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二四. 走れ烏騅
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真悟父子は、テレビで、沖田の演説を見ていた。2人は、2時間に及ぶその演説で情勢が決まってきたなと思い始めた矢先、テレビの画像に大爆発シーンが映しだされるとともに放送が終了した。そして、テレビはスタジオからの放送に切り替わった。その報道の内容は、沖田の演説中にテロによる時限爆弾の爆発が発生し、沖田が重傷を負ったということを繰り返した。重傷を負ったのは、沖田のみでマイクを持っていた右腕はなくなり、心肺停止寸前の状態で、すぐに帯広のとある病院へ運びこまれたとのことであった。
真悟は、おやじの賢哉が、これほど興奮しているのを見たことがなかった。
「沖田を、断じて、死なしてはならない」と、父は何やらケータイのキーを叩き始めた。どうやら、メールの宛先は、沖田の秘書のようであった。
こんな状況で、沖田の秘書がしがない田舎のリストラ営業マンであるオヤジのメールなど見てくれるのだろうかと、真悟は思った。そして、このリアクションが、まさか自分の運命を大きく揺さぶることになるであろうことなど、露とも思わなかった。
1時間しか経っていないのに親父の灰皿の吸殻はてんこ盛りになっていた。
電話が鳴った。
いつもと違って親父はすぐに電話に出た。相手は、親父がメールを送った沖田の秘書のようであった。
「・・・」
「真悟、これから烏騅と、富山まで走れるか」
「えっ」
「聞こえなかったのか。富山だよ。烏騅に乗って」
「そりゃま、やれと言われればやれると思うけど、時間がかかっちゃうよ」
「テレビは見ていたな。沖田の命が危ない。24時間以内に心臓移植手術が必要な状態らしい。偶然にも、長浜の山村にある病院で、脳卒中で死んだ人がいて、沖田に自分の心臓を移植しろという遺言を残して死んだ。オマエは、烏騅といっしょに、琵琶湖周遊船で長浜の病院まで行け。琵琶湖周遊船へは依頼済みだ。了解は貰っている。大雨で高速道路は閉鎖されている。東北方面の交通機関は、飛行機も電車も全て止まっている。この方法で山の中にある病院へ行って富山港まで心臓を運ぶのが一番確実で早い」
「わかったよ。やるよ。ボクらの力で沖田さんを必ず助けるよ」
真悟は、烏騅のいる大津の乗馬クラブへ電車で向かい、琵琶湖畔の堅田から烏騅と琵琶湖周遊船に乗り込んだ。長浜へは、1時間程で到着し、その船体は傷つきながらもなんとか着岸した。真悟は烏騅に乗って琵琶湖周遊船の中で把握した地図を頭に描きながら、山村の病院へ向かって走り出した。真悟が琵琶湖周遊船で移動中に、長浜の病院から山村の病院に出向いた医師たちが既に心臓の摘出を終えていた。烏騅は、意味もわからず真悟の必死の指示に従って、走った。長浜の山村の病院に到着した時に、烏騅はさすがにこれで終わったと思っていた。しかし、真悟は無常にも、摘出した心臓の入ったボックスを背負って、烏騅に語りかけた。
「烏騅、ごめん。なんとか富山港まで走ってくれ」
烏騅は、真悟の表情を読み取り、嘶いた。
「ヒヒーン」
長浜から富山港まで100kmはあった。この悪天候の中、必死で走っても3時間はかかる距離だった。港に近づくに連れて、道路の水はけが悪くなり、スピードも落ちてしまった。
すでに3時間半が経過し、富山港まであとわずかな距離のところまでやってきていた。港へ行くためには、小さな川を超えなければならなかったが、橋が壊れてどうしても渡ることができなかった。
真悟は、吉川の幅が少しせまくなっているところで、烏騅の頭から首筋にかけて優しく撫でた。烏騅は、呻き声をあげながら尻込みをした。しかし、それでも真悟は烏騅の首筋を優しく撫で続けた。烏騅が勇猛な表情に変わるのに5分かかった。烏騅は、尻込みした距離よりも更に倍以上後ずさりをして、助走の姿勢を取った。烏騅は、ゆっくりスタートして、助走を加速させた。烏騅は見事に跳んだ。しかし、真悟の耳には、烏騅の右末脚から鈍い音が聞こえた。
