スイの魔法

白神 怜司

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【スイの魔法 3 七人の魔女】 別章 『スイの姉』

スイの〈姉〉

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2014/9/12 改稿
********************************************

 激動の一日が明けたその翌日。
 ヴェルディア魔法学園は休校日だった。

 まだ陽が昇って間もない学園の中を歩く、一人の少女の姿があった。

 ブラウン系の長い髪を左右の側頭部で纏め、くりっとした丸い瞳をキョロキョロと見回す一人の少女。
 学園の白を基調にした制服に身を包み、スカートを揺らして歩く姿は軽快さよりも警戒心をあらわにしていた。

 彼女の名はこのヴェルディア王国の侯爵家令嬢、シルヴィ・フェルトリートだ。

 生徒会に所属する、スイと同い年の少女。
 今年はスイと同じクラスにあてがわれ、最近では選考学科の授業で『魔術科』を選んだせいか、行動を共にする事も多い。

 元々社交的であり、立場や権威を鼻にかけない優等生の鑑のようなシルヴィではあるが、学園内をそんな顔で歩く姿を周りに見られれば、周りは一体何をしているのかと密かに妄想を膨らませる事になるかもしれない。

 休校日の学園内を歩くその姿は、周囲を警戒して極力人気のない場所を探しているようだ。

 前日に教員室に立ち寄って生徒会室の使用許可をもらった為、一度教員室に今から生徒会室を使いますと律儀に報告しに来たのである。

 本来学園が休みの日に生徒会室を勝手に出入りするのは禁じられているという名目は確かにあるのだが、そんな事をいちいち気にする生徒もいない。そういう意味では、シルヴィはやはり生徒の鑑とも呼べる真面目な優等生という立場であった。

 そんな訳で教員室に立ち寄り、たまたまそこにいた今年は自分とスイの担任となったメルーアに一声かけて、こうして学園の中を歩いているのである。

 腕章の魔導具に触れて生徒会室に転移する事は出来るのだが、教員室付近はそれをしないようにと釘を刺されているのである。
 曰く、腕章を利用して盗難事件が起こった過去があるそうだ。
 当然シルヴィはそれを疑われるような生徒ではないのだが、律儀に校則を守りきる辺り、生来の真面目さが顕著に出ているといったところだろう。

 それにしたって、歩き方は不審だ。
 周囲に人がいないかを逐一確認して、曲がり角を通る際はそっと顔を覗かせて生徒の有無を確認している。

 休日の学園内に生徒がいる方が珍しいと言えば珍しいのだが、それでもシルヴィは警戒を怠ろうとはしなかった。
 理由があるのだ。

 これから彼女は――喧嘩を売りにいく。

 いや、正確に言えば喧嘩を売る事になるのかどうかは相手次第である、というのが正しいところだ。

 一方的に、自分なりに解釈した情報などを基に構築した推論をぶつけに行くのだから、喧嘩を売りにいくという表現は彼女の中でひどくマッチしているだけの事だ。

 別に誰かに見られたからと言って憚る必要などないのだが、知っている顔に会って何をしに行くのかと尋ねられる事だけは避けたい、というのが本音であった。
 休日の学園に来そうな気配がある生徒と言えば、同じ生徒会室のメンバーである。

 人の気配がない廊下を曲がってすぐの所で、生徒会腕章に手を触れて魔力を流し込む。
 すると視界が光に覆われ、次の瞬間には見慣れた生徒会室の入り口にシルヴィは立っていた。

 時折、スイが学園の生徒会室の奥を使っている事もあるのだが、やはりまだまだ朝早い時間だ。
 一応確認しに行こうかとも逡巡したシルヴィであったが、警戒を続けてゆっくりと歩いたせいで思ったよりも時間が押していた。

