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序章

ダルセーニョ

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 気が付くと私は、もう二度と戻りたくないと思っていたボロアパートの一室で、調律の外れたピアノを弾いていた。

 もしかしたら私は死ぬ前に夢を見ているのかもしれない。

 どうせ見るならもっと幸せな夢が良かったな。それともピアノを弾けていたときが一番幸せということなのだろうか?

 アパートは記憶にある通りゴミで溢れかえっており、鼻をつく腐敗臭で溢れている。灰皿にはたばこの吸い殻が山盛りで、アルコールの空き瓶や空き缶がころがっている。季節が冬のおかげなのか蠅はいないようだったが、地面を這う黒光りした虫の気配を感じることはできる。

母親に立ち入りを禁じられている寝室のドアは開かれたままで、母親が脱ぎ散らかした服やブランド物の鞄で溢れていた。

 そんなゴミ屋敷には不釣り合いなアップライトピアノが置かれていた。

 かじかむ手で弾くピアノは重く固く、それでも私は久しぶりのピアノの感触が懐かしくてウキウキと心が弾む。

 弾いている曲は、母親が機嫌のいい時に教えてくれた「キラキラ星」だ。

 この時の私はキラキラ星を自分の好きなようにアレンジしており、辛うじてキラキラ星とわかるほどアレンジしていた。

そもそも酔っ払った母親が教えたキラキラ星は原曲とかなりかけ離れており、初めて原曲のキラキラ星を聴いた時はとても同じ曲とは思えなかったほどだった。

私は皆が当たり前のように歌える「キラキラ星」を歌うことができなかったのだ。

母親は私の出生証明書を届けておらず、私は無戸籍児だった。

母親は私の存在を隠しており、私は母親から保護されるまでこのアパートの一室から出たことがなく、私の世界は本当にこの部屋だけだったのだ。

 おもちゃもテレビもないこのアパートで、この町立の外れたピアノだけが私の遊び道具で、親友で、家族だった。

 キラキラ星を弾き終え、子供の紅葉のような手でも弾ける曲を選んで弾いていく。

 子供の頃に知らなかった曲たちはすんなりと私の小さな手でも弾くことができた。

 どうせ最後にピアノが弾けるなら、大人の姿のままにしてくれたら良かったのに。

 そしたらもっと難しい曲をたくさん弾くことができるのに。

 そう思った時、初めてピアノのコンクールに出させてもらった時の小学生低学年の子が弾いていた曲を思いだす。

 もしかしたらこの小さな手でも、頑張れば弾けるかもしれない。

だって、自分よりもはるかに小さな小学校低学年の子が弾いていたではないか。今の私も同じ年ごろなのだから弾けるに違いない。

 そう自分を励まして、ショパンの幻想即興曲を弾き始める。

 かじかむ手と小さな手ではミスタッチが目立ち、思っていたテンポよりもだいぶゆっくりだったが、それすらも楽しかった。

 曲の最後の和音をしっかりと全音符まで伸ばそうとした時だった。

 頭を勢いよくひっぱたかれ、小さな体はピアノの椅子からゴミで溢れた床へと叩きつけられる。

 その衝撃で肺の中から空気が一瞬にして抜け、思い出したくもない慣れた痛みが全身を襲う。

 痛みでやっと開けた瞳に映し出されたのは、懐かしい母親の姿だった。

「汚い手でピアノに触るなって言っただろう!このクズ!」

全身からアルコール臭を漂わせた母親は露出の激しい派手な赤いドレスに身を包んでいて、伸びた爪黒いマニキュアが塗られていて爪を噛む癖があるため所々剥げていた。ウェーブのかかった金髪の長い髪はボサボサで痛んでおり、マスカラは滲み目の周りを黒く染めている。

 この時、母親がどうしてこれほど酔っぱらうのかわからなかったが、大人を経験したいまならわかる。

 男にまたフラれたのだ。

 美しすぎるピアニストとしてほんの束の間の話題になった母親は、今ではアルコールの沼にどっぷりとはまった中毒者でしかなかった。世間を賑わせた美貌の片鱗すら見ることができない。

