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第一章
八話
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湿気をやや含んだ髪に指を通し、椅子に腰かけた。亜美はいつも、お風呂に入ってから夕食を食べる。汗とかそういうものではなく、なんだかそういう気分なのだ。これだから意味わからないと思われるのだろうか。——とつま先を何者かに捕らえられた。視線を落とすと飼い猫のしろまるが、亜美のつま先でじゃれていた。はっきり言うと、結構痛い。白いマンクスであるしろまるは、ほぼ大人なのだが一歳未満なのでまだまだ子供だ。だから、まだ加減というものが分かっていない。
「しろちゃんは相変わらず亜美が好きねぇ。やっぱり男の子だから若くて可愛い女の子が好きなのかしらね」
キッチンの方からお盆を持った祖母が現れた。ふくふくとほほ笑む祖母は、今年で七十代突入である。その傍らでスプーンを並べる祖父と同い年だったはずだから、きっとそのはずだ。間違っていたらごめんなさい、と言ったらどうなるだろうか。今この家では、祖父母と亜美に加え、里親から預かったしろまるが暮らしている。ちなみに母は地方へ単身赴任、父は青森で教師をしているため、両親はあまり家にいない。会えるとすれば週末か長期休暇くらいだろうか。幼い頃からその環境は当たり前で、特に文句はなかった。でも、少し寂しいかもしれない。食器を食卓に並べるのを手伝い、椅子に座る。そして合掌、いただきます。スプーンを手に取り、慣れた手つきでライスにルーを絡める。トマトの酸味の効いたハヤシライスを頬張り、しばらく至福に浸る。やっぱり、おばあちゃんのご飯は最高だ。
「そういえば、亜美。部活はどうなの?休日いないことが多いけど」
「うーん。やっぱり厳しいよ。でも、コンクールで全国目指すならこのくらいなんだなって思う」
「そうなのね。コンクールのチケット頑張って取るからね。お父さんお母さんも応援してるって」
「そっかあ、倍率高そうだけどねぇ」
そう、曖昧に濁した。地方大会もそれなりにだが、全国大会となるとチケットの倍率は非常に高くなる。理由として、予選大会を勝ち抜いてきた強豪校の生演奏が聞ける、というのが一番答えとして合っているだろう。すると祖父が、チャンネルを手に取りテレビをつけた。たまたまついたのは、ゴールデンタイムのバラエティ番組だった。テロップには、フルート国際コンクールについての話題が上がっている。なんだか、島田先輩が好きそうな話題だ。よく見知った男性芸能人が、司会を進めていくのを眺めていた祖父が、こちらへ視線を送ってきた。
「亜美もフルートだったな、確か」
祖父の言葉に「そうだよ」と一言返す。にしても、この世にフルートの国際コンクールなんてあったのか。話題に上がっているコンクールは神戸で開かれているものらしく、世界的にも有名とのことだ。そして、どうやら今年は日本人が一位に輝いたらしい。なんだか、興味をそそられる。
『では、登場してもらいましょう!この方です!』
派手な赤い幕が上がり、そこからすらりと長い脚が見えた。磨かれたローファーにピシッと決まった燕尾服。その姿を見て、亜美はすぐに誰か分かった。この人って——。
「島田灯瑠さんだ」
テロップが出る前に、亜美は早口に呟いた。すると祖母が目を丸くする。
「あら、知っているの?」
「うん、フルート奏者なら誰でも憧れの象徴だよ」
そして島先輩のお父さん、という言葉はギリギリで言いとどまった。久保島先輩と同類になるのはごめんだ。にしても、この人も昔はさぞ美青年だったのだろう。パーツの端々から滲み出る端正さ、ハーフならではの異質さ。それらがいい塩梅で溶け合い、今の灯瑠さんを形成している。蓮美さんも可愛らしい人なので、島田先輩は両方の遺伝をいい塩梅で受け継いでいるのかもしれない。ふとその時、フルートパートの部員たちの顔を思い浮かべた。あれ、良く思えば……何気に顔面偏差値が高いパートだ。フルートという楽器の印象もあるが、やはりもともとの素質は磨かれている。もしかしたら、亜美だけ浮いているかもしれない。自称パンダ顔の亜美には、少しだけショックなことだった。勝手に落ち込んでいると、餌を食べ終えたしろまるが構ってほしげに膝に両手を置いていたので、そっとその額を撫でてやる。すると招き猫みたいに目を細めたので、そのまま毛に埋もれて目がなくなってしまいそうだ、と思った。再度テレビ画面に目を向けると、灯瑠さんは無表情のままトークを続けている。
