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第97話 心の緩み
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「最近、お嬢様は何でも召し上がってくださいますね。昔は好き嫌いが多かったのに」
料理長のオルコットさんが昔を懐かしみながら、感心したように言った。
そうね。あなたのお料理を食べられるのも、あと少しだから。あなたの全ての料理を心に刻みつけておきたいの。
そんな心を隠して私は冗談っぽく笑みを返す。
「ええ。わたくしも成長したということかしら」
「もうすぐご卒業ですからな。あの小さかったお嬢様が、私の料理でここまで御立派に成長されたかと思うと誇らしいです」
「あら、自意識過剰だこと! でも確かに腕を上げたのでは?」
「お。分かりますかな。私は日々進化する男ですからね。これからも進化し続けますよ!」
がはははと豪快に彼は笑った。
つらい時はとても長いのに、楽しい時はいつだって時間が過ぎるのは早い。
穏やかで麗らかな陽気の季節が過ぎ、肌を焼き付くそうとせんばかりの熱い日差しの時期を経て、いよいよ卒業の日まで残すところあと五日と差し迫り、校内も卒業イベントなどで慌ただしくなっていた。
卒業式後に行われるパーティーの舞台は、卒業生を除く在校生が一丸となって作り上げるのが恒例となっているからだ。
ダンスも披露されるパーティー会場への入場は卒業生が主となるけれど、下級生でも自由に参加することが許されている。ただし、あまりにも参加者が多いと人数制限も行われることだろう。
今年は殿下と私との婚姻の正式発表がここで行われるのではと、まことしやかに囁かれているので、例年に比べて参加者が増えそうな予感はする。
「ローレンス様! ご卒業日には必ず皆で伺いますね!」
「……まあ。ありがとうございます」
「ええ。絶対に行きます!」
「楽しみー。ローレンス様のドレス姿素敵でしょうねぇ」
卒業を祝ってくれるのか、婚姻の噂を耳にしたのか分からないけれど、勉強会で出会った後輩たちから興奮した様子で言われたことを思い出す。
「あのぉ。僕も今年で卒業だからね。できれば僕も一緒に卒業を祝ってほしいんだけどなあ。一応、この勉強会の立ち上げ人だし」
情けなそうに眉を下げてムラノフさんが言うと、皆はどっと沸いたっけ。
そんな彼らの気持ちが嬉しい反面、切ない気持ちにもなる。期待を裏切ってしまうことになるから。
けれど彼らの手前、せめて無様に泣き崩れずに最後まで気高く立っていなければとこれまで以上に思った。
迫る期限にどこか焦燥感のようなものと、何度繰り返しても、何度覚悟を決めていたと言っても、抑えようとしても収まらない動揺の中で揺れていた。
あまりにも誰もが忙しなくて人の動きが激しいからか、思いの外、長く続いたのどやかさにいつの間にか緊張感が欠如してしまったのか、私はすっかり頭から抜け落ちていたのだ。
――エミリア嬢が階段から突き落とされるという事件のことを。
それは階段を一段、二段下った頃だっただろう。背後に気配を感じたかと思うや、力強い手で背中を押されて体勢を崩す。
片足を下ろそうと浮かせていた時に起こったそれは対処のしようがなくて、身体は前へと勢いよく投げ出され、後はけたたましい音と共に踊り場まで落下するだけだ。
その瞬間は短くも長くも感じられたかもしれない。
尋常ではない激しい音は周辺の人間に異変を気づかせ、誰かの空気を切り裂くような甲高い悲鳴と共に大勢の人が駆け寄ってきたに違いない。
「だ、誰か! 早く先生を呼んで来い! は、早く急げっ!」
きっと頭も打っただろう。しかし朦朧とする頭で身体中の痛みは麻痺していても、耳にはまだ緊迫した様子のざわめきや声が、いくつもの人の足音が届くものだ。
「おい、どういうことだ! 何が、何があったんだ!」
「で、殿下! ど、どうやら階段から落ちたようです」
「――っ!」
殿下は見下ろしたその現状に思わず息を呑んだのだろうか。青ざめたのだろうか。
身体に触れるために膝を折り、声がより近くなったのだろう。
「おい! 聞こえるか! 大丈夫か!」
階段から落ちて大丈夫なわけがなかろうと思う。声も出せないで人が倒れている状況で、そんなことしか言えないのが殿下の殿下たる所以だ。
私にとっては想定内だけれど、他の人が言われたらきっと怒り心頭であろう。
「しっかりしろ! ヴィ――ヴィヴィアンナ! ヴィヴィアンナ!」
……ああ。そうか。
きっと後ろ姿でエミリア様と間違って私が落とされたのね。前に私に間違われて、水桶を落とされたことがあったもの。今回は逆に私がエミリア様と間違えられた。
