伊十郎、参る!

よしだひろ

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第一章 拙者、伊十郎にござる

其の二 現代社会のお勉強

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 翌日の日曜日。朝八時頃荷物が届いた。昨日注文した木刀だ。
「伊十郎。木刀が届いたわよ。真剣の代わりにこれを持ち歩いて」
「うむ。不本意ではあるが仕方あるまい」
 伊十郎は打刀うちがたなと脇差を抜いて代わりに木刀を差した。
「その代わり美香殿。拙者のこの刀。大切に保管してくだされ」
「じゃあベッドの下に隠しておきましょう」
 美香は刀を新聞紙でぐるぐる巻にして自分が使っているベッドの下に隠した。伊十郎にもその場所を教えておいた。
「伊十郎。今日は色々教えるからね」
 そう言うと美香は自分の部屋の合鍵を取り出して伊十郎に渡した。
(こんな形で使う事になるなんて)
「これは彼氏ができた時用に作っておいた合鍵よ」
 美香は伊十郎を連れて一旦マンションの外に出た。エントランスにあるコンソールの使い方を教えてみた。鍵を鍵穴に挿して回すと自動ドアが開く。
「分かった? じゃあ早速やってみて」
「う、うむ。この鍵をこの鍵穴に入れて回すのじゃな?」
 伊十郎は鍵を挿して回してみた。すると自動ドアが開いた。
「開きましたぞ」
「ささ、中に入って」
 次はエレベーターだ。
「いい? エレベーターは色んな人が使うから途中で誰かに会うかもしれないのよ」
「誰かとは?」
「このマンション……えーっとマンションと言うのは、そうね、この長屋に住んでる人達よ」
「なるほど」
 エレベーターの仕組みを簡単に説明する。つまり、この建物の各階に箱が移動して、行きたい階に楽に行ける装置だ、と説明した。箱に乗ったら行きたい階のボタンを押すだけだ。
 呼び出しのボタンを押して暫くするとエレベーターが到着した。二人はゴンドラに乗り美香が住む六階を押した。暫くすると扉が閉まりエレベーターは動き始めた。
 六階に着くと美香は先を歩いた。美香の部屋の前まで来て伊十郎に言った。
「さっきの鍵を使ってこの扉を開けて」
 美香の部屋の鍵は二重になっている。ドアノブの上と下に鍵穴がある。美香はそれを教えてあげた。
 カチャリ、カチャリと二回鍵を回してドアノブを引く。
「はい。良くできました。これで分かった?」
「うむ。不思議な事が多く理解に苦しむが手順は理解した」
 美香は家から出る時の手順も説明した。鍵を二箇所かける事を忘れないように伝えた。エレベーターホールに来ると下向きの三角形のボタンを押す事を教えた。
 程なくしてエレベーターが来て二人は乗り込んだ。途中の階で止まりそのフロアの住民が乗り込んできた。美香は挨拶した。
「おはようございます」
「おはようでござる」
 乗り込んできた老婆は少し驚きつつも挨拶を返した。
「拙者この度故あってこちらの長屋に厄介になる事になり申した佐々木伊十郎と申す。以後よろしくお見知り置きを」
 老婆は面食らったが冷静に返した。
「三〇六の高橋です」
「高橋殿か」
 扉が閉まる。
(き、気まずい。挨拶くらいはするけど、まさか自己紹介までし始めるとは……。しかもご近所とは言えないこの距離感で)
「済みません。六〇二の金井です。この子外国暮らしが長くて、ほほほ」
「あらそうなの」
「いや、拙者外国になど……」
 タイミング良くドアが開いた。美香はすぐさま伊十郎を引っ張って出ようとした。しかし伊十郎は美香の手を引いて逆に引き戻した。
「若輩者は後でござる」
「あら、ありがとう」
 高橋と名乗る老婆は笑顔で会釈をすると先に降りて行ってしまった。美香は意外な伊十郎の言動に驚いた。
「男らしい所があるのね」
「男らしいのではござらん」
「?」
「男なのでござる」
 美香はその言葉にドキッとした。そのまま外に行く時の説明を忘れてドアを出て歩いて行った。
「美香殿。鍵を閉めなくて良いのか?」
 最初美香は何を言ってるのか分からなかった。そこで初めて理解した。
「ああ。上のドアは鍵をかけるけど、このドアはオートロックなのよ……あ、っと。つまり中から外には出られるけど自動的に鍵がかかるのよ」
「中々難しいが不思議なカラクリじゃのう」
「すぐに慣れるわよ。行きましょう」