 一つ深い呼吸をして、シルヴィは「よしっ」と気合を入れるように振り返り、生徒会室の扉を開ける。

「ごめんなさい、お待たせしました」

 扉を開けた先に立っていた銀色の髪と青い瞳を見て、シルヴィは他人行儀に告げる。

「いえ、社交辞令じゃなくて今着いたところよ」

「そう、ですか。では中へどうぞ」

 同い年の少年――スイの姉として学園へとやって来たアーシャ。
 彼女こそが、シルヴィ曰く喧嘩を売る相手であった。

 遠く壁を流れる水の音と自分達の足音がわずかに耳に届くぐらいの静寂。
 そんな音ですら、アーシャの前を歩くシルヴィにはどうやら聴こえていないようであった。

 自分の胸に手を当てて、気付かれぬように再びの溜息。
 身体の内側から聴こえて来る心臓の鼓動が、やけに五月蝿い。
 わざわざ呼び出しておきながら緊張しているのだから自分に呆れてしまいそうである。
 それでも、どうしても訊かずにはいられない要件があったのだ。

「どうぞ、そこに座ってください」

 円卓に近づいてシルヴィが指差したのは、いつもスイが座る場所だ。
 入り口からまっすぐ伸びた廊下に背を向ける形で座る場所。その隣こそが自分の定位置であるが、この日はシルヴィも心の中で「お邪魔します」と呟き、ソフィアの座る定位置――つまりは現在、アーシャと向かい合う位置に当たるその場所へと腰掛けた。

「訊きたい事があるって言われて呼び出しに応じてみた訳だけど、何かしら?」

 本来であればお茶の一つでももてなすべきだったのかもしれないが、シルヴィの心にそんな余裕はない。その上、歯に衣着せぬ物言いで本題に踏み込まれてしまったシルヴィは、思わず言葉に詰まってしまった。

 それでも、スイを――学友を守る為に、シルヴィは乾いた小さな口から言葉を紡いだ。

「アナタは、本当にスイのお姉さんなんですか?」

 じっと自分を見つめる茶色く丸い双眸。
 真摯に自分を見つめるその表情は、先日ネルティエが自分に接触してきた際の雰囲気とは大きく異なっているのだとアーシャは感じていた。
 敵対視している、というよりは警戒している歳相応の少女らしい空気を纏っている。

 恐らくは緊張しているのだろう。
 身体には妙に力が入っているらしく、背筋をピンと伸ばして何があっても対処出来るように身構えてはいるが、魔力を練って攻撃してきそうな気配はない。

 目の前にいる自分が敵であるかどうか。
 それを判断したいといったところだろうが、些か平和ボケ――戦い慣れていないような態度だ。

「それは、どういう意味かしら?」

「……私、聞いているんです。『銀の人形』という名を。もしかして、アナタは『銀の人形』でスイを騙して――姉と偽って近づいているんじゃないですか……?」

 すっと目を細めたアーシャに、シルヴィがぴくりと身体を動かした。

 ――成る程、ね。
 シルヴィの言葉を聞いて、アーシャはふっと身体から力を抜いて密かに手に集めていた魔力を霧散させた。ネルティエの一件の翌日だ、当然警戒していない訳ではない。自分を呼び出す相手に対しては少なからず警戒していたなど、どうやらシルヴィ自身は気付いていないようだ。

 スイを心配した一人の少女が、背伸びして尋ねようと思ったのだろう。
 好意を抱いているというよりも、学友を心配しているという青い感情だろうか。
 そんな益体もない想像を巡らせつつ、アーシャはシルヴィを見つめた。

 二人の邂逅はヴェルディア王国にアーシャがやって来た日だ。

 同行していたアーヴェンの娘であり、スイの学友である彼女は真っ先に出迎えに来た。
 その際に邂逅を果たした際には特に気を留める必要もなかったアーシャであったが、『銀の人形』のフレーズを聞いていたのだとしたら、なるほど自分を疑うのも理解出来る。

「それはスイに訊かなかったのかしら? アナタ、スイの友達でしょう?」

「友達ですけど、スイには伏せています」

 アーシャの質問にシルヴィは首を左右に振った。
 周囲の言葉を鵜呑みにするではなく、自分なりに警戒していたといったところだろう。

 スイと同い年ではあるが、スイも年齢はともかく中身はあれで老成している節があるので、比べるつもりはなく、アーシャはその警戒心を抱くシルヴィを疎ましく思うどころか、むしろ偉いと褒めてやりたい気分であった。