やっぱり親子って似るもんだな、としきりにうなずいた。
「ごちそうさま」
無心にハヤシライスを平らげ、手を合わせた。水を飲むよう祖母に言われ、しぶしぶ水道から水をコップに注ぎ、少しずつ飲んだ。これに何の効果があるかは分からない。だが、もう昔からの祖母の口癖なので、そこまで気にすることではないと思う。階段を上り、自室の扉を開くとそのまま床に座り込んだ。亜美は昔から床に直接座るのが好きだった。なんというか、床の摩擦感が丁度いいのだ。机の上を一瞥し、頭の中でチェックをつける。数学、やった。単語練習、やった。白文帳、やった。生活記録、やった。宿題は、先程全て終わらせたので、寝る前の手持ち無沙汰な時間ができた。ちなみに、白文帳というのは長野県特有の黄土色が特徴的な漢字練習帳だ。レターサイズくらいで謎にマス数が多く、長野県の中学生たちを苦しめている練習帳である。
「なー」
のこのことこちらに歩み寄り、膝の上で丸くなったしろまるを撫でながら、そっと深呼吸をする。何気なく、白いちゃぶ台の上のパソコンをこちら側に手繰り寄せ、起動ボタンに人差し指を添えたが、結局押さずにベッドの側面にもたれかかった。今日はなんだか情報量が多い一日だった。全教科のテストが返ってきたこと。先輩たちによる曲のテストがあったこと。去年フルートパートを舞台としたいじめがあったこと。そして、未来が島田先輩の従兄弟であったこと。思い返す度に情報量は増えていき、頭の整理が全くと言っていいほど追い付かない。まあ、とりあえずテストと曲のチェック、従兄弟問題は置いといて。まず、去年ソロを巡ってフルートパートにいじめが起きたこと。ソリストは島田先輩だったから、間違いなく彼が関わっていることに違いない。けれど、島田先輩が先輩にいじめられたくらいでへこむような人にも見えない。言っておくが、悪口ではない。それに県ノ坂は昔からの強豪で、コンクールのオーディションの結果にはそこまで渋るような人はいないだろう。
「——そういえば、去年の結果なんだろう」
ぽつりと落ちた呟きに、すぐさまパソコンを起動させた。検索結果に引っかかったデータベースをクリックし、スクロールする。県ノ坂中学校吹奏楽部の結果はすぐに表示され、去年のコンクール結果を開いた。
——中信大会〇金賞 県大会〇金賞 東海大会×銀賞 全国大会×
ふむ、と腕を組んでうなずく。元弱小吹奏楽部員からすると、普通にいい結果だった。けど、県ノ坂の目標は毎年「全国大会金賞」だ。そう考えれば、去年の部員たちは……果たして、その結果に納得したのだろうか。思わず、ごくりと唾を呑みこむ。そして、一瞬とても嫌な想像をした。
「……っ!」
慌てて首を振り、頬を両手でパシンと挟んだ。一体何を、自分は考えているのだろう。結果を一人に背負わせる、などと。一つの物事について深く考え込んでしまう自分の癖が、今はとても憎らしく感じた。とにかく、別のことを考えよう。目
をつぶれば、パート練習での課題点がいくつも浮かぶ。よし、早速スクールバッグから楽譜のファイルを取り出した。ファイルを開くと、そこかしこにアドバイスの言葉が書き示してある。本当にみんな、いい人たちばかりだ。譜面を指でなぞってハミングすれば、気分はいくらか爽快になる。この時は既に、先程の事は忘れていた。
「では、十五分間休憩を取ります」
その言葉を聞き、亜美はそっと肩の力を抜く。今日の合奏はフルートとクラリネットが集中砲火を浴びた。椅子の下の水筒を手に取り、蓋をくるくると開ける。口に水筒を傾ければ、ひんやりとした感覚がのどを走り抜けた。楽譜に新たな書き足しが増え、それらを眺めながら先程までの等々力先生の指摘を思い出す。
