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第9話 笑顔の仮面が剥がれた時
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その瞬間、目の前が、かっと真っ赤に染まった。
それはユーナが手に火傷をしながら作った物。殿下がお喜びになられるから一緒に作りましょうと言われて作った物。
私は嫌々だったけれど、少なくともユーナの心がこもっていた物だった。それをこの男は――。
私は顔から笑顔の仮面を落として立ち上がり、無言のまま殿下に近付く。
殿下は眉をひそめたが、私は無表情で彼の座る椅子に力を込めると一気に傾けた。
不意に行われた私の行動に殿下は反応できず、椅子ごと派手に転げ落ちる。
尻餅ついている殿下が驚きの表情で見上げるのを、私はただ冷たい瞳で見下ろしていたが、すぐに我に返った彼は怒鳴り声を上げた。
「何をする、無礼者!」
場がざわめき張り詰めた気がしたが、誰も、殿下側の侍従や陰で待機しているはずの近衛兵でさえ事態を見守るばかりで動こうとはしない。私の心もまた凍り付いたように静かで、先ほどの怒鳴り声に怯んだ時のように恐れなどなかった。
「どちらがでしょうか」
「あ!?」
「どちらが無礼者だと申すのです」
「ど、どちらがって」
初めて反抗した私にびっくりしたのだろう。殿下は咄嗟に反論せずにいる。
「この菓子は殿下のためにと侍女が心を込めて作ったものです。けれどお出しするまでには至らなかったのでわたくしの元に置いていたのです。それをわたくしが止めるのも構わず、意地汚く勝手に手出しされたのは殿下の方ですわ」
「なっ! よく――」
「第一!」
私は殿下の言葉をびしりと遮った。
「第一、これら食べ物がわたくしたちのテーブルに並ぶまでには、何人もの人の手や自然の力が関わっているのです」
いつかの人生で流刑された時、農耕に関わったことがあった。
生まれた時から銀のスプーンをくわえてのうのうと生きてきた自分には、想像を絶するような厳しい世界だったことを今でも覚えている。
人々は自然に生かされているが、同時に自然に全てを壊され、それでもなお明日を見据えて前向きに生きていくしかない。自然を前に、人間のちっぽけさと強さを痛感した瞬間でもあった。
「国はそんな自然や民に支えられて生かされているのです。それら全てをあなたは踏みにじったのですよ。国の頂点に立つ者としてあるまじき行為です。己の行為を恥じなさい!」
「――っ」
表情を強ばらせるが、反論の様子がない殿下をもう一度強く見据えると、私は辺りを見回してアイラを呼んだ。
「アイラ!」
「は、はい! ただいま!」
誰かに止められていた様子のアイラだったが、私の声で慌てて駆けつけてきた彼女に続いて言う。
「殿下を起こしてさしあげて。お帰りよ」
「で、ですが」
「お帰りよ!」
はねつけるように言うとさすがの彼女もこの時ばかりは狼狽したが、私の気持ちは揺るがないと踏んだのか、お見送りいたしますと言って殿下を起こして促した。
「ごきげんよう、殿下」
私は殿下に背を向けたまま挨拶だけはしたが、彼から返事は無かった。
しばらくして人の気配が無くなった頃、私は殿下が踏みつぶしたクッキーの元に跪いてハンカチを広げると丁寧に拾い始めた。
踏みにじられて粉々になったクッキーが、まるで惨めに捨てられた自分と重なったような気がしたからだ。
するとすぐ横に同じように跪く人の気配を感じたので、そちらを見ると、ユーナだった。
「……ユーナ」
「ヴィヴィアンナ様」
彼女が遠慮がちに背中に温かい手を置いてくれた。
泣くつもりなどなかったのに、なぜか溢れ出て止まらない雫でいくつも地面を濡らす。
「ヴィ、ヴィヴィアンナ様! わたくしのために申し訳ございませんでした!」
「ごめ、ね」
「そ、そんなわたくしのことなど!」