 二人はマンション前の狭い道を歩いて行った。少し歩いて美香は自分のスニーカーの靴紐が解けている事に気付いた。
「ちょっと靴紐結ぶから先行ってて」
「何でござる?」
 美香はその場にしゃがみ込み靴紐を結び直した。伊十郎は美香の前に回り込んで覗き込んだ。
「不可思議な足袋を履いてるのでござるなぁ」
 伊十郎は前に立って歩き出した。美香はその後ろから付いていく。
 と、いきなり伊十郎が立ち止まり、美香は伊十郎にぶつかってしまった。
「ちょっと。何で急に立ち止まるのよ」
「何故と言われても、ここに止まれと書いてあるのでな」
 それは道路標識だった。逆三角形で赤の背景に白い文字で止まれと書いてあった。
「これは車に対する標識だから人は従わなくて良いのよ」
「ややこしいでござるな」
 道は少し大きな通りに出た。歩道と車道が分かれていて、車が走っていた。
「昨日乗った車でござるな。あれはまた珍妙であった」
(飛行機を見たら死ぬな)
 美香は伊十郎にこの世界に早く慣れて欲しくて今日は街を見学してもらうつもりだった。
 その二人の横を自転車が走り抜けて行った。
「あれは何でござるか?」
「あれは自転車と言って……」
 美香が説明しようとした時に警官が笛を吹いてその自転車を止めた。
「おや、知り合いと話しておる」
「いいえ、違うのよ。あれはお巡りさんに止められたの」
「お巡りさん? オマワリとは変わった苗字じゃのう」
「個人の名前じゃなくて、何て言えば良いのかなぁ。街の治安を守ってくれてる職業の人をお巡りさんって言うのよ」
「与力の事か?」
 美香は与力が何だか分からなかった。与力とは江戸時代の警察のようなポジションの仕事だ。
「本当は警察官と呼ばれてる人達なんだけど、その中でもあの人のように制服を着て街を見回ってくれている人の事を親しみを込めてお巡りさんって呼ぶのよ」
「ならば同業として一言挨拶に行かねば」
 伊十郎は職務質問している警官の方へ歩き出したのだが、美香が咄嗟にそれを止めた。
「今はダメ! あなたがお巡りさんの前に出たらややこしくなる」
 美香はとにかく警察沙汰にはしたくなかった。無理矢理伊十郎を引っ張ってその場を離れた。
「でもね、日本には交番って言う施設があるのよ。交番に行けばお巡りさんに会えるから」
「奉行所のような所か」
 奉行所は美香にも分かった。
(奉行所とは違うんだよなぁ)
「奉行所とは少し違うかな。もう少し小規模な感じだよ」
「すると番屋みたいな感じか?」
 番屋は分からない。美香は取り敢えずスマホを取り出して番屋を検索した。
「またその札か」
「番屋について調べてるの」
「番屋の事も知らんのか」
 美香はムッとしたが知らない事に違いはない。検索結果を見て交番に似てると分かった。
「江戸時代とは防犯や消防、司法の仕組みが違うから一概に言えないけど、番屋みたいなものね」
 二人は大きな交差点に出た。信号が赤だったので美香は立ち止まったが、伊十郎は歩き続けた。
「止まって! 信号が赤でしょ!」
 伊十郎はすぐに立ち止まった。
「信号とは何でござる? 止まれとは書かれておらぬぞ?」
 伊十郎の一メートル先を車がビュンビュン走り去ってゆく。美香は伊十郎の腕を引っ張り歩道に戻してから信号を指差して言った。
「ほら、あの四角い機械を見て。赤いでしょ? 赤い時は道を渡ってはいけないの」
「ではここを渡るにはどうしたらよいのじゃ?」
 美香は信号に付いて説明した。信号には車用の信号と歩行者用の信号がある事や時間と共に色が変わる事など。それを説明するために何度も信号を見送った。
「面白い仕組みじゃのう」
 そんな感じで二人は街をフラフラ歩いて美香は伊十郎に沢山の事を教えた。
 暫く歩いていると公園があったので休む事にした。広場の近くのベンチに腰掛ける。
「幼な子がはしゃいでおる。いつの世も可愛いものだ」
「そうだねー」
 美香は何となく男女の価値観の話をしてみた。
「今の世の中はね、男女平等と言って男も女も同じに扱われるのよ」
 男も育児をするんだと言う方向に持って行きたかった。
「男女平等とな。男と女は違うものではないか」
「やっぱりそうなるよね」
「男と女ではやれる事も違うぞ?」
「あなたの価値観を変えるつもりはないけど、今の世の中はね、男だからこれをやる、女だからこれをやると言う考え方は古いとされているのよ」
「分からぬ。子育てなど女子にしかできぬではないか」