「ごめんよ。ごめんよ。ごめんよ」と言いながら、真悟は涙を流した。
しかし、烏騅は顔を引き攣らせ足を引きずりながらも港へ向かっていった。
真悟は泣きながら、烏騅と共に移植用心臓の入った箱を背負って北海道行きの船に乗り込んだ。
真悟と烏騅を乗せた船は、荒波の日本海を縦断し、津軽海峡を通過した。船は、台風崩れの温帯性低気圧の中、真悟が子供の頃に、水が流れている小さなドブ川で競争させた発泡スチロール舟の様に揺れに揺れた。目指す帯広のある十勝平野の海までは、もう少しだ。
真悟は一睡もできなかった。揺れのせいではない。烏騅の状態が明らかにおかしかった。馬は立ったまま眠る。しかし、烏騅は一晩中苦痛の表情を浮かべ嘶き声をあげ眠ることができなかったからであった。烏騅の足の状態がおかしかった。明らかに、骨折していた。それが、立ったまま眠る馬にとって命にかかわる怪我であることは、真悟もわかっていた。真悟は、折れた烏騅の右末脚をできる限り支え続けた。船の窓の外には、十勝平野の街の明かりが薄ぼんやりと見え始めていた。しかし、船は揺れを止めてはくれなかった。
船長が、真悟と烏騅の部屋にやってきた。 船長は、険しい表情を浮かべていた。
「真悟くん、今の波の状態だと残念ながら、十勝の港に着岸させることはできない」
「そんなぁ。ぼくは、何のためにここまで来たんですか。救命ボートを出してください。それで、ボク1人でこの心臓を沖田さんに届けます」
「ムリだ。救命ボートを下ろして、キミがそれに乗れたとしても30秒も経たないうちに、キミは海の藻屑だよ」
真悟は、救命胴着を着用し、沖田に届ける心臓の入ったケースを背負っていた。
「いや。それでもいかねばならないのです。泳いででも、行ってみせます」
「いかん。それは絶対ムリだ。オマエは即死だ」
船長が大声をあげた。
「ちょっと待ってくれ。オレは、他に着岸できる港がないか探しているんだ。十勝港は、着岸できたとしても、日高山脈沿いの国道236号線か、帯広広尾自動車道を走らなくちゃならん。崩落や洪水の危険性が高い。それより、帯広までの距離は遠くなるが、十勝川沿いの道を走った方が安全で早く到着できるかもしれんのじゃ。さっきから、十勝港と大津港と連絡を取り合っていたところ」
「えっ、そうなんですか」
突然、真悟のケータイの着信音が鳴り、真悟はケータイを耳に近づけた。
「私よ。ともちゃんよ」
「えっ」
「ともちゃんよ。私の馬のマリコと十勝川河口の大津港で待ってるわ。十勝港には、もし着岸できても日高山脈沿いの道で、帯広まで行くことはできないの。船長さんと変わってくれる。私は、大津港の漁業組合長さんと変わるから」
船長と組合長との話し合いは短く、あっと言う間だった。
「真悟、大津港へ行くぞ」
「はい、お願いします」
「ただ、簡単には着岸できるかどうかはわからんぞ」
「覚悟してます」
真悟を乗せた船は、それから約1時間で大津港の入口に到着した。港の入口は狭く、何度目かのトライで、船は大津港に入ることができた。しかし、今度は、なかなか着岸することができなかった。
船長は、なかなか着岸できないことを真悟へ告げるために、真悟と烏騅がいる部屋にやってきてドアを開けた。
その瞬間、
「ヒヒーン」と、烏騅はいななくと真悟の襟首を銜えて、自分の背中に真悟を乗せて、船長が入ってきたドアから飛び出した。そして、あっという間に、真悟を乗せたまま海に飛び込み、ともちゃんが待っている港の明かりを目指して泳ぎ出した。
真悟は、必死で烏騅の轡を握り占めていた。
「烏騅、おまえ、・・・」
烏騅と真悟は、大しけの海の中、何度も沈んで、その度に「もうダメか」と思いながらも浮かび上がった。たったの15分の出来事であったが、1時間以上経過したかのように思われた。その15分後、海面に浮かび上がった時、大津港の港がくっきりと見えた。そこには、烏騅と真悟を待ち続けていてくれたともちゃんの姿があった。烏騅も、それを見つけると、大きなイナ鳴き声をあげ、もう沈むこともなくまっしぐらに港の縁まで泳ぎ着き、真悟は港湾の人達に引き上げられた。そこには、ともちゃんが待っていてくれた。