「フルート。Eの二小節目はオーボエの音をよく聞いてから入ってください。音の粒、ズレているの気になります」
「だから、毎回言ってますがそこは一息で。音が切れるのみっともないです。合奏の度間違えては意味がありません」
「最後の小節。三連符の二つ目の音が詰まってます。タタタと均等に」
思い出す限りまだまだたくさんの指摘を受けた。止めては吹き止めては吹きの連続で、木管パートの部員たちは少しだけ疲れていた。
「フルート、凄い集中砲火されてたな……て、その割には涼しい顔してんなお前」
トランペットパートからのこのこと歩いてきた久保島先輩が、島田先輩に話しかけている。確かに、彼からはまだ精力が満ち溢れている。まあ、さすが音楽一家の子供と言おうか、吹き続ける体力は人並み以上にあるのかもしれない。
「疲れるのに慣れてるだけ。で、何」
「やだ、話しかけちゃダメって言うの?もー、そんな悲しいこと言うなよ!俺泣くぞ!いいのかよ!」
「妄想力のネジ外れてるんじゃない」
「大丈夫、愛想のネジは表面がえぐれて、ひび割れるくらい深くしまってるから。ま、お前の場合はそもそも穴も開いてなさそうだけど」
「あっそ。じゃ」
「えっちょ、おい涼。覇瑠がいつもに増して塩分が濃い!」
「単純に疲れてるんだよ、そっとしておこう」
久保島先輩の悲観じみた声に、川本先輩が大人な対応を見せる。何気に、この三人は仲が良い。水筒の蓋をキュッと閉めると、ツンと裾を何者かに引かれた。そちらに顔を向けると、未来がにこにこと微笑みかけてきた。何だか、ぞわっとした。彼女の表情があまりにも何かを隠しているように見えたから。
彼女は小首を傾げると、音楽室の扉を指さした。
「ちょっと、廊下で話したい」
「え、あ、うん」
未来の指示に従い、席を立った。久保島先輩たちが一瞬こちらに目配せをしたが、あまり気にしないことにした。廊下に出ると、あまり人はいなかった。だが、未来は気になったのか眉を少しだけひそめた。彼女の後を追い、あのピロティの奥の非常階段に辿り着いた。ずっと無言のままの未来が気になり、思わず顔を覗き込む。
「……未来?」
そう呼び掛けて、やっと未来と目が合った。彼女は一瞬ためらったが、すぐにこちらに向き合った。
「あのね、私考えてみた」
「え、何を?」
「音が変わってしまった理由」
「ああ」
そういえば、彼女は島田先輩と従兄弟関係だったことを思い出した。今になっても、全く信じられないが。残念ながら、亜美にはどこが変わったのか分からない。技術は向上しているし、先程の合奏でも臨機応変に訂正していた。だから、亜美にはよくわからなかった。未来が何に悲しみ、悔しそうにしているのかが。
「えっと、未来。よく思ってたんだけど、音が変わるってどういう——」
「言うなら創造性。あの人は元々、情感豊かな演奏をする人だった。なのに……」
彼女は一回目線を落とし、それから自分の手のひらを見つめた。とても、どこか悩むように。
「いつの間にか、作り物の演奏をするようになった。自分の思いをかき消すような」
「えっ、作り物?」
戸惑いを隠せず、つい口をはさんでしまう。まず、作り物の演奏とは何なのだろうか。そこから、私はわからない。すると、未来はそれを聞いて酷く悲しそうな顔をした。ドクン、と鼓動が大きく響く。間違えた、そう思った。彼女は今きっと、共感を求めていた。疑問をすぐに口にしてしまう自分が酷く醜い。やや眉をひそめ、上履きの中でつま先を丸めた。未来はふっと息を吐きだすと、無駄に笑顔を取り繕った。
「ごめん、これが言いたかっただけ。じゃあ、音楽室に戻ろうか」
言葉をかけようとして、亜美はそれをためらった。今彼女は、何の言葉も望んでいるように見えなかった。顔の筋肉をフル稼働させて、亜美は無理やりはにかんだ。
「うん、戻ろう」
歩き出す彼女の後を、亜美は追う。何だか今は、彼女の隣を歩くことはできなかった。彼女も、きっとそれは望んではいない。とりあえず、このことは頭の隅に置いておくことにした。それが無視と同等のことは分かっていた。だが、今はそれを気にしている暇はない。なぜなら今は六月で、数週間先にオーディションを控えていたのだから。それに、その話に自分が首を突っ込んだら危険な気がした。人間関係を脅かせるような危険な香り。もし首を突っ込んで今までのすべてが崩れてしまったら。それがとても、恐ろしく怖かった。未来と島田先輩の関係に手を出したら、重傷を負うことくらい、亜美には分かっていた。
