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【スイの魔法 2 銀の人形】 別章 『エヴンシア事変』
エヴンシア事変 ― ①
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書籍2巻『銀の人形』で収録されていない、タータニアの故郷、エヴンシアのお話です。
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スイと別れ、〈妖精の森〉からレビジーアの南門へと向かったタータニアは、首から下げた銀板にエヴンシア騎士団の紋章が彫られた『団員証』を取り出し、南門の衛兵に見せて王都レビジーアへと入ろうとしていた。
「タータニア・ヘイルンだ。ヴェルディアへの潜入を終えて帰って来た」
「……『騎士団証』ですね。少々お待ち下さい」
衛兵が城へと連絡する為に詰所へと戻って行く。
比較的に南門から近い一般居住区にはタータニアの家がある。
幼い頃に父を亡くし、以来母を二人きりで過ごしてきた家の方向を城壁越しに見つめ、タータニアは嘆息した。
(……こんなに近いのに、帰れないなんて……)
――〈放棄された島〉へと行った理由は、ゴルディーア家への裏切り行為だ。それをエヴンシア王国への反逆と見做される可能性もある。
(……やっぱりゴルディーア家の息がかかっているのか)
詰所と城への連絡には通信用の魔道具が用意されている為、確認にはそれほどの時間はかからない。
にも関わらず、タータニアに待つように告げた衛兵は、詰所から出て来るまでにずいぶんな時間を要している。
タータニアの予感は、前方から歩いてきた武装した衛兵達によって確信へと変わった。
「タータニア・ヘイルンだな。武器をこちらに渡し、ついて来い」
先日、〈妖精の森〉内部で奪った剣を歩み寄ってきた衛兵を指揮する女性に手渡し、タータニアは包囲されながら南門をくぐってレビジーアへと足を踏み入れた。
王城へと連れられるタータニアを、都民達が訝しげに見つめる。
衛兵に囲まれて連行される様子は、まさに反逆者や罪人として捕らえられた姿だ。
注目されるのも無理からぬ事であった。
「タータニア!」
人集りから飛び出してきた女性が声を上げた。
タータニアに比べると髪の色が幾分茶色に近い女性。タータニアの唯一の肉親であるケイティ・ヘイルンだ。
その姿に、思わずタータニアは表情を綻ばせようとして、自分を戒めるべく唇を噛み締めた。
「どうして……どうして帰って来たの……! 伯爵家に逆らったと聞いたわ! 重罪じゃない! 処刑されたと聞いたのに、生きて帰って来るなんて!」
「……ッ!」
「どこかで野垂れ死ねば良かったのよ! そうすれば、こんな恥をかかなくても済んだのに!」
ゴルディーア家からタータニアの母に通達が入ったのは五日前。タータニアとスイがジルトア族の集落に着いた頃の話だ。
ゴルディーア家に反逆し、その場で処刑したとの通達された。
だがケイティは、自分の娘がそんな真似をするはずがないと信じていた。
ゴルディーア家は狡猾であり、気に入らない事があれば民をすぐに処刑する。
権力を振りかざす典型的なタチの悪い貴族だ。
きっとタータニアもそういう扱いになったのだろうとケイティは考えていた。
だからこそ、もし生きているなら帰って来てはならない。
もしも生きて帰って来れば殺されてしまう。
故に、ケイティはタータニアを罵倒するフリをして逃げ出させようと考えたのだ。
例えタータニアに自分が嫌われる事になっても、それを覚悟した上での行動だ。
自分が重荷になってタータニアが逃げられないのではないかと、ケイティは推測していた。
タータニアの優しさを誰よりも知っているからこそ、自分を見捨てでも逃げてもらおうと考えたのだ。
ケイティの目が涙を浮かべている姿を見れば、タータニアにもそれはすぐに理解出来た。
だがそれでも、タータニアは動けなかった。
すでに生きている事は知られ、今から逃げた所でケイティが罰を受ける事になるのは間違いない。
本人がいないのであれば、家族を。
それがゴルディーア家のやり口である。