 眠っていたとは言え、アーシャも永い時を生きている。
 老婆心ながらにシルヴィのその青さをどうやら気に入ってしまったらしく、悪役よろしくくすりと笑っているなど気付いていなかった。

 そんなアーシャの姿に、シルヴィは自分の抱いた疑問が正しいのだと勘違いしてしまった。

「スイを、騙しているんですか?」

「騙すなんて人聞きが悪いわね。あの子は私が『銀の人形』である事を知っているわよ」

「え……?」

 大きく目を剥いたシルヴィに、アーシャは小さく笑う。

 ――恐らく、しらばっくれても良かったのだろう。
 それをしなかった理由は一つだ。
 どうやらこの青さを予想以上に自分は気に入ってしまったようだと気付き、アーシャは笑った。

 警戒しておきながら、『銀の人形』である可能性を胸に抱きながらも戦いになる可能性を危惧している様子が見えない、そんな甘さと青さを持った少女。

 もしも自分が冷酷な存在――と言うよりも、以前の自分のままスイを騙して近づいていたのだとしたら、この健全な青さを持った少女は一思いに氷によって串刺しになっていただろう。
 かつての自分ならば、それを厭わない。
 だからこそ、アーシャはその甘さを指摘するかのように言葉を続けた。

「それで、もしも私が口封じするつもりだったらどうするつもりだったの? 『銀の人形』の名を知っているという事は、その危険性も耳にしているんじゃないかしら」

「……ッ、それは――」

「――『銀の人形』は一介の学生でしかないアナタ一人で戦える相手じゃないわ。見たところ、動揺して動けないでいるみたいだし、危機感が足りないんじゃないかしら」

 痛感する、とは言うがまさしくこの事だろう。
 シルヴィは自分の甘さに歯噛みしつつ、そんな気持ちを抱いていた。

 目の前のアーシャが『銀の人形』であるかどうか、疑っていたのは事実だ。
 だが同時に、そうあって欲しくないと心のどこかで思っていたのだろう。
 だからこそ、一対一での対応を心がけてこの場へとやって来た。

 アーシャの言う通り、もしも戦いとなればその結果は否応なく理解出来る。自分では伝え聞いた『銀の人形』なる存在に、到底手も足も出ないだろう、と。

 それでもシルヴィは、そんな自分の弱さを振り切るように立ち上がった。

「いざとなったら、私だけで止めてみせます! 最悪自分が殺された場合は、部屋に書き置きを残してますし、アナタに捜査が向かうはずです!」

「そんな切り札を私に告げるのは悪手ね。最悪、私がもしもアナタを殺すつもりがあるのなら、この場でアナタを殺して、遺体を処分して逃げれば良いだけじゃない。
 いっそスイを巻き込んで尋ねてきた方が懸命だったんじゃないかしら」

 怜悧な瞳にあっさりと断言され、シルヴィが言葉に詰まった。
 それでもこのまま黙っている訳にはいかないと自らを奮い立たせ、再び丸い茶色の双眸をキッとアーシャへと向けた。

「……そんなこと出来ません。スイを守る為に私が勝手にしている事です」

「……フフ、そう。悪くない答えね」

「な、何が可笑しいんですか!」

「あぁ、ごめんなさい。馬鹿にしているのではなくて、むしろ好ましいとすら思っているわ。その青さも真っ直ぐな心根も、ね」

 くすくすと笑うアーシャを、シルヴィは顔を真っ赤にして睨み付けていた。
 わなわなと肩を震わせ、今にも叫んで罵ってやりたい程の激情に身を焦がし、口を開こうとしたところで――

「おままごとはここまでにしておきなさい、お姫様」

 ――アーシャの目が、身体の芯まで冷えてしまいそうな程に冷たいものへと変わった。

 ぞわりと身体を駆け抜ける悪寒に、急速に熱を奪われた。
 冷水をかけられたようだ、という言葉では到底表現出来ない程の凄まじい冷気がシルヴィの熱を覆い、いっそ熱ごと凍らされたとでも言うべきか。