それが今できる、最善の選択だった。
「しろちゃんは相変わらず亜美が好きねぇ。やっぱり男の子だから若くて可愛い女の子が好きなのかしらね」
キッチンの方からお盆を持った祖母が現れた。ふくふくとほほ笑む祖母は、今年で七十代突入である。その傍らでスプーンを並べる祖父と同い年だったはずだから、きっとそのはずだ。間違っていたらごめんなさい、と言ったらどうなるだろうか。今この家では、祖父母と亜美に加え、里親から預かったしろまるが暮らしている。ちなみに母は地方へ単身赴任、父は青森で教師をしているため、両親はあまり家にいない。会えるとすれば週末か長期休暇くらいだろうか。幼い頃からその環境は当たり前で、特に文句はなかった。でも、少し寂しいかもしれない。食器を食卓に並べるのを手伝い、椅子に座る。そして合掌、いただきます。スプーンを手に取り、慣れた手つきでライスにルーを絡める。トマトの酸味の効いたハヤシライスを頬張り、しばらく至福に浸る。やっぱり、おばあちゃんのご飯は最高だ。
「そういえば、亜美。部活はどうなの?休日いないことが多いけど」
「うーん。やっぱり厳しいよ。でも、コンクールで全国目指すならこのくらいなんだなって思う」
「そうなのね。コンクールのチケット頑張って取るからね。お父さんお母さんも応援してるって」
「そっかあ、倍率高そうだけどねぇ」
そう、曖昧に濁した。地方大会もそれなりにだが、全国大会となるとチケットの倍率は非常に高くなる。理由として、予選大会を勝ち抜いてきた強豪校の生演奏が聞ける、というのが一番答えとして合っているだろう。すると祖父が、チャンネルを手に取りテレビをつけた。たまたまついたのは、ゴールデンタイムのバラエティ番組だった。テロップには、フルート国際コンクールについての話題が上がっている。なんだか、島田先輩が好きそうな話題だ。よく見知った男性芸能人が、司会を進めていくのを眺めていた祖父が、こちらへ視線を送ってきた。
「亜美もフルートだったな、確か」
祖父の言葉に「そうだよ」と一言返す。にしても、この世にフルートの国際コンクールなんてあったのか。話題に上がっているコンクールは神戸で開かれているものらしく、世界的にも有名とのことだ。そして、どうやら今年は日本人が一位に輝いたらしい。なんだか、興味をそそられる。
『では、登場してもらいましょう!この方です!』
派手な赤い幕が上がり、そこからすらりと長い脚が見えた。磨かれたローファーにピシッと決まった燕尾服。その姿を見て、亜美はすぐに誰か分かった。この人って——。
「島田灯瑠さんだ」
テロップが出る前に、亜美は早口に呟いた。すると祖母が目を丸くする。
「あら、知っているの?」
「うん、フルート奏者なら誰でも憧れの象徴だよ」
そして島先輩のお父さん、という言葉はギリギリで言いとどまった。久保島先輩と同類になるのはごめんだ。にしても、この人も昔はさぞ美青年だったのだろう。パーツの端々から滲み出る端正さ、ハーフならではの異質さ。それらがいい塩梅で溶け合い、今の灯瑠さんを形成している。蓮美さんも可愛らしい人なので、島田先輩は両方の遺伝をいい塩梅で受け継いでいるのかもしれない。ふとその時、フルートパートの部員たちの顔を思い浮かべた。あれ、良く思えば……何気に顔面偏差値が高いパートだ。フルートという楽器の印象もあるが、やはりもともとの素質は磨かれている。もしかしたら、亜美だけ浮いているかもしれない。自称パンダ顔の亜美には、少しだけショックなことだった。勝手に落ち込んでいると、餌を食べ終えたしろまるが構ってほしげに膝に両手を置いていたので、そっとその額を撫でてやる。すると招き猫みたいに目を細めたので、そのまま毛に埋もれて目がなくなってしまいそうだ、と思った。再度テレビ画面に目を向けると、灯瑠さんは無表情のままトークを続けている。