「なんだよ!その眼つきは!クズの癖に生意気だな!」

 母親が持っていた金チェーンの鞄を振り下ろし、私を殴る。

 鞄はまるで鞭のように私の背中を打ち、鞄の金具が私の肌に当たり、擦り傷を作る。その擦り傷らじわじわと血が流れる。

 私は昔と同じように、頭を抱え丸くなり母親が殴り疲れるのをひたすら待つ。

 動いても、声を出してもいけないのだ。

 そうしないと、母親はもっと私を殴るから。

「こっちは、お前のために身をボロボロにしてまで働いてたのに!その間、お前は優雅にピアノを弾いてたのかよ!ずいぶん偉くなったもんだな!お前を産んだせいで、私の人生は滅茶苦茶になったのに!」

 母親はひとしきり私を殴った後、震える私をいつものように押し入れに閉じ込める。

 全身にできていた古い緑や黄色の痣の上に、新しくできた赤い痣が重なる。

 押し入れの中のかび臭い匂いも記憶の通りで、私はこれが本当に夢なのだろうかと訝しく思う。

 ズキズキと痛む全身よりも、何かが潜んでいそうな暗闇の方が恐ろしく怖がっていたことを思い出す。

 部屋はゴミや母親の服などで溢れかえっているのに、なぜか押し入れは空っぽで、もしかしたら母親は私を閉じ込めるために空っぽにしていたのだろうか?それとも単純にものをもとの場所に戻せないだけ?

 上下二段に別れた押し入れは狭くて暗くて、本当にこの押し入れの中が大嫌いだった。

 母親が押し入れには人を食う虫がいると、私を脅していたのも理由の一つだった。

「お前なんか、押し入れいる恐ろしい虫に食われればいいんだ!」

 子供の頃の私は、いつも母親に出してと泣きながらお願いしていた。鼻水や涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら必死でお願いしても、母親が出してくれたことは一度もなかった。

 今の私は、それがわかっているからか泣くことすら無駄に感じ、母親のなすが儘に押し入れに閉じ込められる。

 その様子に母親は一瞬、ほんの一瞬不安そうな顔を浮かべたが、私が思ったよりも冷静だったことに腹を当てたのか頬を引っぱたき、ピシャリと押し入れの扉を閉めてた。

 私は膝を抱えて母親が解放するか、母親が外出するのを待つ。

 母親が外出すれば押し入れの扉をドンドンと力任せに叩き、母親が閉じ込めるために扉に置いた棒が外れて外に出ることができるのだ。押し入れの扉の立て付けが悪いからできる裏技だった。

 そして、母親が食べ残したごみを漁り、餓えた腹を少し満たすことができるのだ。

 今思うと、母親は本気で私を殺す気はなかったのだと知ることができた。私が死なない程度に食料を食べ残し、死なない程度の間隔で家に帰って来るからだ。

 そのことに初めて気が付いた時、こんな母親でも私のことを愛してくれていたのだろうかと期待したこともあった。

 でもきっとそれは違うのだ。母親は私を殺す勇気がなかっただけなのだ。

 これ以上母親を刺激して殴られないように、押し入れの中でじっと動かずに待ち続ける。

 そのうち、母親の鼾が聞こえてきて母親が熟睡したことを知る。

 母親が泥酔したときは決まって大きな鼾をかく。隣の男が「うるさい!」と壁を殴るほどにうるさいのだ。それがないということは、隣の男は出かけているのかもしれない。

 もし、もしもこれが夢でないなら―。


「また、お母さんに殴られたの?」

 懐かしい男の子の声が、隣の部屋から私に囁く。

 誘拐され殺害された磐井笙真しょうま、磐井公泰の三つ子の弟の声がはっきりと聞こえたのだ。
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