「今は男の人も育児をするのよ」
「育児の事を言っているのではない。授乳は男には出来ぬと言っておるのだ」
 伊十郎は母親が母乳をあげる事を言っていた。美香は人工粉乳の事を言った。
「男でも出来るのよ」
 伊十郎は大袈裟に驚いた。
「お、男が乳をあげるのか!?」
 美香はそこで初めて気付いた。
「おっぱいをあげることは出来ないよー。そうじゃなくて粉ミルクがあるの」
 伊十郎には伝わらなかった。ミルクは英語だ。
「まあ良いわ。あなたはやがて元の江戸時代に帰るんだから今の価値観を教えても意味ないもの」
「拙者は元居た天保に戻れるのか? ならば早く戻して欲しい。拙者にはやりかけの仕事があるのじゃ」
「ま、待ってよ。戻してあげたいけど私にはその方法は分からないわ」
「度々使っておる札で調べてくださらぬか」
「スマホでもそんな方法調べられないよー」
 伊十郎はがっかりした。露骨に肩を落とした。
「落胆しないで。いつか何か方法が見つかるよ」
「それもそうじゃの。こんな珍妙な世界にやってきたのだ。この世界をもっと楽しもう」
 その時一人の子供が駆け寄ってきた。伊十郎をまじまじ見た。
「ねーねー、何でそんな変な髪型してるのー?」
「髪型? おおまげの事か。お主も大人になればまげを結うのじゃぞ」
 美香は慌てて訂正した。
「もう変な事言わないで! ボク。このおじちゃんはね……」
「おじ……?」
「このおじちゃんはね、お侍さんのコスプレしてるのよ」
 子供は納得して戻って行った。伊十郎は案の定コスプレに引っかかった。
「コスプレってのは、仮装とか変装って事よ」
「拙者は変装などしとらんぞ」
 美香は詳しく説明した。もし伊十郎が過去から来た事が世の中に知られればそれはもう凄い大騒ぎになる。まず物理学者が黙っていないだろう。歴史の研究をしている人も出張ってくる。警察も動き出すに違いない。もちろんマスコミが黙っちゃいない。
「いい? あなたがタイムスリップ、えーと時間を超えてこの世界に来た事がバレたら平穏な生活は送れない、あなたはさまざまな組織から狙われる事になるのよ。好奇の目で見られる事になるのよ」
 伊十郎は考え込んだ。美香はうまく説明できたとは思っていなかった。暫く考えてから伊十郎は言った。
「美香殿はどうなのだ? 美香殿は拙者を好奇の目で見ておるのか?」
「え?」
「美香殿は拙者に力を貸してくれているが、それは物珍しいからなのか?」
「違うわよ。あなたが私を助けてくれたから」
「ならば拙者は構わん」
 美香は何となく頬が熱をもったように感じた。
「この世界は何やら珍妙な物で溢れており、拙者には理解出来ぬが、美香殿に助けて頂いて良かったと思っておる。美香殿が居れば安心じゃ」
 美香は何故か鼓動が早くなった。
「もう。良いからとにかく正体がバレないようにしていてね」
「心得た」
 その後二人は適当に街をぶらついた。お昼ご飯を食べるために適当な喫茶店に入った。
 その後歩いているとどこかの河原に出た。
「広い川でござるな。昨日越えた江戸川でござるか?」
 美香はマップアプリを開いて確認した。
「そう見たいね。でも困ったわ。余りにも適当に歩いたからこんな遠くに来ちゃった。近くにバス停でもあれば家に帰れるのに」
「ではそのバス停なるものを探してみよう」
「大丈夫よ。スマホで調べるから」
 美香はスマホで周辺のバス停を調べてみた。その時、伊十郎に電話の掛け方を教えておこうと思い付いた。
 バス停まではすぐだった。バスを待つ間、伊十郎にバスについて説明した。
「色んな人が乗ってくるんだからね。マナーを守ってよ」
「マナーとは何でござる?」
「えーと、つまり礼儀を守ってって事よ」
「それならばお任せくだされ」
 バスの中で伊十郎はおとなしかった。座席には座れなかったので立っていたのだが、腰に差した木刀が邪魔だと美香が指摘すると、渋々木刀を抜いて持っていた。
 最寄りのバス停で降りると再び木刀を腰に差して歩き始める。美香の家までは数分かかった。
「朝教えた通り鍵を使ってドアを開けて」
「やってみるでござる」
 伊十郎は鍵を取り出してコンソールの鍵穴に挿し回してみた。すると当然のことながらドアが開いた。エレベーターもうまく使う事ができ、無事家に帰る事が出来た。
「伊十郎。電話の使い方を教えておくわね」
 美香は伊十郎が質問するよりも先に電話について説明し始めた。