やっぱり親子って似るもんだな、としきりにうなずいた。
「ごちそうさま」
無心にハヤシライスを平らげ、手を合わせた。水を飲むよう祖母に言われ、しぶしぶ水道から水をコップに注ぎ、少しずつ飲んだ。これに何の効果があるかは分からない。だが、もう昔からの祖母の口癖なので、そこまで気にすることではないと思う。階段を上り、自室の扉を開くとそのまま床に座り込んだ。亜美は昔から床に直接座るのが好きだった。なんというか、床の摩擦感が丁度いいのだ。机の上を一瞥し、頭の中でチェックをつける。数学、やった。単語練習、やった。白文帳、やった。生活記録、やった。宿題は、先程全て終わらせたので、寝る前の手持ち無沙汰な時間ができた。ちなみに、白文帳というのは長野県特有の黄土色が特徴的な漢字練習帳だ。レターサイズくらいで謎にマス数が多く、長野県の中学生たちを苦しめている練習帳である。
「なー」
のこのことこちらに歩み寄り、膝の上で丸くなったしろまるを撫でながら、そっと深呼吸をする。何気なく、白いちゃぶ台の上のパソコンをこちら側に手繰り寄せ、起動ボタンに人差し指を添えたが、結局押さずにベッドの側面にもたれかかった。今日はなんだか情報量が多い一日だった。全教科のテストが返ってきたこと。先輩たちによる曲のテストがあったこと。去年フルートパートを舞台としたいじめがあったこと。そして、未来が島田先輩の従兄弟であったこと。思い返す度に情報量は増えていき、頭の整理が全くと言っていいほど追い付かない。まあ、とりあえずテストと曲のチェック、従兄弟問題は置いといて。まず、去年ソロを巡ってフルートパートにいじめが起きたこと。ソリストは島田先輩だったから、間違いなく彼が関わっていることに違いない。けれど、島田先輩が先輩にいじめられたくらいでへこむような人にも見えない。言っておくが、悪口ではない。それに県ノ坂は昔からの強豪で、コンクールのオーディションの結果にはそこまで渋るような人はいないだろう。
「——そういえば、去年の結果なんだろう」
ぽつりと落ちた呟きに、すぐさまパソコンを起動させた。検索結果に引っかかったデータベースをクリックし、スクロールする。県ノ坂中学校吹奏楽部の結果はすぐに表示され、去年のコンクール結果を開いた。
——中信大会〇金賞 県大会〇金賞 東海大会×銀賞 全国大会×
ふむ、と腕を組んでうなずく。元弱小吹奏楽部員からすると、普通にいい結果だった。けど、県ノ坂の目標は毎年「全国大会金賞」だ。そう考えれば、去年の部員たちは……果たして、その結果に納得したのだろうか。思わず、ごくりと唾を呑みこむ。そして、一瞬とても嫌な想像をした。
「……っ!」
慌てて首を振り、頬を両手でパシンと挟んだ。一体何を、自分は考えているのだろう。結果を一人に背負わせる、などと。一つの物事について深く考え込んでしまう自分の癖が、今はとても憎らしく感じた。とにかく、別のことを考えよう。目
をつぶれば、パート練習での課題点がいくつも浮かぶ。よし、早速スクールバッグから楽譜のファイルを取り出した。ファイルを開くと、そこかしこにアドバイスの言葉が書き示してある。本当にみんな、いい人たちばかりだ。譜面を指でなぞってハミングすれば、気分はいくらか爽快になる。この時は既に、先程の事は忘れていた。
「では、十五分間休憩を取ります」
その言葉を聞き、亜美はそっと肩の力を抜く。今日の合奏はフルートとクラリネットが集中砲火を浴びた。椅子の下の水筒を手に取り、蓋をくるくると開ける。口に水筒を傾ければ、ひんやりとした感覚がのどを走り抜けた。楽譜に新たな書き足しが増え、それらを眺めながら先程までの等々力先生の指摘を思い出す。
「フルート。Eの二小節目はオーボエの音をよく聞いてから入ってください。音の粒、ズレているの気になります」
「だから、毎回言ってますがそこは一息で。音が切れるのみっともないです。合奏の度間違えては意味がありません」
「最後の小節。三連符の二つ目の音が詰まってます。タタタと均等に」
思い出す限りまだまだたくさんの指摘を受けた。止めては吹き止めては吹きの連続で、木管パートの部員たちは少しだけ疲れていた。