 座るように促され、シルヴィは力なく椅子に腰を落とす。
 先程までの激情は何処へやら、今のシルヴィには反論を口にする事も出来ずにいた。

 或いは口撃を緩めるかに思われたアーシャであったが、はたしてシルヴィのその浅い願いはあっさりと砕かれる事となるのであった。

「スイを守ろうとするアナタの気持ちは十分に伝わったわ。だけど、立場と命を軽んじているのではないかしら。私がもしもアナタの立場であったなら、厳重な警戒態勢を作り上げた上で、スイも交えて直接尋ねるわ」

「そ、そんなの――!」

「――フェアじゃない、とでも言いたいのかしら」

 言葉の続きを口にされて、シルヴィは口を噤んでしまった。

「対等さを謳うより前に、アナタは危険を回避する事を考えるべきよ、お姫様。『銀の人形』である私に直接話を持ってくるなんて、馬鹿げているわ。
 さっき言った通り、もしもアナタの推測通りの私の立場であって、スイを騙しているのだとすれば――私は間違いなくアナタを消しているもの」

 ぐうの音も出ないとは、この事だろう。
 シルヴィは自分に突き付けられた冷たい現実を前に、自分の無力さを噛み締めていた。

 お姫様。
 アーシャが言う通り、シルヴィはその皮肉めいた言葉の通りに立場を持った存在だ。
 権力を使ってでも準備をするべきだったのだと言外に告げられているような気がしたシルヴィである。

 事実、アーシャはそれを遠回しに指摘し、そんな立場を揶揄するかのようにその呼び名を口にしていた。

「もしも本当にスイを守りたいのなら、その立場と生まれ持った力を存分に使いなさい」

 そしてついに、アーシャは遠回りな言葉を直接打ち込みつつも、助言を口にした。
 打ちひしがれるかのように俯いていたシルヴィが、突如として柔らかさを纏ったアーシャの声にはっと顔をあげた。

「……どういう意味ですか?」

「近く、スイを狙った何者かが来る可能性がある。――あぁ、勘違いしないでね。それは私にとっても敵だから。
 もしその時、アナタに出来る事と言えば、その異常な事態を食い止めるべく街の警備を強化するようにお父様に進言する事ぐらいよ。……今のアナタの最大限の力と呼べるものは、その立場を利用する事よ」

 その痛烈な言葉に、先程までのシルヴィであったなら噛みついていただろう。
 それでもシルヴィはぐっとその言葉の槍を受け止めて、小さく頷いた。

 彼女なりに一歩、大人に近づく事になっただろうか。
 アーシャは目の前で丸い瞳に悔しさの涙を溜めた少女を見てふっと小さく笑い、立ち上がる。

「それと、最初の質問の答えだけど。――スイにとっては私は姉じゃないかもしれないけれど、私にとっては弟みたいなもの、よ。確かに褒められるやり方ではなかったけれど、アナタなりの心配は十分に伝わったわ」

「え……?」

「心配してくれたのは、あの手間のかかる弟の代わりにお礼を言うわ。ありがとう」

 それだけ告げて、アーシャは生徒会室を後にするのであった。
 その後姿を呆然と見送る事になったシルヴィは、アーシャをスイの姉として心のどこかで認めてしまう事になっていたのだが、それに気付くのはもう少し後の話であった。



 

◆ ◆ ◆





 朝一番。
 思ったよりも早く着いてしまったなと思いつつも教会へと顔を出したアーシャが教会の扉で佇んでいると、突然その扉が勢い良く開かれた。

「アーシャ姉! おはよう!」

「あ、えぇ、おはよう。どこか行くの?」

「ううん! アーシャ姉を待ってたの!」

 言葉の勢いを表すかのように駆け寄り、ダダッと勢い良くアーシャのお腹にあたりに抱き着いた少女。教会の孤児の一人、チェミである。

 この街へとやって来て少しの間、アーシャはこの教会に暮らしていた。とは言えそれも僅かな日数であり、学園に通うべく寮を借りるまでの一時的なものであった。
 スイとしてはどちらでも構わないといった態度であったが、当時のアーシャにとってみれば自分が危機に晒した相手と一緒に暮らすというのもなかなか居た堪れないものがあったのである。

