牲はつきものでしょう。兵士たちだって自分を犠牲にして戦ってるわ」
「犠牲になんかしてません! みんな、守りたいものがあって戦ってるんです」
「…私も守りたいと思ったわ」
「聖女だから?」
「……そう……いいえ、違う…。私にも何か出来る事があるんじゃないかと、…ジークを…子供たちを、助けたいと…」
「でもだからって、ここにずっと一人でいるのは何故ですか? ここからみんなの様子を見て、それから? ラケルさんはこれからどうしたいの?」
「…これから…?」
「そうです…。一緒に行きましょう、ラケルさん。そして一緒に考えましょう」
「……いやよ」
「ラケルさん」
「いやよ、絶対にいや…。ジークのいない世界なんて…!」
「ずっとここに一人でいても何も変わりません。大切な人はいなくなったかもしれないけど、まだ貴女を大切に思ってる人もいる。辛くても自分で選んで、大切な人への思いを抱いて、みんなそうやって前に進んでいるんです」
「貴女に何が分かるの!?」
「分かります!」
涙を流すラケルさんの手を取り顔を覗き込む。
「……その気持ちは、分かります…。一人でいることの苦しみも、よく分かります」
聞きたくない、と言うようにラケルさんは顔を逸らす。
「でも、ここに一人でいてもその苦しみは何も癒えません。人の暖かさに触れて、思い出を共有している人たちと分かち合って少しずつ前に進むんです」
ジークムントさんだって苦しかったはず。
レオニダスもエウラリアさんも、そしてお義兄様も。みんなみんな、ラケルさんがいなくなってしまった事を悲しんでいた。だけどみんな前を向いて人生を歩んでいる。
「ジーク…、ああ、ジーク…」
はらはらと涙が溢れ、深緑のドレスにパタパタとシミを作っていく。
「私は…どうして森に行ったのかしら…アルベルトと一緒にいるべきだったのに…」
ずぶり、と足下が沈む感触があった。
見ると沼のようになった白い地面にズブズブと足が埋まっていく。
「ラケルさん!」
ラケルさんの手を取り引っ張る。いつの間にかラケルさんは膝下まで埋まっていた。
やがて真っ白だった空間がゴオゴオと音を立てうねるように歪み始めた。
「ジークは死んでしまった…私のエリーも…私のせいだわ、私が森になんか……」
「ラケルさん!お願い、こっちへ!!」
ラケルさんの悲しみに呼応するように周囲に風が巻き上がり顔を冷たい雪が叩きつける。どんどん沈んでいくラケルさんの手を両手で掴み呼びかけ続ける事しか出来なくて。
自分の足元も沈んで来て、非力さに涙が浮かんだその時。
「カレン」
その時、ふわりと後ろから抱き締めたその人は。
「レオ、ニダス…」
優しい森の香りのする、私の愛しい人、その人だった。
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