「ともちゃん、きてくれてたんだね。ありがとう。これを頼む」と言って、沖田へ移植する心臓の入ったケースをともちゃんにバトンタッチした。
「わかったわ、真悟。後は私とマリコで必ず、沖田さんにこの心臓を届けるから安心して。あっ、でも烏騅が烏騅が」と涙を流し、ともちゃんは振り返りながらも、彼女の馬マリコを走らせた。
真悟が海の方を振り返ると、烏騅は海岸を離れ荒れた沖海の方へ引き返し始めていた。烏騅には折れた脚で陸へ上がることもできず、泳ぐ力もなくなっていた。そして、静かに、静かに烏騅の頭は、海面の中へ吸い込まれていった。
「烏騅、烏騅、・・・」
真悟は、何度も烏騅の名を呼び続けながら、ただその場に立ち尽くすだけであった。
烏騅の最期は、奇しくも2200年前に世界史上最強の武将と言われた中国の項羽と共に戦い続けた烏騅とその運命を共にした。その烏騅という巨大な馬は、約7年間巨漢の項羽と共に戦い続けたが、項羽は劉邦軍に垓下の戦いで大敗を喫し逃亡し続けた。そんな中で、項羽は烏江という大河畔で死を決した。そこで、長年連れ添った烏騅だけは助けようとして、その場にいた船頭に授けて烏江を渡ってくれと頼む。しかし、烏騅は舟が出てからしばらくして、河へ飛び込み項羽のもとに戻ろうとするが力尽きて水中に没した。
ともちゃんは、烏騅の最後を尻目に必死でマリコを十勝川沿いに走らせた。ともちゃんたちは、港のある北海道の道道912号線から、十勝川沿いの911号線に入った。6kmで、名前が320号線に変わって8kmで、国道38号線、通称十勝国道へ合流した。後は、30km国道沿いに走れば、帯広だ。しかし、40数kmの道のりとはいえ、風雨の中、馬を走らせ続けることは大変なことだった。ともちゃんたちは、何ども風に飛ばされたり、路肩に足を取られたりしそうになりながらも走り続けた。
ただ、ともちゃんのポニーテールとマリコのポニーテールは、いつも同じ方向にたなびいていた。
マリコの力は明らかに弱まり、小走り程度で走るのがやっとの速さになっていた。
「幕別町のスマイルパークが見えてきたわ。もう少しよ。マリコ、がんばって」
もう、あと10km、沖田の待つ病院へ近づいていた。
雨は降っているが、風が急に収まった。
「さあ、マリコ」
ともちゃんは、マリコを励ました。すると、マリコは再びスピードを上げて走り出した。
そして、大津港から約1時間半で、沖田が待つ病院へ心臓を届けることができた。
真悟は、おやじの賢哉が、これほど興奮しているのを見たことがなかった。
「沖田を、断じて、死なしてはならない」と、父は何やらケータイのキーを叩き始めた。どうやら、メールの宛先は、沖田の秘書のようであった。
こんな状況で、沖田の秘書がしがない田舎のリストラ営業マンであるオヤジのメールなど見てくれるのだろうかと、真悟は思った。そして、このリアクションが、まさか自分の運命を大きく揺さぶることになるであろうことなど、露とも思わなかった。
1時間しか経っていないのに親父の灰皿の吸殻はてんこ盛りになっていた。
電話が鳴った。
いつもと違って親父はすぐに電話に出た。相手は、親父がメールを送った沖田の秘書のようであった。
「・・・」
「真悟、これから烏騅と、富山まで走れるか」
「えっ」
「聞こえなかったのか。富山だよ。烏騅に乗って」
「そりゃま、やれと言われればやれると思うけど、時間がかかっちゃうよ」
「テレビは見ていたな。沖田の命が危ない。24時間以内に心臓移植手術が必要な状態らしい。偶然にも、長浜の山村にある病院で、脳卒中で死んだ人がいて、沖田に自分の心臓を移植しろという遺言を残して死んだ。オマエは、烏騅といっしょに、琵琶湖周遊船で長浜の病院まで行け。琵琶湖周遊船へは依頼済みだ。了解は貰っている。大雨で高速道路は閉鎖されている。東北方面の交通機関は、飛行機も電車も全て止まっている。この方法で山の中にある病院へ行って富山港まで心臓を運ぶのが一番確実で早い」
「わかったよ。やるよ。ボクらの力で沖田さんを必ず助けるよ」