「簡単に言うと遠くにいる人とお話する装置よ。ここにある固定電話から電話すれば私のスマホと話ができるのよ」
 美香は傍らに置いてあるメモ用紙に自分のスマホの番号を書いて伊十郎に渡した。
「その番号を押せば良いのよ」
 しかし伊十郎は言った。
「何やら書かれておるがこれは一体なんじゃ?」
 伊十郎はアラビア数字が読めなかった。美香は驚いた。
「江戸時代には数字がないの?」
「数字? これが数字でござるか?」
(そこからかー)
 しかし考えようによっては単純だ。紙に書かれた番号と同じ番号を押せば良いだけなのだから。
「よく見て。この固定電話にも数字が書かれてるでしょ? この紙に書かれたのと同じ順番でこのボタンを押せば良いのよ」
 美香は実際にやってみせた。
「最初は〇でしょ。だからこの〇を押す。次は八だからこの八を押す」
 そして番号を全部押し終えてから受話器を取った。
「ほら。受話器を耳に当ててみて」
 伊十郎の耳に受話器を当ててみる。伊十郎はそれを受け取り耳に当ててみた。
「何やら音がなっておる」
 その時美香のスマホが着信音を出した。伊十郎は驚いた。
「かかってきたでしょ。そして私が電話に出ると……」
 美香は電話に出た。そしてスマホを耳に当てて小声で話した。
「もしもし。聞こえる?」
 伊十郎は耳元から美香の声が聞こえたので更に驚いた。
「うわ! 美香殿の声がするでござる」
「ちょっとそのまま待ってみて」
 美香は電話を繋いだまま固定電話のあるリビングを離れ自分の寝室に入った。
「もしもし? 聞こえるでしょ?」
「聞こえるでござる! これは異な事。驚きでござる」
「これは電話って言うのよ。離れていてもお話ができるの」
 美香は寝室からリビングに戻ってきた。
「電話を終える時はその受話器を置けばいいのよ」
 伊十郎から受話器を受け取り電話の架台に置いた。そして伊十郎に電話をかける練習をさせた。
「ただ番号を押せば良いだけよ」
「ええと。最初は……」
伊十郎は最後の数字を指さした。
「これと同じ記号は……と」
「逆よ逆。左から読むの」
「左から? 二百年経つと文字を読む方向や書く方向も変わるのじゃなぁ。まるで暗号じゃ」
「そそ、これは秘密の暗号よ。さ、初めから押してみて」
 伊十郎は今度は左から文字を探し始めた。一つ一つ探して押していき、最後の数字を押し終えた。
「全部押したら受話器を取って耳に当てるのよ」
「うむ」
 するとまた美香のスマホがなった。美香は電話に出た。
「もしもし」
「美香殿は先ほどから『もしもし』とおっしゃるな」
「電話では初めにそう言うのよ」
「心得た」
 次に美香はスマホから固定電話に電話をした。今度は固定電話が着信音を鳴らした。
「さ、伊十郎。電話に出て」
「これを取れば良いのだな……もしもし」
「聞こえる?」
「聞こえるでござるよ。楽しいでござるな」
「これが電話というものよ」
 美香は電話について簡単に説明した。電話機は各家庭にある他、スマホは一人一人が持っていて全部違う番号だという事。
「もし間違えて番号を押しちゃうと違う人に繋がっちゃうからその時は謝って電話を終わらせてね」
「要するに秘密の暗号を間違わなければ良いのであろう」
「そう言う事ね」
 美香はふと思い立って伊十郎にタブレットパソコンを使ってユーチューブで居合の動画を見せてあげようと思った。
「ねーねー。この世界にも剣道って残ってるんだよ」
 そしてユーチューブを開き居合の動画を検索した。
「良い、これを見て」
 居合の動画を流してみる。
「おお。武士がおる。武士がおる」
 伊十郎は食い入るようにその動画を見た。しかし何通りかの型を見た後言った。
「筋は悪くないがかなり速度が遅いのう。こやつまだまだ鍛錬が必要じゃな」
「伊十郎は居合できるの?」
 すると伊十郎は途端に後ろに下がり、体を移動しつつ素早く木刀を抜いてきっさきを美香の額の前に軽く当てた。
「あ……」
 それは一瞬のことだった。美香は驚いて言葉が出なかった。
「居合とはすなわち抜刀術。武士なれば心得ておかねばならぬ技の基本じゃよ」
「伊十郎って凄いんだね」
「よく言われ申す。時に、その板はなんなのじゃ? 何故そのような小人が動いておるのだ?」
 美香は動画について説明するのは骨が折れるぞと思った。
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