それすら理解し、自分が殺されようともタータニアを庇おうとしている母の姿に気付いたタータニアは、溢れる涙をグッと堪えて背を向けた。
「……ケイティさん。 私は国を裏切ってなどいません。だからこうして姿を現したのです。何も後ろめたい事などありません」
「……ッ、どうして……! お願い、タニア……ッ! 私はどうなっても良いから逃げ――」
「――私は……ッ! 私は貴女との縁を……切った、はずです……ッ!」
タータニアの言葉に、ケイティの表情が苦痛に歪む。
衛兵や周囲の民の前で公言する事で、ケイティとは親子の縁を切ったのだと、無関係なのだと装う。
それが、自分を逃がそうとした母――ケイティをゴルディーア家の手から救える唯一の方法だ。
衛兵はこのあらましを上層部に伝えるだろう。
それを見越してタータニアは口を開いた。
「タニア、やめて……! もう良いの――」
「――アナタが! アナタが……ッ! ……どれだけ罵倒し、蔑んだとしても、私は何も変わりません。逃げるつもりも、ありません……ッ!」
「ダメ……、ダメよ、タニア――」
「――ヘイルンという家名は、私には必要ありません」
涙をぼろぼろと零しながら俯いたタータニアと、彼女の意志を理解したケイティが泣き崩れる。
それをまるで、何か劇を見ているような気分で民衆も見つめていた。
タータニアの言葉もケイティの罵倒の意味も、全て理解している。
衛兵もまたそうだ。
ゴルディーア家に歯向かう言葉を口にして、誰かが告げ口でもしてしまえば処刑対象になる。
だからこそ、違う言い回しで互いに言い合うしかない。
「ダメよ……! お願い、逃げ――!」
「――無関係な民に指図される謂れはありません。行きましょう」
ケイティの言葉を遮り、衛兵の女性が声をあげた。
ケイティが言わんとしたその言葉をもしも言わせてしまえば、タータニアの言葉の全てが無駄になってしまうのだ。
それを阻止する為の一喝と共に、タータニアは衛兵に囲まれ、泣き崩れるケイティを尻目に王城に向かって歩いて行く。
「……これは独り言ですが」
しばし歩いたところで、ケイティの言葉を遮った女衛兵が口を開いた。
「……私達は油断しています。何せ連行している少女が騎士の実力を持っているとは知りませんから」
「私達は『南門にいるタータニア・ヘイルンを連れて来い』としか言われていませんので。少女が自分たちより強いなどとは思いもしていません」
「ゴルディーア伯爵閣下が、何故か直接連行する様に伝えてきました。ですが、私達衛兵はランシアード侯爵閣下の部下です。ですので、本来私達が動くべき任務ではありませんしねー。偶然私達は南門の近くを警戒する様にランシアード様に言付けされていただけですし」
他の衛兵が独り言と称した言葉に続いた。
「侯爵閣下は、騒動が起きない限りこの件を耳にする事はないでしょう」
――つまりは、騒動を起こして侯爵に報告する義務を発生させろ。
言外にそう告げているのだ。
「……ありがとう」
意図を読み取った上で、タータニアは小さく呟いて足を止める。
直後、真後ろの衛兵の男性の胸に胸当ての上から掌底を叩き込む。
上半身が後方に仰け反り、その隙にタータニアは男の腰に提げられた剣の鞘から剣を引き抜き、奪い取ってみせた。
一連の流れを理解していた男も、オーバーアクション気味に後方に倒れ込み、わざわざ二回転してから立ち上がる。
この茶番に付き合ってやる、とでも言わんばかりに口角を吊り上げて笑うその姿に、思わずタータニアも苦笑しかけた。
「取り押さえろ!」
「はいッ!」
「動くな」
タータニアが奪い取った剣を手に、周囲を威圧する。
かつて、その剣速を用いた剣技を披露し、周囲から『鬼娘』などと呼ばれた赤髪の少女。
その華奢な身体から放たれた圧倒的な威圧感に、その場にいた衛兵達もこれが演技だと知りつつも僅かに身を竦ませた。
チリチリと身体を焦がす、殺気と重圧感。
それは正しく、その異名に相応しい圧倒的な存在感であった。
衛兵達の怒声とタータニアの放った威圧感に、周囲の民もその行く末を見つめていた。
「怯むなッ! かかれ!」
「ハッ!」
指揮する女性が、衛兵達に喝を飛ばす。
タータニアと衛兵らによって仕立てあげられた、本物の剣を使った殺陣が始まった。
本気で攻撃していても『騎士』であるタータニアに一撃を喰らわせる事は出来ないだろう。