 そんな僅か数日の間に懐いてくれたのが、このチェミである。
 スイの次に年長である少女は、自分に姉が出来たのだと大喜びしてアーシャに懐いている。学園でちらりと見かけると嬉しそうに手を振ってくれるのだ。
 その姿を犬か何かが尻尾を振って懐いてくれている姿と幻視してしまうあたり、アーシャの失礼さもなかなかに酷いものがあるが。

「スイ兄が、アーシャ姉が来るって言ってたから早起きして待ってたんだー」

 にひっと屈託ない笑顔を向けられて、アーシャはチェミの頭を撫でた。再び尻尾が振られているような光景が幻視されたが、それはもはやチェミの標準装備なのだろうと失礼な解釈をもって纏められたのは言うまでもない。

 教会の朝は早い。
 朝の市が賑わいを見せるにもまだ早い時間ではあったが、どうやらそれよりも早い時間から子供達は起きているようだ。

 チェミに連れられて教会の中に入ったアーシャは、エイトスや修道女であるシスターの三人とも軽い挨拶を交わしつつ、スイの姿を探す。食事を済ませる為の広間にはどうやらスイの姿はないらしく、その光景に「あぁ、またなのね」と納得してしまうアーシャであった。

「スイは部屋で読書でもしてるのかしら」

「んっとね、ちょっとお勉強してるから入らないでって言ってた。アーシャ姉が来たら部屋に来てもらうように言ってたよー」

 広間の横を抜けると、狭い階段へとチェミがアーシャを連れて歩いて行く。
 教会という名の通り、入り口から横に逸れて入ってきた居住スペースを抜けて階段を上がった先に、孤児であるスイやチェミ、クリスやシスター達の住居が広がっているのだ。
 エイトスの私室に関してはその場所からは外れた場所にあるのだが、それはさて置き。

 階段を登って奥へと進んだ一室の前で、チェミが扉を叩いた。

「スイ兄ー? アーシャ姉連れて来たよー?」

「えっ? もう来たの!?」

 くぐもった声が扉の向こう側から聴こえ、直後に「うわっ」と声が響くと同時にガタガタと物音が鳴り響く。そうしてようやく扉が開けられ、スイが苦笑混じりに顔を見せた。
 問答無用でアーシャが扉を押して部屋の中を見ると、その光景にアーシャが深い溜息を吐き出した。

「……スイ。部屋を片付ける癖をつけるんじゃなかったかしら」

「あはは……、やろうとは思ってるんだよ、うん」

「スイ兄のお部屋、図書館みたい」

 チェミの一言がスイの部屋の状況――いや、惨状を物語っていた。

 ブレイニル帝国での一件の後、スイはマリステイスの宝玉に関する資料を集めようと王立図書館から大量の本を借り出し、部屋に置いているのである。
 うず高く積まれた多くの本、本、本。恐らくその一部に足を引っ掛けたのだろう、部屋の中には乱雑に散らばった本の姿も見受けられる。

