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第二章 魔性の妹

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 彼女の名前は蘇芳 八千夜やちよという。
 千歳の二つ下で、自分達と同じ大学の同じ学部に進学してきた。
 彼女の存在を知ったのは、景幸達が大学三年生、八千夜が大学一年生となってしばらくした頃だ。
 その頃の千歳は大学に来ることがめっきり減り、このままでは単位を落とすのではと心配していた。そうしてこれ以上サボるわけにはいかない授業に無理矢理引っ張って行く途中で彼女と出会ったのである。

「あれ、兄さん?」

 授業の合間で賑わう構内でも、その声はハッキリと聞こえた。
 思わず振り返れば、顎のラインが際立つ短い黒髪に、深い緑が美しいセットアップのジャケットを着た女が立っている。意思の強そうな太い眉に、グリッターのアイシャドウが輝く瞳はこぼれそうなほど大きい。
 学生というより撮影や取材に来た芸能人だと言われた方が納得できる。同時に彼女を見て、すぐに理解した。
 "これ"は千歳と血を同じくする生き物だ。そうでなければ瓜二つの美貌や、視線を合わせるだけ引きずり込まれそうになる雰囲気に説明がつかない。
 だというのに千歳は、立ち止まった景幸の腕を引き、何事もなかったかのごとく進んでいく。ちらりと見た横顔は青ざめ、それから煮えたぎる怒りに満ちていた。

「あいつには関わるな」

 一言だけ千歳が言った。その言葉で、やはり彼らには血縁関係があり、もっと言うなら彼女が言った通りあの女は千歳の妹なのだと悟る。

「千歳がそう言うならそうするけど……妹となんかあったの?」
「あいつを妹だなんて思ったことは一度もねえよ。あれは悪魔だ。お前まであいつに巻き込まれることはねえ」

 なるほど、確かに悪魔の妹は悪魔に違いないだろう。
 能天気にも、ただそれだけを思った。


 何度も言うように、この頃から千歳は本当におかしくなり始めた。
 おかしい、というより正気でないという表現があっているかもしれない。
 これまではバカのやることだと言って絶対に手を出さなかったドラッグを常用し、いつも夢の世界に逃げていた。
 大学にも滅多に来ず、たまに来たかと思えば虚ろな目でノートの端にわけのわからない落書きをするばかりだ。そんな千歳にあわせ、景幸も大学に行くことが減った。三年の単位を落とし、二回目の三年生が半年を過ぎたあたりで大学を辞めた。もちろん千歳が中退したのでそれに合わせたわけである。
 大学を中退してからの千歳は、さらに歯止めが効かなくなった。それまでの千歳はちんけな喧嘩を買ったりと、やりすぎることはあっても明確な意思を持って犯罪に手を染めることはなかったのだ。
 それが酔っぱらいを恫喝したり、女を騙して薬漬けにし風俗に落としたりしては小銭を稼ぐようになった。警察に相談されないよう、相手を選んだり対処をするのは景幸の仕事だ。本能のままに動く千歳が、法に罰せられないよういつも神経を張りつめさせていた。
 一度だけ、どうしてこんなことをするか聞いたことがある。ドラッグとアルコールで意識が飛びかけていた千歳は、土気色の頭をソファの背に預け、クラブミュージックにも負けぬ大声で言った。

「だって俺だけが地獄に行くなんて寂しいじゃん!」
「は?」
「地獄でも一緒にいようぜ、景幸」

 そう言って千歳が笑った。出会ったばかりの頃と変わらない、無邪気な笑顔だ。
 千歳の耳にも、景幸の耳にも、お揃いのピアスが光っている。思えば千歳からなにかをもらったのは、このピアスが最初で最後だ。

「当たり前だろう、バカ」

 当たり前だ。自分達は悪友で、親友で、最期を見届けるものと見届けられるものなのだから。お前だけを地獄に落とすわけがない。
 このときは本当に、本気でそう思ったのだ。



 最近、身の回りでおかしなことが起きている。
 家に空き巣が入った形跡があるのに、部屋が荒らされたばかりでなにも盗られていない。求愛らしき言葉を羅列した、意味不明な怪文書が毎日部屋の扉に貼られている。極めつけには愛車の扉に精液らしきものがつけられていたのだ。

