彗星蘭に音を尋ねて

青笹まりか

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第一章

六話

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 二年生の三人が練習に戻った後、百合先輩と島田先輩による指導が始まった。
「ええっと、来月の下旬にオーディションがあるので、その前にパートの中で演奏を見ていきます。そこでこは先輩とつきみ先輩から、どのタイミングでもいいから二曲本番通りに通せるようになったら確認するから来て、と言われています」 
 すると、華子がスッと手を挙げた。
「そういえば、なんで二年生の先輩で教えるんですか?三年生でもいいような気がするんですけど」
「そうだねえ。こは先輩いわく、「来年指導がスムーズに出来るように」ってことらしい」
「あと、単純になが模試とかで忙しいんでしょ。高校受験あるだろうし」
「うわあ、言わないでよ島さん。現実逃避の途中なのに」
 耳を人差し指で塞ぎ、百合先輩が小さく悲鳴を漏らす。その様子に、島田先輩がどうしたのだろうといわんばかりに首を傾げた。
「別に毎日最低二時間対策してたら大丈夫」
「いやいや。島さんだから言えるんじゃんそれ。というか、今回のテストで四八〇点以上は普通にすごいよ」
「普通じゃない?久保島たちも普通って言ってたし」
 あっけらかんと言い放ったセリフに、そんなわけないだろ!と胸中で叫んだ。そして、あの三人もかなりの猛者なのだろう。すると、楓が目を見開いて興奮気味に両手を振った。このモードの楓は、大抵何を言っても止まらない。
「島先輩頭もいいんですね、テスト前に島田塾開いてください!というか、ネットイン蹴鞠部の合計でも追い付かないんじゃないんですか?」
「ネットイン蹴鞠部って何?」
 未来が控えめに問う。え?と楓は瞠目すると、グラウンドを指さした。そこにはサッカー部員たちが交流試合をしている。そういうことか。野球部のことを坊主集団と呼んだり、サッカー部のことをネットイン蹴鞠部と呼んだり、楓は運動部を好ましく思っていないのだろうか。
「ま、雑談はここまでにして、今の演奏レベルを確認しよっか。みんな音源聞いて、練習は各々してきたよね?」
 百合先輩の言葉に、亜美たちはうなずいた。音源は既に確認済みだし、譜読みもおおよそはできている。その様子に先輩二人が顔を見合わせる。その表情が、喜びの表情でないことは確かだった。でも、どういう顔なのかは不明だ。
「じゃあ、最初から課題曲だけ合わせて吹いてみて」
 島田先輩がメトロノームを遅めに設定し、人差し指をはなす。カチカチと無機質な音がピロティに響く。全員構えたのを確認し、百合先輩が拍を四つ数える。四、の声をきき、冒頭のメロディを吹いた。——と、ん?出だしがかなりずれている。というより、拍を聞いていない。なんということだ!と吹きながら内心叫んだ。
 事前に譜読みをしたのだが、やはり合わせるとぐだぐだになる。理由として挙げられるのはおおまかに二つだ。テンポに合わせて演奏できない、そもそもリズムがあっていないということだ。そして今回の場合両方のことが挙げられるので、もっと演奏が崩壊してしまう。
「はい、そこまで」
 島田先輩が途中で無理やり止めた。苦虫を嚙み潰したような顔をして、島田先輩がそっと息を落とす。メトロノームを止めた百合先輩は不明瞭な声を出し、そっと頬をさすった。どうやら、相当やばいらしい。
「うーん、譜読みが甘いんだよね。特にかえちゃんとはなちゃん。拍が半拍ずれる時もあるし、連符の繋ぎ目が気になる。もう、入部から一か月弱は経ってるんだから、初心者だからっていうのは理由にならないよ」
「それもあるけど、根本的にリズム感がない。何のために基礎練習やってるか分かってる?」
 先輩二人の言葉に、亜美たちは何も答えることができなかった。やはり、事前に合わせておくべきだったかもしれない。 
「どうする?一回、二手に分かれて練習したほうがいいよね」
「そうしたほうがいい。じゃあ、神尾と木口は俺が見るから、小山は佐藤と白井見て」
「分かった」
 島田先輩の指示で、分かれて練習することになったらしい。まあ確かに、今のままでは合わせたところで上達するのは難しいだろう。こっち、と百合先輩に連れてこられたのは、ピロティから少し離れたところにある非常階段だった。こちら側の校舎の壁には窓がなく、まず人の気配を感じない。なんだか、恋人同士の逢引きの場にでも使われていそうだ。譜面台をそっと置くと、百合先輩がフルートに息を吹き込んだ。島田先輩までとはいかないが、しっかりと芯のある音だ。フルートは空気を音源とするエアリードのため、結構息が漏れやすい。裏を返せば、音がカスカスになりやすいのだ。息漏れが少ないところから、彼女が優秀な奏者だということは一目瞭然だった。
「よし。じゃあ、二人ともAとBはできてるからCからさらっていこっか。さっき、二人とも十六分音符でつまずいてたし」
「はい」
 全くもってその通りです、と内心激しくうなずいた。Cには十六分音符の連符が多々存在する。フルートはもともと素早いパッセージの旋律が多いため、連符で戸惑う人は少なくない。実際、亜美もそのうちの一人だった。
「まず、シャーペン持ってる?その音符さ、四つずつカッコで区切って」
 百合先輩の指示に、ジャージのポケットから青ペンを取り出す。四つずつ区切ると、なにか効果でも出るのだろうか。
「連符って、パッと見ると頭おかしくなるじゃん?だから、こうやって区切ると分かりやすくなるよ。この場合は4・4・3で分けられる。まずは符を口ずさんで、頭で処理できるようになったら楽器で吹く。しばらくこれでやってみて。慣れれば書かなくても自然に出来るようになるから……って、去年の先輩に教えてもらったんだよねー」
 先輩伝でさ、と照れたように頬をかく百合先輩を見た。こうやって伝承されていくと思うと、なんだかこそばゆくなってくる。 隣で未来が熱心そうに口ずさんでいるので真似してみる。確かに、一気に見るよりは断然すっきりして見える。そこから、練習はさらに過熱していった。
 