真悟は、烏騅のいる大津の乗馬クラブへ電車で向かい、琵琶湖畔の堅田から烏騅と琵琶湖周遊船に乗り込んだ。長浜へは、1時間程で到着し、その船体は傷つきながらもなんとか着岸した。真悟は烏騅に乗って琵琶湖周遊船の中で把握した地図を頭に描きながら、山村の病院へ向かって走り出した。真悟が琵琶湖周遊船で移動中に、長浜の病院から山村の病院に出向いた医師たちが既に心臓の摘出を終えていた。烏騅は、意味もわからず真悟の必死の指示に従って、走った。長浜の山村の病院に到着した時に、烏騅はさすがにこれで終わったと思っていた。しかし、真悟は無常にも、摘出した心臓の入ったボックスを背負って、烏騅に語りかけた。
「烏騅、ごめん。なんとか富山港まで走ってくれ」
烏騅は、真悟の表情を読み取り、嘶いた。
「ヒヒーン」
長浜から富山港まで100kmはあった。この悪天候の中、必死で走っても3時間はかかる距離だった。港に近づくに連れて、道路の水はけが悪くなり、スピードも落ちてしまった。
すでに3時間半が経過し、富山港まであとわずかな距離のところまでやってきていた。港へ行くためには、小さな川を超えなければならなかったが、橋が壊れてどうしても渡ることができなかった。
真悟は、吉川の幅が少しせまくなっているところで、烏騅の頭から首筋にかけて優しく撫でた。烏騅は、呻き声をあげながら尻込みをした。しかし、それでも真悟は烏騅の首筋を優しく撫で続けた。烏騅が勇猛な表情に変わるのに5分かかった。烏騅は、尻込みした距離よりも更に倍以上後ずさりをして、助走の姿勢を取った。烏騅は、ゆっくりスタートして、助走を加速させた。烏騅は見事に跳んだ。しかし、真悟の耳には、烏騅の右末脚から鈍い音が聞こえた。
「ごめんよ。ごめんよ。ごめんよ」と言いながら、真悟は涙を流した。
しかし、烏騅は顔を引き攣らせ足を引きずりながらも港へ向かっていった。
真悟は泣きながら、烏騅と共に移植用心臓の入った箱を背負って北海道行きの船に乗り込んだ。
真悟と烏騅を乗せた船は、荒波の日本海を縦断し、津軽海峡を通過した。船は、台風崩れの温帯性低気圧の中、真悟が子供の頃に、水が流れている小さなドブ川で競争させた発泡スチロール舟の様に揺れに揺れた。目指す帯広のある十勝平野の海までは、もう少しだ。
真悟は一睡もできなかった。揺れのせいではない。烏騅の状態が明らかにおかしかった。馬は立ったまま眠る。しかし、烏騅は一晩中苦痛の表情を浮かべ嘶き声をあげ眠ることができなかったからであった。烏騅の足の状態がおかしかった。明らかに、骨折していた。それが、立ったまま眠る馬にとって命にかかわる怪我であることは、真悟もわかっていた。真悟は、折れた烏騅の右末脚をできる限り支え続けた。船の窓の外には、十勝平野の街の明かりが薄ぼんやりと見え始めていた。しかし、船は揺れを止めてはくれなかった。
船長が、真悟と烏騅の部屋にやってきた。 船長は、険しい表情を浮かべていた。
「真悟くん、今の波の状態だと残念ながら、十勝の港に着岸させることはできない」
「そんなぁ。ぼくは、何のためにここまで来たんですか。救命ボートを出してください。それで、ボク1人でこの心臓を沖田さんに届けます」
「ムリだ。救命ボートを下ろして、キミがそれに乗れたとしても30秒も経たないうちに、キミは海の藻屑だよ」
真悟は、救命胴着を着用し、沖田に届ける心臓の入ったケースを背負っていた。
「いや。それでもいかねばならないのです。泳いででも、行ってみせます」
「いかん。それは絶対ムリだ。オマエは即死だ」
船長が大声をあげた。
「ちょっと待ってくれ。オレは、他に着岸できる港がないか探しているんだ。十勝港は、着岸できたとしても、日高山脈沿いの国道236号線か、帯広広尾自動車道を走らなくちゃならん。崩落や洪水の危険性が高い。それより、帯広までの距離は遠くなるが、十勝川沿いの道を走った方が安全で早く到着できるかもしれんのじゃ。さっきから、十勝港と大津港と連絡を取り合っていたところ」
「えっ、そうなんですか」
突然、真悟のケータイの着信音が鳴り、真悟はケータイを耳に近づけた。
「私よ。ともちゃんよ」
「えっ」