「千歳の悪質な信者に目をつけられちゃったかなあ……」

 いつものバーで酒を啜りながらひとりごちる。それを隣で聞いていた仲間が、驚愕に満ちた顔で口をあんぐりと開けていた。

「いやいやいやいや、なんでそうなるんですか。どう考えても景幸さんのストーカーでしょ。しかも即警察に行ったがいいレベルのヤバい奴」
「えー、だって千歳のお願いでこの数年女ともろくに喋ってないんだよ。誰かに惚れられる暇とかないってば。そうなると俺が千歳と居すぎて嫉妬されたとかしか思いつかないし」
「三つも四つもツッコミたいことがある……」

 そう言って頭を抱えるのは、最近グループの仲間になった新人だ。
 景幸達のグループは、景幸と同じように千歳の破滅を見届けたい者か、むしろ彼を地獄から救いたいと盲信している者でできている。この不健康で宗教じみた集まりのトップは千歳であり、それをまとめているブレーンが景幸なのだ。
 グループと言っても集まってやることは仕様のない小遣い稼ぎか、寂しがりな千歳の為に酒を飲んでバカ騒ぎを起こすばかりである。このグループの人数が増えるにつれ、千歳は少しずつ景幸といる時間を減らしていた。

「千歳さんには相談したんですか?」
「心配かけたくないからまだ言ってない。でも勘づいてはいそうだけどね」

 離れた場所でダーツに勤しんでいる千歳を見る。あの千歳が自分以外とあそこまで意気投合し、挙句の果てに景幸がいなくても他人と喋るなど少し前までは想像もできなかった。
 近くにいた青年の頭を笑顔で撫で回す千歳を視界にうつせば、腹の奥で冷たい感情がのたうち回る。千歳へ無遠慮に触れる馬鹿どもを残らず殴り倒してやりたくなった。

「景幸さーん、また人殺しみたいな目をしてますよ」

 新人が呆れ混じりに顔を覗き込んでくる。だが言ってる意味がわからずに首を傾げた。

「千歳のことをそんな目で見るわけないだろ。第一人殺しはコスパが悪い」
「人殺しにコスパって」
「だってそうじゃん。殺人未遂と殺人ってだけでも実刑の重さが違うしさ。社会的にも生きづらくなるし、それ以上に人を殺してなにも思わず生きていける性格はしてないよ」

 悪魔とも呼べる千歳でこそ、人を殺した直後に腹が減ったと言って焼肉に行くような図太い奴だが、生憎景幸はただの人間だ。ムカつく奴を半殺しにはできても、一線を超える覚悟はない。
 とは言え、千歳のためとあれば人殺しにでもなれるだろうなという確信はあった。【千歳を守るために】【千歳の望みを叶えるために】という免罪符を持って、自分はどこまで落ちていくのだろうか。

「……つまんな、俺はもう帰るわ」
「え、もうですか!? えっと、じゃあ千歳さんも呼びますか!?」
「いいよ、あいつは楽しそうだしそのままにしてあげて。その代わり千歳のことよろしくね」
「クソ過保護の景幸さんが、千歳さんと別行動しようとしてる……だと!?」
「お前は俺のことをなんだと思ってるのさ」

 そんなくだらないことを言い合いながら立ち上がった時、通りかかった酔っぱらいとぶつかる。刹那、酔っぱらいは赤らんだ顔を般若のごとき形相へ変え、謝る間もなく景幸の襟元を掴みあげてきた。

「いってえな! なにすんだてめえ!」
「え、ガラ悪いうえにすげえ短気なんだけど。ここまで発展するのに一秒ってなにごと」

 驚きのあまり素直な感想がでる。新人すら真っ青になって景幸を咎めるこの言葉に、酔っぱらいは怒りで震え始めた。
 騒ぎを聞きつけ、なにごとかと店中の視線が集まる。その中には千歳もいた。絡まれている景幸を見ると、何故だか彼が怯えた目で慌て始める。

「かげゆっ──!」

 千歳が立ち上がると同時に、酔っぱらいの拳が景幸の頬を殴り飛ばす。
 それから大乱闘が起き、景幸は腕の骨を折るし、千歳も弱い癖に景幸をかばって全治一ヶ月の大怪我をした。
 警察が来る前に逃げ出した先の景幸の部屋で、千歳は柄にもなくベソベソと泣き続けていたのだ。その姿があまりにも可哀想で、美しくて、たまには怪我もしてみるもんだなと思ったことは内緒である。