「読んだ本から返して行けば良いじゃないの」

「まぁ、やろうとは思ってたんだけどね……。ちょっとほら、選考学科の事とかで色々あったからさ」

 片付けられない代表のような言葉を口にするスイに辟易としながらも、アーシャはチェミの頭に手を置いた。

「スイみたいになっちゃダメよ」

「ちょ、ちょっとアーシャ! そういう言い方しないでよ!」

 何が起こっているのかいまいち理解していないチェミに、話をするから後でとだけ言い残してアーシャはスイの部屋へと入って扉を閉めるのであった。 

 ――――話の内容は、当然昨日のネルティエとルスティアの一件だ。
 互いに情報を交換していく。

 先日起こった謎の襲撃と、その際に告げられたルスティアとネルティエ二人の正体。
 加えて、アルドヴァルド王国の刺客と思しき魔導人形の存在。

 どれも楽観視など到底出来るはずもなく、とは言え今後の行動をどうするかという部分については互いに不透明だ。

 お互いに情報を交換した後、スイの部屋には沈黙が流れる。

 質素な部屋で扉に背を預けたまま腕を組んだまま、沈黙を守って瞼を下ろしていたアーシャが、ゆっくりと目を開け、スイへと青い双眸を向けた

「それで、どうするの?」

「どうするって言われてもなぁ……」

 困った様子でスイが頭を掻きながらぼやく。

 去年の冬、ブレイニル帝国の帝都ガザントールに連れて行かれたスイは、そこでアリルタ・ブレイニル・メトワ現帝王によって『世界の敵』なる存在を知らされ、共に戦うことを約束した。

 アーシャに身体を乗っ取られ、夢とも呼べるようなその場所では『白銀の魔女』ことマリステイスと出会い、そして『宝玉』――曰く彼女の力を使って造り上げた球体――を集めることを約束している。

 だが、スイのこの部屋の惨状を作り出している書物には、やはりまともな記述は見られない。エイネスの時代が存在していた事すら書かれていないのだからお手上げであると言えた。

 いずれにせよ、せめて成人――15歳――を迎えるまでは現実味を帯びてこそいなかった、というのがスイの本音だ。
 まだスイにとって、成人を迎えるには少しばかり遠い話に思えてならないはずであった。

 しかし今、『螺旋の魔女』の弟子を名乗る二人によって、自分達が置かれている立場が明確化しつつあった。

 アルドヴァルド王国。
 かつてアーシャを使い、ヘリンの時代を破滅に追い込ませた国。そして、ブレイニル帝国が敵として睨んでいるかの国は今、自分達を狙って動き出しつつあるのだ。
 その危機から自分達を守る為、『螺旋の魔女』は二人を使って接触を果たしている。

 ――――「出来る事なら、キミ達には僕らの故郷でありノルーシャ様のいらっしゃる島国、ガルムまですぐにでも来て欲しい」

 ルスティアの先日の言葉を思い返し、選択を迫られているのだと理解させられる。

 答えを出せずにじっと黙りこんでしまったスイを見て、アーシャは呆れたかのように嘆息した。
 目の前で自分が悩んでいるのに、という理不尽な怒りが生まれてしまったのか、スイは口を尖らせる。

「他人事みたいな反応して……。アーシャはどうした方が良いと思う?」

「私?」

「うん。アルドヴァルドが僕らを狙っているなら、ここを離れた方が良いのかもしれないとか考えたりもするでしょ?」

「……そうね。考えなかった訳ではないわ。けど……」

 ゆっくりとアーシャは答え、その言葉を途中で口にするのをやめた。

 かつては『銀の人形』として意識が目覚め、世界を呪った。
 自我が芽生えたのがもっと早ければ、多くの人々を戦火へと投げ込むような真似をしたりはしなかったはずだ。

 だからこそ、自分の消滅と共に、その根源となったアルドヴァルドを滅ぼしてやろうと考えていたのは事実だ。

 この世界を、アルドヴァルドを。
 自分を、自分を造った者を呪い、そうして永い時を眠っていたのだ。
 そうした考えを胸にするのは、当然だと言えた。

 ――――だけど。
 そうアーシャが区切った言葉通り、そこには別の答えが見つかろうとしていた。

 この街にやって来て、スイはもちろん幼いチェミにも「アーシャ姉」と呼ばれて懐いてくれている。
 それは伝聞でしかなかった家族の温もりで、アーシャが自分とは無縁なのだと思い込んでいたものだ。

 ちらりと組んでいた腕を解いて、アーシャは自分の手を見つめた。

 多くの命を直接奪った訳ではないにしろ、それでもこの手にはその血塗られた歴史が刻まれている。
 それは忘れられない現実であり、自分のせいではないにしろ逃げてしまえる軽いものではない。