それを理解しているからこそ、彼女達は手を抜かずに、演技が出来るというものだ。
事実、彼女らは些か狙いが外されてはいるものの、その剣速に一切手を抜かずに剣を振るう。
そしてそれらは、ことごとくタータニアによって打ち返され、時には避けられ、無力化される。
剣戟が鳴り響く中、指揮を取っていた女性とタータニアの視線が交錯する。
タータニアは直後、ふっと剣を握っていた手の力を抜き、彼女の攻撃に剣を弾かせた。
――演技の終幕だ。
「確保ッ!」
衛兵達がタータニアの身体を地面に叩き付け、腕を後ろで縛り上げた。
「リュイ、侯爵閣下に報告しろ。伯爵閣下の指示でタータニアという少女を連行中に、少女が逃走を試みて交戦が起きました、とな」
リュイと呼ばれた一人の女性が、その指示に口角を上げた。
「……『想定外の事態は直轄の上司に報告』、ですね。了解しました」
込み上がる笑みを噛み殺しながらタータニアを連れて歩き出す衛兵達。
もともと彼らはタータニアを無事に確保すべくランシアードによって配置された衛兵達だ。
作戦は予定通りに決行されたと言える。
タータニアはこうして、ゴルディーア家によって捕まる前に、ランシアードとの接触を果たす機会を得たのであった。
◆
ちょうどその頃、北の大陸北西部に位置しているメネンの王都では、町に住まう者達が次々と併設されている港に集まり、騒ぎが起こっていた。
「おい、何だ、あの船……」
街の人々が海の向こうに姿を現した巨大な艦隊を見て声をあげた。
巨大なガレオン船は【魔導具】を搭載した『魔導力船』の一種だと一見すれば理解出来るが、まるで鉄が海上に浮いているようにすら見えるのだ。
一般的な船と言えば、基本は木造だ。
海上を進んでくる艦隊のその造りは、その場にいる誰もが初めて見るものであった。
やがてゆっくりと速度を落とし、巨大な船が海上で動きを停めると、数名を載せた小舟が港へと近付いてきた。
騒ぎを聞きつけたメネンの王国軍の男が、小舟に乗ってやって来た男女数名を武器を抜いた状態で睨み付け、何者かと訝しんでいる。
「まさか、グストラやカロッセの連中か?」
「それはないだろう。もし連中がそうなら、とっくに攻撃でも仕掛けてくるはずだ」
口々に野次馬と化していた人々が声を掛け合い、何者かと訝しむ中、小舟に乗っていた数名がとうとう港に着岸し、船から下りた。
「我々はここより南西にあるリブテア大陸を治める帝国、ブレイニル帝国の者だ。取り急ぎ、国王陛下にお目通り願いたい」
あまりにも突拍子もない言葉に、その場にいた兵達も、野次馬達までもが唖然として男を見つめた。
白い目で見られているにも関わらず、男はニヤリと口角をあげて笑みを貼り付けている。
そこにいた王国軍の男が部下を伝令に走らせると、小舟から下りてきた男に向かって声をかけた。
「わざわざ他国から押しかけてきて、何様のつもりだ?」
小馬鹿にした言い回しに、周囲の野次馬達もドッと沸いた。
――フザけている。
小舟から下りてきて、国王陛下に会いたいなどとまかり通るはずがないのだ、と。
しかしブレイニル帝国の使者を名乗った男は動じることもなく、その男を一瞥すると嘆息した。
「……やれやれ。キミのような下賎な輩にするような話ではないので、答える義務はないな。そもそも、他国の使者を愚弄するような部下を持った国では、王家もたかが知れるというものだ」
「……なんだと?」
「女王陛下のお言葉だ。『不要な国だと判断したなら、潰せ』。どうやらこの国は一から作り直さなくてはならないやもしれないな」
「き、さまッ!」
使者の男が告げた言葉に、軍部の男が激昂し、腰に下げていた剣を抜き取った。
その瞬間、使者の男に同行していた男女が軍部の男へ肉薄し、喉元へと短剣を突きつけた。
あまりの速さに近くにいたメネン軍の男達も武器を構えようと試みるが、使者と共に同行していた女が〈使い魔〉の大蛇を喚び出した。
人よりも遥かに大きな大蛇が男達を睨み付け、喉を鳴らしながら口を開き、威嚇する。
「ひ……ッ!」
「返答が来るまでに無駄口を叩けば、その大蛇が貴様らを毒牙にかけるだろう。伝令に付け加えると良い、小国の軍人。
貴様らの選択肢次第では、この国は滅びるとな」
「何をバカな……――ッ!」