 千歳が一線を越えた。
 それは大乱闘による怪我が治った頃であり、二人が二十四歳になる年だった。
 法に触れることも、倫理観が欠如していることも、なんでもやっていた千歳が、仲間に言って実の妹を拐わせてきた。これが蘇芳 八千夜との二度目の出会いだ。
 景幸達が根城にしているクラブのVIPルームに連れ去られてきた八千夜は、初めて会ったときとなにひとつ変わっていなかった。
 顎に沿って斜めに切られた短い髪。意思の強そうな切れ長の瞳。真一文字に結ばれた真っ赤な唇。そして銀幕の向こうが似合う、華々しい黒のドレスを着ている。
 手足を縛られ、兄の足元に転がされた八千夜は、これから起きることを予想できただろう。だが彼女は怯えることなく、真っ直ぐに千歳を見上げていた。
 それに千歳が舌打ちする。薬が切れた彼はいつもなにかに怯え、その恐怖を払拭するように周りへ当たり散らす。
 このときも同じだった。怯えた目で、罵詈雑言を浴びせながら八千夜の顔や腹を蹴りあげる。呻き声をあげるだけの彼女は、泣き叫ぶどころか、どうしてこんなことをするのかと兄を問い詰めることもしなかった。

「ふざけんな、全部てめえが悪いくせにそんな目で見てくんじゃねえよ! てめえも俺と同じ目にあえ! 俺と同じ思いをしやがれ! てめえが全部の元凶の癖にっ、なんで俺のこと哀れむように見てくんだよッ!」
「その辺にしとけ、千歳! 顔まで傷つけたらこの後売れないだろ!」

 さすがに不味いと思って止めに入る。そこでようやく我に返ったのか、千歳は何度も肩で息をしながらも止まってくれた。
 なんとなく視線を向けた八千夜は、顔をうつむかせ震えていた。泣いているのかもれない。当たり前だ。拉致され、しかも主犯が兄であったのだ。戸惑うことも、恐ろしくなるのも道理である。

「あとはいつも通り任せる。俺達は外で飲んでるから、終わったら声かけろ」

 短く指示をだし、うなだれている千歳を引きずって部屋を出た。
 下のフロアにあるカウンターに寄りかかると、千歳のために酒を頼む。それを千歳は一気に飲み干した。顔色は相変わらず悪いし、歯はガチガチと打ち鳴らされている。
 ドラッグが切れた副作用であることは一目瞭然だが、それだけが理由ではない気がした。とは言っても、この男が今さら妹にした仕打ちを後悔して震えているとも思えない。
 こんなときの千歳にはなにを話しかけても無駄だと知っているので、なにも声をかけず酒を煽り続けた。
 それから三十分程経った頃だろうか。VIPルームのある二階と、遅れてフロアからざわめきが起きる。ざわめきというより、恐怖と困惑が広がっていく様子だ。
 その場にいる誰もが、なにかを恐れているのに地面へ縫いつけられたかのごとく動かない。ただ恐れに満ちた視線を、皆がある一点に向けていた。
 この変化に景幸は眉をひそめたが、千歳だけは乾いた笑い声だけをあげる。カウンターに突っ伏した頭を抱え、「やっぱりあいつは悪魔だ……」と呟いた。

「探したよ、兄さん」

 フロアの異変に気づき、クラブミュージックが止まる。それと同時に彼女が言った。声を張り上げているわけでもないのに、不思議とよく響く声だ。
 人垣が割れる。モーゼの海割りのごとく。その中央から、悪魔が現れた。
 下着だけをつけ、暴行のせいで顔を腫れ上がらせ、体中にはいくつものアザをこしらえた彼女が、頬に飛び散った返り血をぬぐう。その拳には誰かを殴ってできた傷がいくつも増えていた。

「私、暴力は嫌いなんだよね」

 酷い冗談だ。本当に暴力が嫌いな女は、犯される寸前で男三人を沈黙させた後逃げることなどできない。
 同時にやはり、この女は千歳の妹なのだと理解した。
 目が離せない。意味もなく頬が歪む。
 それは間違いなく、千歳の苛烈な美しさを初めて見たときと同じ興奮だった。



 それから景幸は、千歳に隠れて八千夜と交流を持つようになった。
 千歳もあの一件で八千夜をどうにかしようとすることを諦めたらしい。いや、これ以上関わりたくないと思ったのかもしれない。八千夜の話題に触れることも、情報を集めようともしなくなったので、景幸にとっては都合がよかった。
 この年になって初めて気づいたのだが、自分は平凡と穏やかな日常というものが嫌いらしい。同時に苛烈で刺激的な人間に惹かれるらしく、蘇芳兄妹に興味を持つのは当然のことと言えた。
 景幸のスマホは、定期的に千歳が確認していた。仲間や弱味を握っている奴以外の連絡先が入っていれば、千歳がどんな反応をするかわかったものではない。それどころか彼があんなにも嫌っている妹と連絡をとっているとバレれば殺される。
 だからこそ八千夜の連絡先は暗記し、連絡をとっている履歴も都度消した。密通しているような行いは、ほどよい興奮となって景幸を楽しませた。