ごめんね。ユーナ。優しくしないで。
私は酷い人間。
だって私はきっと私のためだけに泣いているのだから。
それはユーナが手に火傷をしながら作った物。殿下がお喜びになられるから一緒に作りましょうと言われて作った物。
私は嫌々だったけれど、少なくともユーナの心がこもっていた物だった。それをこの男は――。
私は顔から笑顔の仮面を落として立ち上がり、無言のまま殿下に近付く。
殿下は眉をひそめたが、私は無表情で彼の座る椅子に力を込めると一気に傾けた。
不意に行われた私の行動に殿下は反応できず、椅子ごと派手に転げ落ちる。
尻餅ついている殿下が驚きの表情で見上げるのを、私はただ冷たい瞳で見下ろしていたが、すぐに我に返った彼は怒鳴り声を上げた。
「何をする、無礼者!」
場がざわめき張り詰めた気がしたが、誰も、殿下側の侍従や陰で待機しているはずの近衛兵でさえ事態を見守るばかりで動こうとはしない。私の心もまた凍り付いたように静かで、先ほどの怒鳴り声に怯んだ時のように恐れなどなかった。
「どちらがでしょうか」
「あ!?」
「どちらが無礼者だと申すのです」
「ど、どちらがって」
初めて反抗した私にびっくりしたのだろう。殿下は咄嗟に反論せずにいる。
「この菓子は殿下のためにと侍女が心を込めて作ったものです。けれどお出しするまでには至らなかったのでわたくしの元に置いていたのです。それをわたくしが止めるのも構わず、意地汚く勝手に手出しされたのは殿下の方ですわ」
「なっ! よく――」
「第一!」
私は殿下の言葉をびしりと遮った。
「第一、これら食べ物がわたくしたちのテーブルに並ぶまでには、何人もの人の手や自然の力が関わっているのです」
いつかの人生で流刑された時、農耕に関わったことがあった。
生まれた時から銀のスプーンをくわえてのうのうと生きてきた自分には、想像を絶するような厳しい世界だったことを今でも覚えている。
人々は自然に生かされているが、同時に自然に全てを壊され、それでもなお明日を見据えて前向きに生きていくしかない。自然を前に、人間のちっぽけさと強さを痛感した瞬間でもあった。
「国はそんな自然や民に支えられて生かされているのです。それら全てをあなたは踏みにじったのですよ。国の頂点に立つ者としてあるまじき行為です。己の行為を恥じなさい!」
「――っ」
表情を強ばらせるが、反論の様子がない殿下をもう一度強く見据えると、私は辺りを見回してアイラを呼んだ。
「アイラ!」
「は、はい! ただいま!」
誰かに止められていた様子のアイラだったが、私の声で慌てて駆けつけてきた彼女に続いて言う。
「殿下を起こしてさしあげて。お帰りよ」
「で、ですが」
「お帰りよ!」
はねつけるように言うとさすがの彼女もこの時ばかりは狼狽したが、私の気持ちは揺るがないと踏んだのか、お見送りいたしますと言って殿下を起こして促した。
「ごきげんよう、殿下」
私は殿下に背を向けたまま挨拶だけはしたが、彼から返事は無かった。
しばらくして人の気配が無くなった頃、私は殿下が踏みつぶしたクッキーの元に跪いてハンカチを広げると丁寧に拾い始めた。
踏みにじられて粉々になったクッキーが、まるで惨めに捨てられた自分と重なったような気がしたからだ。
するとすぐ横に同じように跪く人の気配を感じたので、そちらを見ると、ユーナだった。
「……ユーナ」
「ヴィヴィアンナ様」
彼女が遠慮がちに背中に温かい手を置いてくれた。
泣くつもりなどなかったのに、なぜか溢れ出て止まらない雫でいくつも地面を濡らす。
「ヴィ、ヴィヴィアンナ様! わたくしのために申し訳ございませんでした!」
「ごめ、ね」
「そ、そんなわたくしのことなど!」
ごめんね。ユーナ。優しくしないで。
私は酷い人間。
だって私はきっと私のためだけに泣いているのだから。
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