「――アレを見ても、妄言だと罵るつもりかね?」
男が手をあげると同時に、海上に留まっていた巨大な艦隊が赤黒い光を放ち、海上を穿った。
巨大な光の線が海上を走り、遠く海の彼方へと消えていく。
「……ッ、せ、【戦略級大魔法】……!?」
男が息を呑む。
数十名以上もの魔法使いが一つの強大な魔法を放つ、【大魔法】の一種だ。
相応の実力者が揃わない限り、放つことすら出来ないような危険な魔法を前に、その場にいた誰もが息を呑んだ。
メネンにはこんな古い迷信がある。
――海の向こうから化け物がやって来る。
子供に聞かせるような迷信だ。
そんな迷信がついに実現されたのではないか。
その場にいた野次馬の一人はそんなことを考えながら、何やら大きな事件が起こりつつあるこの状況に目眩すら感じていたそうだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
エヴンシア王国、王都レビジーア。
その王城に隣接した、エヴンシア王国騎士団の宿舎は堅牢な砦となっている。
外観だけ見れば円柱状の石造りの建物の中を、一人の華奢な老人が顔を真っ赤に染め上げ、顎に蓄えた白髭とオールバックにした真っ白な頭という、老人らしい容貌とはまったく異なった荒々しい足取りで歩いていた。
物々しい雰囲気を感じ取り、即座に通路の横に避けた者達には目もくれず、老人は一室の木造の扉の前で足を止めると、ノックにしては無作法なまでに強い手つきで扉を叩き、返事も待たずに扉を開けた。
調度品も置かれていない質素な部屋の中、椅子に座った精悍な顔付きの男。年の頃は、四十前後といったところだろうか。しかし宿した眼光は鋭く、皺と傷痕の刻まれた顔は歴戦の将を物語っている。
そんな男に向かって一歩二歩と歩み寄り、老人は机に両手をバンと叩きつけた。
「どういうことですかな、テイモン卿!」
「はて、それは私が尋ねるべき質問かと思いますがね、ゴルディーア卿」
椅子に座ったままの男――ランシアード・テイモンは、部屋へやって来るなり礼儀を欠いたレムルーノ・ゴルディーアに向かって言葉を返す。
そのすかした態度にフンと鼻を鳴らしたレムルーノは、ランシアードと向かい合う位置に置かれた椅子に身体を預けると、キッとランシアードを睨みつけた。
「反逆者をそちらで勝手に保護したそうではないか! アレは我がゴルディーア伯爵家で直々に手を下すと言ったはずだぞ!」
「反逆者……あぁ、タータニア・ヘイルンのことですかな?」
「そうだとも! 元は自分の部下であり、自分の一存で騎士候補に任命した娘だからと庇うつもりか!」
「庇うも何も、すでにあの娘は幽閉してありますぞ」
「な……、んだと?」
せり上がってきた怒りのまま、タータニアを庇うつもりであろうと叱責するつもりであったレムルーノは言葉を呑み込んだ。
その姿にランシアードは思わず苦笑しかけ、表情に出さぬように咳払いを一つしてみせた。
「そもそも、あの娘の反逆罪については私が直々に問いただすつもりですよ、レムルーノ卿。卿が心配なさらなくても、この私が犯罪者に肩入れなどするはずもありますまい」
「だが、彼奴は私の部下の――」
「――卿の部下、ですか? そもそも何故卿の部下が、私の部下であるヘイルンと共に動く事になったのか。それが私には疑問ではありますが」
「ぐ……っ」
淡々と疑問を口にするランシアードの言葉に、レムルーノは歯噛みした。
事実、ヴェルディア行きはランシアード本人が国王に許可を取り、タータニアを送ったのだ。その為、ヴェルディア行きが公式に認められていたのは、現在のところタータニア一人である。ゴルディーアが行った部下を送り込む行いはあくまでも非公式である。
もともと、成功すれば自分の指示だと言い張り、失敗すれば切り捨てる心算であったのだ。いくら王家を扇動しているとは言え、公式と非公式では立場が違い過ぎる。
口調に関しても本来であれば問題になりかねないものだ。
それでもランシアードが黙認しているのは、レムルーノが元自分の上官であったからであり、そこに敬意が存在しているかと言えば答えはノーだ。
「私の尋問が生ぬるく、ましてや自分の部下であったからと手を抜くとでもお思いか?」
ランシアードの言葉にレムルーノが歯噛みする。