「——うん。だいぶ良くなったんじゃない?じゃ、休憩しよう」
「……はい」
 課題曲全てをさらうのにかなり体力を使った。これから自由曲をやるのかと思うと、いささか萎える気持ちがある。ほぼ一時間吹きっぱなしだったので、もはや精気を失ったのだ。百合先輩は気弱そうに見せていて、「もう一回」がかなり多い。彼女も同じくらい吹いていたはずなのだが、全然生き生きとしていて自由曲のフレーズを軽々と吹いている。相当、体力で満ち溢れているのだろう。水筒の口をひねり麦茶を飲む。なんだか、体が蘇った気がする。いや、多分気のせいかもしれない。遠くからは、まだフルートの音は響いている。あれはオーボエソロの後の旋律だ。指がやや難しいため、楓が結構甘く読んでいたのを目撃している。島田先輩はもちろんそれを見逃すわけもなく、先程から集中砲火を食らっている。大丈夫だろうか。
「ふふ。気にしなくても大丈夫。ああ見えてしっかり相手の体力は見据えてるから」
 百合がふくふくと笑う、。自分の内心を読み取っていたことに、思わずドキッとする。驚きが顔に出ていたのか、未来までが笑っていた。むーっと目を細め、ページを一つめくる。表題は「月へのオマージュ」。オマージュは、確か賛辞という意味だった気がする。カタカナ語句が苦手な亜美にとって、こういった言葉は難しい。普通に「月への賛辞」にすればいいのに、と心の底の自分が言っている。低音楽器のトゥッティから始まるこの曲は、島田先輩の情報によると作曲者が奥さんと過ごした一か月を描いている。つまり、この曲のテーマは「愛」だ。愛、と聞くと思わず身構えてしまう。そういったことを考えるのは苦手だ。やはり、こういったことは他人の意見を聞くに限る。
「……ゆりっち先輩は、この曲どう思いますか」
「えっ」
 突然声をかけてしまったかもしれない。驚きで目を見開いた百合先輩は、フルートをした唇から離した。困ったように頬をかく百合先輩に熱視線を送っていると、彼女は観念したように一息落とした。
「私は、少し寂しい曲だと思った」
「と、いうと?」
 未来の言及に、百合先輩が腕を組んだ。
「なんかね、福松さんが葛藤してる曲みたい。例えば第三楽章って舞みたいな感じじゃん。表面上は楽しそうだけど、どこか焦ってる感じがする。フルートソロなんて、悲しさ抜群だと思うんだよね」
「なるほどー」
 ふむ、とうなずいて、第四楽章を開いた。その最初は太い線が色濃く引かれ、その上に12と記されている。つまり、十二小節休みといういみだ。セカンドには十二小節間のフルートソロの指示はない。指示があるのはファーストのみだ。
 ほとんどセカンドは、フルートに持ち替えたピッコロと白熱したソロの裏メロを奏でる。そこで、ふと亜美は思った。この曲、島田先輩がいるから選んだのか。高度な技術を要する、最後を彩ったフルートソロ。もし、島田先輩が県ノ坂の吹奏楽部にいなかったら、顧問の等々力先生はこの曲を選ばなかっただろう。
「ま、私もセカンドだし。私らはソロの支えるのが仕事だねえ。誰になるかはわからないけど」
「候補は桜先輩か島先輩ですよね」
「妥当は島さんだろうねえ。桜先輩は確かにうまいんだけど、技術が数段劣ってるから。私よりはうまいけど」
 最後に慌てて言葉を付け加え、百合先輩が頬をさする。困ったときに右頬を触るのは、彼女の無意識な癖だろうか。
「そういえば島先輩、音変わりましたよねー」
 え、と未来の方に顔を向けた。彼女の表情は、いつものはにかみ顔だ。だけど——、この声色の時の未来の心情は知っている。人の変化に探りを入れているときの未来の声は、いつもよりも少し低い。そして今は、それよりも低い。百合先輩はびくりと肩を震わすと、居心地が悪そうに眉を垂らした。この先輩も、もしかしたらその変化に気付いているのかもしれない。
「そ、そうかなあ。技術は上がってると思うけど」
「そうですね」
 あれ、と首をかしげる。未来は既にいつもの声色を取り戻していた。一瞬の声色の変化だった。もしかしたら、亜美の考えすぎかもしれない。鎖骨に触れる緩いおさげに手を触れ、遠くから聞こえてくる三人分の音に耳をしばらく傾けた。
    