「アンタも兄さんも頭がおかしいよね」

 何度目かの会瀬で、八千夜にせがまれて自分と千歳の過去を語る。その内容に、八千夜は呆れた顔でため息をついた。

「二人とも異常だよ。こんなもの、依存関係となにも変わりがない」
「おかしくないよ。俺はあいつといたいし、あいつには俺が必要だから。お互い求めあってるんだからなにも問題ないでしょう?」
「そういう問題じゃないと思うけど……」

 そう言って八千夜がレモネードに差したストローを齧る。
 酒を飲まない八千夜と会うのは決まって昼間だ。この時間なら千歳は寝ているというのも理由のひとつだ。

「おかしいっていうなら八千夜ちゃんもじゃない? 君を嫌ってる兄のお友達とこうして会ってくれるんだからさ。また誘拐されるとか思わないの?」

 独り暮らしをしている八千夜の自宅前で、彼女の帰りをじっと待っていたのが三ヶ月前だ。そのときも、それからも、景幸が誘えばなんの警戒心もなくついてきた。他人事ながらも少々心配になるほどの無防備さだ。
 だが八千夜はそんなことかとばかりにため息をつく。頬杖をつき、遠くを眺める横顔はまともだった頃の千歳によく似ていた。

「兄さんは五年前には家を出たし、その前からろくに話もしなくなってたから、兄さんが今なにをしてるかとかアンタに聞かないとわからないの。嫌われてても兄妹なのは変わらないから、やっぱりどうしても気になるんだよ」
「そういうものかな? たかだか血縁関係のために、自分から危険に巻き込まれるなんて不気味な感じもするけど」
「景幸くんだって、赤の他人の兄さんと地獄へ心中しようとしてるじゃん。私にはそっちの方が理解できないね」

 困った顔で笑われる。千歳を中心としていながら、理解できないもの同士の関係なんておかしな話だ。素直にそう言えば、八千夜は眉根を寄せて笑った。大好きだった千歳の面影に、わけもわからず哀愁を感じる。

「でもね、私もたまに、兄さんのことが怖くなるよ。昔っから危なっかしい人だったけど、久しぶりに会ったらもっと危なくなってるんだもん。あれじゃあいつか、周りの人まで巻き込んで破滅しちゃう」
「いいんじゃない? 千歳も周りの奴らもそれを望んでるんだし」
「よくないよ。私はこれでも兄さんの妹なんだから。できるだけ兄さんには幸せになって欲しいもん。それにできれば、あんな兄さんの面倒をみてくれてる人達にも不幸にはなって欲しくないかな」

 八千夜は真剣な顔で言った。あんな目にあっておきながら、本気で兄の幸せを望んでいるのだ。自らの貞操と尊厳を無理矢理に奪い、金銭で売買されるモノ同然にまで落とそうとした男を哀れむとは、なんと聖女のごとき清らかな心であることか!
 その薄ら寒さに歓喜で震える。にやける口許は片手で隠した。
 高潔で、慈悲の心を持つ、頭のイカれた聖女さま。
 まともだった頃の千歳の面影を持ちながら、千歳以上にイカれた彼女に心が向かい始めた。



 八千夜には夢があった。編集の仕事について、物語を生み出す手助けをしたいと言った。それが暗い子供時代の自分を救ってくれた、本への恩返しなのだと。
 八千夜には野望があった。一人で生きていけるだけの強さを身につけ、将来は海外で暮らしたいと言った。
 八千夜には祈りがあった。兄妹の不仲や進学のことで苦労をかけた両親に、いつか恩返しをしたいと言った。もう少し自分の生活が落ち着けば、海外旅行くらいには連れて行きたいのだと笑った。
 ありふれた夢を抱える彼女は、平凡で、面白味がなく、まるで誰かの夢や理想で着飾った虚構のようだった。苛烈な悪魔の血を、器用に聖女のベールで覆う姿に、より興味を惹かれた。
 それは興味と言うより、遅い初恋と言ってもいいものになっていたのだ。
 その恋心に浮かれ忘れていた、と言うのはあまりにも格好つかない言い訳だろう。
 景幸が千歳を盲信していたのと同じくらい、千歳もまた、景幸に執着していたのだということを。
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