「フルート、凄い集中砲火されてたな……て、その割には涼しい顔してんなお前」
トランペットパートからのこのこと歩いてきた久保島先輩が、島田先輩に話しかけている。確かに、彼からはまだ精力が満ち溢れている。まあ、さすが音楽一家の子供と言おうか、吹き続ける体力は人並み以上にあるのかもしれない。
「疲れるのに慣れてるだけ。で、何」
「やだ、話しかけちゃダメって言うの?もー、そんな悲しいこと言うなよ!俺泣くぞ!いいのかよ!」
「妄想力のネジ外れてるんじゃない」
「大丈夫、愛想のネジは表面がえぐれて、ひび割れるくらい深くしまってるから。ま、お前の場合はそもそも穴も開いてなさそうだけど」
「あっそ。じゃ」
「えっちょ、おい涼。覇瑠がいつもに増して塩分が濃い!」
「単純に疲れてるんだよ、そっとしておこう」
久保島先輩の悲観じみた声に、川本先輩が大人な対応を見せる。何気に、この三人は仲が良い。水筒の蓋をキュッと閉めると、ツンと裾を何者かに引かれた。そちらに顔を向けると、未来がにこにこと微笑みかけてきた。何だか、ぞわっとした。彼女の表情があまりにも何かを隠しているように見えたから。
彼女は小首を傾げると、音楽室の扉を指さした。
「ちょっと、廊下で話したい」
「え、あ、うん」
未来の指示に従い、席を立った。久保島先輩たちが一瞬こちらに目配せをしたが、あまり気にしないことにした。廊下に出ると、あまり人はいなかった。だが、未来は気になったのか眉を少しだけひそめた。彼女の後を追い、あのピロティの奥の非常階段に辿り着いた。ずっと無言のままの未来が気になり、思わず顔を覗き込む。
「……未来?」
そう呼び掛けて、やっと未来と目が合った。彼女は一瞬ためらったが、すぐにこちらに向き合った。
「あのね、私考えてみた」
「え、何を?」
「音が変わってしまった理由」
「ああ」
そういえば、彼女は島田先輩と従兄弟関係だったことを思い出した。今になっても、全く信じられないが。残念ながら、亜美にはどこが変わったのか分からない。技術は向上しているし、先程の合奏でも臨機応変に訂正していた。だから、亜美にはよくわからなかった。未来が何に悲しみ、悔しそうにしているのかが。
「えっと、未来。よく思ってたんだけど、音が変わるってどういう——」
「言うなら創造性。あの人は元々、情感豊かな演奏をする人だった。なのに……」
彼女は一回目線を落とし、それから自分の手のひらを見つめた。とても、どこか悩むように。
「いつの間にか、作り物の演奏をするようになった。自分の思いをかき消すような」
「えっ、作り物?」
戸惑いを隠せず、つい口をはさんでしまう。まず、作り物の演奏とは何なのだろうか。そこから、私はわからない。すると、未来はそれを聞いて酷く悲しそうな顔をした。ドクン、と鼓動が大きく響く。間違えた、そう思った。彼女は今きっと、共感を求めていた。疑問をすぐに口にしてしまう自分が酷く醜い。やや眉をひそめ、上履きの中でつま先を丸めた。未来はふっと息を吐きだすと、無駄に笑顔を取り繕った。
「ごめん、これが言いたかっただけ。じゃあ、音楽室に戻ろうか」
言葉をかけようとして、亜美はそれをためらった。今彼女は、何の言葉も望んでいるように見えなかった。顔の筋肉をフル稼働させて、亜美は無理やりはにかんだ。
「うん、戻ろう」
歩き出す彼女の後を、亜美は追う。何だか今は、彼女の隣を歩くことはできなかった。彼女も、きっとそれは望んではいない。とりあえず、このことは頭の隅に置いておくことにした。それが無視と同等のことは分かっていた。だが、今はそれを気にしている暇はない。なぜなら今は六月で、数週間先にオーディションを控えていたのだから。それに、その話に自分が首を突っ込んだら危険な気がした。人間関係を脅かせるような危険な香り。もし首を突っ込んで今までのすべてが崩れてしまったら。それがとても、恐ろしく怖かった。未来と島田先輩の関係に手を出したら、重傷を負うことくらい、亜美には分かっていた。
それが今できる、最善の選択だった。
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