     練習終わり、一年生の女子部員が多目的室で制服に着替えていた。みんな顔はやつれており、精気を失っていた。隣で着替えていた楓が、灰色をした襟の胸当てをとめながら肩をすくめる。
「はあぁ、疲れたぁ。島先輩厳しすぎぃ」
「それなー。爽やかそうな顔しておいて、ほんと鬼だよー。ワンツーマンでしたとき死ぬかと思った」
 楓の言葉に華子が賛同する。確かに、音を聞く限りかなり休憩は少なめだった。意外と集中力はあるのかもしれない。その後二曲ともできたと思えば合流し、再び二人から激しく指示が飛んだ。本当に、今日は疲れた。すると、近くで着替えていたクラリネット担当の部員が二人の肩をグラグラとゆすった。
「ええ!島田先輩とワンツーマン?羨ましー。目の保養じゃん」
「ま、表面上はねえ」 
 亜美がそっと言葉を落とすと、彼女は心底不思議そうに首をかしげた。そう、容貌は至って美しい。だが、一皮めくれば般若の面が潜んでいる。まあ、彼女たちは一生気づかないだろう。何たって彼は、他のパートの面倒は見ないから。
「そういえば島田先輩ってさ、川本先輩の幼馴染だよね?」
 クラリネット担当の部員が目を輝かせて聞いてくる。うなずくと、彼女はさらに手を肩に置いてきた。一体、どうしたのだろうか。
「川本先輩、直属の先輩なんだー。もうめっちゃ可愛いんだよね。そういえばここだけの話なんだけどさ」
 ふんふんとフルートの部員がうなずくと、彼女は秘密を打ち明けるように口元に手を当てた。 
「川本先輩と金音先輩付き合ってるらしいよ。格差カップルなんだって」
「は?格差カップル?」
 思わずうなった。まあ、あの時の従順さから見て、それはいくらか理解はできる。
 だが、格差カップルとは何だろうか。キョトンとした目の前の部員は、何言ってるのと言わんばかりに地団太を踏んだ。
「知らない?川本先輩って、川本グループのご令息様だよ」 
「え?」
 えええええ!と四人で思いっきり叫んでしまった。それって、島田先輩に並ぶ有名人じゃないか。うろたえたように楓が両手波ゆたせて、あのCMの踊りを再現し始めた。案外再現率が高い。
「まっかろっにの~、穴っをのっぞけっば新世界~!マカロニはカワモト!のやつ?他にもいっぱい会社経営してるとこ?」
「うん、そうだよ。年収確か億超えるらしいし。金音先輩とは叶わぬ恋だろうねえ」
「悲しい恋の末路……。というか、金持ちだね!ちなみに、誰情報?」
「ん?久保島先輩だけど」
 楓の質問に彼女があっけらかんと答えた。思わず額に手を当てた。島田先輩の件といい川本先輩の件といい、久保島先輩はある意味カミングアウト魔だ。それはさておき。そう思うと、川本先輩の品行方正さの理由がわかる。川本家の人間として、恥じない行動をとっているのだろう。でも、考えてみればなんでこんな平凡な中学校に通っているのだろう。いや、平凡ではなくごく普通といっておこうか。近所には、各業界のエリートたちが通う朱藤院学園《しゅとういんがくえん》という私立の一貫校もある。考えれば考えるほど謎が深まるばかりだ。島田先輩といい川本先輩といい、さらに百合先輩や小春先輩、すすき先輩といい、この部活は謎な先輩がいくらか多すぎる。普通なのだろうか、と考えつつ、グリーンのリボンスカーフを身に着ける。袖口や裾口に通る緑色のラインを、目でそっとなぞった。
 うん、やっぱり様子はおかしいかもしれない。空はすっかり暗くなっていた。
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