 ――だけど、この手で守るという事が出来るのなら。
 アーシャが描いた先程の言葉の続きは、その口からは紡がれなかった。

 きょとんとした表情を浮かべて自分を見やるスイを見て、アーシャはわずかに頬を緩め――そして誤魔化すように嘆息する。

「そうね、アナタについて行くわ。ここに残るなら残るし、どこかに行くと言うなら私も行く」

「へ……?」

 その答えはスイにとっても予想だにしていないものであった。
 まさかこの捻くれている――とスイは思っている――少女が、そんな答えを出すなどとは思いもしていなかった。

 情けない声をあげたスイに、アーシャは得意の意地の悪い笑みで告げる。

「私の胸には『宝玉』があるんだから、一緒にいるしかないでしょう?
 それに言ったじゃない。私とアナタは似ている。互いに互いを埋められる存在。運命共同体というヤツよ」

「そ、それってアーシャが僕の身体を乗っ取った時に言った言葉じゃないか……」

「あら、別に今更乗っ取るつもりなんてないけど、だからって撤回した覚えもないわ。不肖の弟であるスイの面倒を見るのも、〈姉〉として当然なんでしょ?」

「うわ……、こういう時だけお姉さんぶるなんて卑怯だよ……」

「使えるものは使うべきよ、スイ。まぁそれも最低限の時と場合を選ぶべきだと思うけどね」

「……しれっと酷いこと言うね、アーシャは」

「真理よ」

 あっさりとそう言い放ってみせるアーシャにじとっとした視線を向けてみるも、たいした
反応は返って来ない。スイは再び深く溜息を吐き出すと、ベッドの上で天井を見上げるように身体を倒した。

「……僕は知りたいんだ。僕が何者で、何処から来たのか」

「それはあれかしら。思春期特有の存在意義への悩みというヤツかしら?」

「はは、何さそれ。
 そうじゃなくてさ。孤児としてこの街に現れて、こんな髪の色や瞳の色をしている。でもそれはすごく珍しい色らしいんだ。自分のルーツじゃないけど、知ってみたいんだよ」

 寝転がったまま自分の髪を一摘みして見つめながら、スイは続けた。

「きっと、マリステイスと僕は関わりがあるんだ。ファラがマリステイスに拘るように僕に接してくれたのも、それが理由だったはずなんだ。
 アーシャに乗っ取られて意識を失っていた時、僕はマリステイスに会ってる。あの時、マリステイスも僕の正体を少しずつ教えてくれるって、そう約束したんだ。だけどさ――」

 言葉を区切ったスイが再び身体を起こし、アーシャを見つめた。

「――確かに僕は僕の過去を知りたいけど、だからってここで暮らしてきた日々を蔑ろにしたい訳じゃないんだ。
 エイトスさんや、イルシアさん、シェスカさん、ヘリアさん。それに弟や妹って呼べる家族。皆と暮らしてきた日々を、ただ自分が知りたい事があるからって忘れて出て行くっていうのは、何かが違うと思うんだ」

 それらは紛れもない本心であった。
 成人になって旅立つのと、今急いで旅立つのではその意味合いが大きく変わってしまうような、そんな気がしていたのだ。

 きっと話せば理解ってくれるであろう家族。
 だが、成人にもならない子供が旅立つと言えば、当然家族である皆は理解してくれない。
 それは煩わしい訳でもなく、むしろ嬉しい事だとスイにも理解出来る。

「……なんて、偉そうに言ってるけどさ。本音を言えば、僕はこの街が好きで、この家族が好きなんだ。もしもここを離れる時が来るなら、その時は笑顔で送って欲しいんだ」

「……そう」

 困ったように笑うスイの一言に、アーシャが呆れたように眼を閉じたままくるりと振り返り、扉のドアノブに手をかけた。

「だったら、好きにしなさい。私も付き合ってあげるわ」

「……うん、ありがとう」

 部屋を出て行くアーシャを見送りながら、彼女もどうやら少し変わったようだとスイは実感していた。――振り返る時、確かに彼女は優しい笑みを浮かべていたのだ。

 昏い過去を持つアーシャのその変化を嬉しく思いながらも、スイは改めて決意を固める。



 ――その答えをまるで嘲笑うかのように訪れる事件を、この時のスイは知る由もなかった。
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