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序章

抵抗

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 階段を登る足音が近づくたびに、笙真君が私の手を握る力が強くなる。

「大丈夫、絶対私が助けてあげるからね」

 私は笙真君と玄関の間に立つ。

「私があいつの気を引くから、笙真君は振り返らずに逃げてね」

「…君はどうするの?」

「笙真君はお母さんに、家族に会いたいんでしょ?」

 笙真君が押し入れの中で、静かに家族の名前を呼びながら泣いているのを私は知っていた。

 絶対笙真君を家族のもとに、公泰のもとに帰すんだ。

「うん、会いたい」

「だったら、私のことは気にしないで階段を一気に駆け下りてできるだけ遠くに逃げて!そして、助けてくれそうな人に助けを求めてね」

「でも…」

「大丈夫、私が死んでも誰も悲しまないから」

 鍵が鍵穴に差し込まれ、ゆっくりと鍵が廻される。

 笙真君がなにか言ったが、私の意識は誘拐犯に飛び掛かることしか頭になかった。

 扉が開いたとともに私は誘拐犯の足元にタックルをぶちかます。

「うわぁ!」

バランスを崩した誘拐犯に馬乗りになり、包丁を突きつける。包丁を持つ手が震えてどうしようもないが、笙真君が逃げる時間が稼げればいいのだ。

「笙真君!」

 笙真君は動かない。

「早く!」

 そう私が怒鳴ると、笙真君は何度も振り返りながら階段を駆け下りてゆく。

「なんだてめぇ!どけよ」

「動かないで、動いたら…」
 男は私が思っていたよりもだいぶ若く、まだ大学生の様にも見えた。流行りのファッションに身を包んだ男は、とても誘拐殺人犯には見えなかった。

「動いたらなんだっていうんだ?そんな震えた手で人を刺せると思ってるのかよ!」

 誘拐犯は私の腕を軽々と掴むと、腕をひねり上げる。

 あまりの痛みに声すらも出ない。

「痩せたガキが大人に叶うと思ったのか?お前、隣の女のガキだろう?」

 手が痺れてきて私は包丁を地面に落としてしまった。

 包丁を落とした私を満足そうに眺め、包丁に手を伸ばした私の手を足で踏みつける。和反対の足で包丁を遠くに転がしたため、私の手に男の全体重が乗る。

あまりの痛さで悲鳴を上げる私を、男は蹴り飛ばす。

「ガキに逃げられたが、まぁ、いい。もうすぐ飛行機の時間だからな。警察が動くころには終えはもう飛行機の中だ」

 お前をどうしてやろうか?可笑しくてたまらないというように男は笑った。

「このまま首を絞めるのも楽しそうだな」

 男の手が首に回され、私の首を絞める手に力を籠める。私に馬乗りになった男性は楽しそうに力を籠めたり緩めたりと、私の反応を楽しんでいるようだった。

 必死になってもがき男の手にありったけの力で爪を立てるが、男の力は強く苦しさと痛みで意識が朦朧なる。

「その子を放せ!」

 男の力が緩み、涙でぼやける視界に男を殴る笙真くんが映し出される。

 笙真くんの綺麗な顔は鼻水や涙でぐちょぐちょに汚れていて、勇気を振り絞って私のために戻ってきたんだとわかった。

「どう…し、て?」

「バカな奴だな。助けも求めずに戻ってきたのか?」

 男は私の首から手を放し、笙真くんの頭を掴む。

「お前を誘拐してからずっと、どうやって殺してやろうか考えてたんだ。お前は。どうやって殺されたい?まぁ、お前は簡単には殺してやらないけどな」

 気が付くと私の手は包丁を握り男の背中を刺していた。

 ダウンジャケットから羽毛が飛び散り、ダウンジャケットのシルバーがゆっくりと血の色の変わっていく。

「てめぇ!」

 男が怒鳴り、私を掴もうとする。

 私は包丁を男から抜き取り、男がそれ以上近寄れないように包丁を前に突き出す。

「お前から先に殺してやる!」

 男が私に飛び掛かろうとした時だった。

 笙真くんが男に体当たりし、男は階段に突き飛ばされ、転げ落ちるように階段から転がり落ちていった。

 私たちは再び互いに手を取り、ゆっくりと階段下を見下ろす。

 男は階段下にうずくまって動かない。

「どうしよう、私、人を殺しちゃった」

 震える私の体を笙真くんが抱きしめる。

 笙真くんの体も冷え切っていたのに、抱きしめられたところから徐々に熱を取り戻していく。

 私の顔も笙真くんと同じように、涙や鼻水まみれになっているに違いない。

 笙真くんに触れようとして、私は自分の手が血まみれだということに気が付く。私は抱きしめようとした手をそっと戻す。

「どうして、戻ってきたの?」

「君が死んだらボクが悲しいからだよ」

 私は笙真くんの首に頭をうずめ目を瞑る。

「…ありがとう」

 私たちは長い間話さなかった。

 黙って互いの鼓動と呼吸、そして体温をただ感じていた。

「僕ね、君の名前を考えたんだ」

「名前?」

「うん、名前。しおんってどうかな?紫に音って書いて、しおん」

「しおん?」

「うん、紫音」

「どうして、紫音?」

 そう尋ねても笙真くんは答えてくれなくて、ただもっときつく抱きしめられただけだった。

 紫音。

 笙真くんが私のために考えてくれた名前。私だけの名前。

 以前の預けられた施設から単純に決められた名前ではない。私のために考えられた名前。

 私は笙真くんの肩に顔を預けたまま、いつの間にか気を失っていたようだった。

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