ああ。でも良かった。
未然に事件を防ぐことができて良かった。
エミリア様が無事で本当に良かっ…………。
料理長のオルコットさんが昔を懐かしみながら、感心したように言った。
そうね。あなたのお料理を食べられるのも、あと少しだから。あなたの全ての料理を心に刻みつけておきたいの。
そんな心を隠して私は冗談っぽく笑みを返す。
「ええ。わたくしも成長したということかしら」
「もうすぐご卒業ですからな。あの小さかったお嬢様が、私の料理でここまで御立派に成長されたかと思うと誇らしいです」
「あら、自意識過剰だこと! でも確かに腕を上げたのでは?」
「お。分かりますかな。私は日々進化する男ですからね。これからも進化し続けますよ!」
がはははと豪快に彼は笑った。
つらい時はとても長いのに、楽しい時はいつだって時間が過ぎるのは早い。
穏やかで麗らかな陽気の季節が過ぎ、肌を焼き付くそうとせんばかりの熱い日差しの時期を経て、いよいよ卒業の日まで残すところあと五日と差し迫り、校内も卒業イベントなどで慌ただしくなっていた。
卒業式後に行われるパーティーの舞台は、卒業生を除く在校生が一丸となって作り上げるのが恒例となっているからだ。
ダンスも披露されるパーティー会場への入場は卒業生が主となるけれど、下級生でも自由に参加することが許されている。ただし、あまりにも参加者が多いと人数制限も行われることだろう。
今年は殿下と私との婚姻の正式発表がここで行われるのではと、まことしやかに囁かれているので、例年に比べて参加者が増えそうな予感はする。
「ローレンス様! ご卒業日には必ず皆で伺いますね!」
「……まあ。ありがとうございます」
「ええ。絶対に行きます!」
「楽しみー。ローレンス様のドレス姿素敵でしょうねぇ」
卒業を祝ってくれるのか、婚姻の噂を耳にしたのか分からないけれど、勉強会で出会った後輩たちから興奮した様子で言われたことを思い出す。
「あのぉ。僕も今年で卒業だからね。できれば僕も一緒に卒業を祝ってほしいんだけどなあ。一応、この勉強会の立ち上げ人だし」
情けなそうに眉を下げてムラノフさんが言うと、皆はどっと沸いたっけ。
そんな彼らの気持ちが嬉しい反面、切ない気持ちにもなる。期待を裏切ってしまうことになるから。
けれど彼らの手前、せめて無様に泣き崩れずに最後まで気高く立っていなければとこれまで以上に思った。
迫る期限にどこか焦燥感のようなものと、何度繰り返しても、何度覚悟を決めていたと言っても、抑えようとしても収まらない動揺の中で揺れていた。
あまりにも誰もが忙しなくて人の動きが激しいからか、思いの外、長く続いたのどやかさにいつの間にか緊張感が欠如してしまったのか、私はすっかり頭から抜け落ちていたのだ。
――エミリア嬢が階段から突き落とされるという事件のことを。
それは階段を一段、二段下った頃だっただろう。背後に気配を感じたかと思うや、力強い手で背中を押されて体勢を崩す。
片足を下ろそうと浮かせていた時に起こったそれは対処のしようがなくて、身体は前へと勢いよく投げ出され、後はけたたましい音と共に踊り場まで落下するだけだ。
その瞬間は短くも長くも感じられたかもしれない。
尋常ではない激しい音は周辺の人間に異変を気づかせ、誰かの空気を切り裂くような甲高い悲鳴と共に大勢の人が駆け寄ってきたに違いない。
「だ、誰か! 早く先生を呼んで来い! は、早く急げっ!」
きっと頭も打っただろう。しかし朦朧とする頭で身体中の痛みは麻痺していても、耳にはまだ緊迫した様子のざわめきや声が、いくつもの人の足音が届くものだ。
「おい、どういうことだ! 何が、何があったんだ!」
「で、殿下! ど、どうやら階段から落ちたようです」
「――っ!」
殿下は見下ろしたその現状に思わず息を呑んだのだろうか。青ざめたのだろうか。
身体に触れるために膝を折り、声がより近くなったのだろう。
「おい! 聞こえるか! 大丈夫か!」
階段から落ちて大丈夫なわけがなかろうと思う。声も出せないで人が倒れている状況で、そんなことしか言えないのが殿下の殿下たる所以だ。
私にとっては想定内だけれど、他の人が言われたらきっと怒り心頭であろう。
「しっかりしろ! ヴィ――ヴィヴィアンナ! ヴィヴィアンナ!」
……ああ。そうか。
きっと後ろ姿でエミリア様と間違って私が落とされたのね。前に私に間違われて、水桶を落とされたことがあったもの。今回は逆に私がエミリア様と間違えられた。
ああ。でも良かった。
未然に事件を防ぐことができて良かった。
エミリア様が無事で本当に良かっ…………。
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