「ともちゃんよ。私の馬のマリコと十勝川河口の大津港で待ってるわ。十勝港には、もし着岸できても日高山脈沿いの道で、帯広まで行くことはできないの。船長さんと変わってくれる。私は、大津港の漁業組合長さんと変わるから」
船長と組合長との話し合いは短く、あっと言う間だった。
「真悟、大津港へ行くぞ」
「はい、お願いします」
「ただ、簡単には着岸できるかどうかはわからんぞ」
「覚悟してます」
真悟を乗せた船は、それから約1時間で大津港の入口に到着した。港の入口は狭く、何度目かのトライで、船は大津港に入ることができた。しかし、今度は、なかなか着岸することができなかった。
船長は、なかなか着岸できないことを真悟へ告げるために、真悟と烏騅がいる部屋にやってきてドアを開けた。
その瞬間、
「ヒヒーン」と、烏騅はいななくと真悟の襟首を銜えて、自分の背中に真悟を乗せて、船長が入ってきたドアから飛び出した。そして、あっという間に、真悟を乗せたまま海に飛び込み、ともちゃんが待っている港の明かりを目指して泳ぎ出した。
真悟は、必死で烏騅の轡を握り占めていた。
「烏騅、おまえ、・・・」
烏騅と真悟は、大しけの海の中、何度も沈んで、その度に「もうダメか」と思いながらも浮かび上がった。たったの15分の出来事であったが、1時間以上経過したかのように思われた。その15分後、海面に浮かび上がった時、大津港の港がくっきりと見えた。そこには、烏騅と真悟を待ち続けていてくれたともちゃんの姿があった。烏騅も、それを見つけると、大きなイナ鳴き声をあげ、もう沈むこともなくまっしぐらに港の縁まで泳ぎ着き、真悟は港湾の人達に引き上げられた。そこには、ともちゃんが待っていてくれた。
「ともちゃん、きてくれてたんだね。ありがとう。これを頼む」と言って、沖田へ移植する心臓の入ったケースをともちゃんにバトンタッチした。
「わかったわ、真悟。後は私とマリコで必ず、沖田さんにこの心臓を届けるから安心して。あっ、でも烏騅が烏騅が」と涙を流し、ともちゃんは振り返りながらも、彼女の馬マリコを走らせた。
真悟が海の方を振り返ると、烏騅は海岸を離れ荒れた沖海の方へ引き返し始めていた。烏騅には折れた脚で陸へ上がることもできず、泳ぐ力もなくなっていた。そして、静かに、静かに烏騅の頭は、海面の中へ吸い込まれていった。
「烏騅、烏騅、・・・」
真悟は、何度も烏騅の名を呼び続けながら、ただその場に立ち尽くすだけであった。
烏騅の最期は、奇しくも2200年前に世界史上最強の武将と言われた中国の項羽と共に戦い続けた烏騅とその運命を共にした。その烏騅という巨大な馬は、約7年間巨漢の項羽と共に戦い続けたが、項羽は劉邦軍に垓下の戦いで大敗を喫し逃亡し続けた。そんな中で、項羽は烏江という大河畔で死を決した。そこで、長年連れ添った烏騅だけは助けようとして、その場にいた船頭に授けて烏江を渡ってくれと頼む。しかし、烏騅は舟が出てからしばらくして、河へ飛び込み項羽のもとに戻ろうとするが力尽きて水中に没した。
ともちゃんは、烏騅の最後を尻目に必死でマリコを十勝川沿いに走らせた。ともちゃんたちは、港のある北海道の道道912号線から、十勝川沿いの911号線に入った。6kmで、名前が320号線に変わって8kmで、国道38号線、通称十勝国道へ合流した。後は、30km国道沿いに走れば、帯広だ。しかし、40数kmの道のりとはいえ、風雨の中、馬を走らせ続けることは大変なことだった。ともちゃんたちは、何ども風に飛ばされたり、路肩に足を取られたりしそうになりながらも走り続けた。
ただ、ともちゃんのポニーテールとマリコのポニーテールは、いつも同じ方向にたなびいていた。
マリコの力は明らかに弱まり、小走り程度で走るのがやっとの速さになっていた。
「幕別町のスマイルパークが見えてきたわ。もう少しよ。マリコ、がんばって」
もう、あと10km、沖田の待つ病院へ近づいていた。
雨は降っているが、風が急に収まった。
「さあ、マリコ」
ともちゃんは、マリコを励ました。すると、マリコは再びスピードを上げて走り出した。
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