立場は違えど、ランシアードの愛国心は本物であり、私情を挟むような愚行をする男ではないとレムルーノとて理解している。
しかしここで引き下がれば、タータニアが何を口にするか分かったものではない。
そんな思いがレムルーノを引き下がらせようとはしなかった。
「……密偵を放っておったのだ。カロッセがきな臭い動きをする前に、庇護を求めていたヴェルディアに何らかの援護を求めるのではないかと考えてな」
「ほう。しかしそれなら、何故非公式に動いたりしたのです?」
「公式な手続きを取っていては時間が足りんと判断したのだ……!」
「おかしいですね。カロッセの動きを理解していたのであれば、多少略式にでも、あるいは事後報告でも認可は得られたはずだと思いますが」
そうした言葉を言い訳にしてくるだろうことは、ランシアードも予測していた。
一つ一つの言い訳に対し、全ての逃げ道を潰すべく調べていたのだ。
そもそもランシアードは、ゴルディーア家の動きを調査し続けていたのだ。
ヴェルディアへと男を遣わせたことも、とうに把握していた。
テイモン侯爵家の力を削ごうと考えたレムルーノであったが、それら全ての策がランシアードによって利用されてしまっている状態にあった。
ヴェルディアへと密偵を放ち、それを王家に報告していなかったと知られれば、自分こそが反逆罪に問われる可能性すらある。それほどまでに、エヴンシアという国は王家に対して絶対的な服従を誓わねばならない国であった。
隠し立てをしようものなら、裏切るであろうと断じられる程に、だ。
これ以上噛み付けば、最悪自分の立場が危ういだろう。
逡巡して自分の状況を冷静に見つめたレムルーノは、一つ大きな溜息を吐いて腰をあげた。
「……フン。ならばせいぜい、反逆者の世迷い言に耳を貸さぬようにな」
それだけを言い捨てて、レムルーノは部屋を乱暴な足取り去り、ドアを勢い良く閉めて行った。
ようやく一つの問題が片付いたことに、ランシアードが嘆息する。
その直後、今度はまともなノックの音が鳴り響いた。
ランシアードの返事を聞いて執務室へと入って来たのは、一人の女性副官だ。
「どうやら、うまくいったようですね」
「……まったくだ。戦争で疲弊している国だけではなく、国の中枢にいる人物にまで悩まされるとは……。まったく頭が痛い」
部屋の中へと入ってきた女性へ、ランシアードが愚痴をこぼすように呟いた。
「それは仕方のないことかと……。それより陛下、例の件についてですが、先程向こうから一度話がしたいと連絡が」
女性がおもむろに手に取り出した、丸い【魔導具】。
それを見てランシアードがしばし動きを止め、椅子の背もたれに身体を預けて目を閉じた。
「……やはり、やるしかないか」
「……国を想うのであれば、それしかないかと……。すでに信用出来る家の者達には、例の件については予め話を伝えてあります」
「そうか……。ならば私も迷う必要はなさそうだ」
ランシアードが目を開け、女性から【魔導具】を受け取った。
通信型の【魔導具】を介し、ランシアードはとある女性との対談を果たすことになるのであった。
◆ ◆ ◆
メネン・フェイザス国間で取り付けられた同盟は、僅か数ヶ月の後にその名を変える事になった。
ブレイニル帝国傘下に加わった、メネン・フェイザス。
その報せが大陸中に知れ渡る前に、ブレイニル帝国軍は大陸北西部のメネンから、フェイザスを経由し、南のカロッセへと少数の使節団が放たれた。
一方本軍は、北のエヴンシアに向かって行進を開始していた。
そんな状況を一切知る由もなく、タータニアはレビジーアの北東部にある、テイモン侯爵家が所有している古い塔の一つの部屋に軟禁されていた。
ゴルディーア家との確執によって反逆罪に問われかねない現状であったが、ランシアードによって保護される形となったタータニアは、質素な部屋の窓辺に腰掛け、外を見つめていた。
この石造りの塔は、かつてエヴンシア王家が後宮として扱っていた古い塔だ。今ではテイモン侯爵家の所有となっているが、特に使われる事もなく、かと言って捨て置く訳にもいかずに手入れだけが続いている。
誰も使わない塔の二階の一室。
調度品も置かれていない、質素なベッドと化粧台が置かれただけの部屋。
それらはまるで、清潔な牢屋と同じようにすら見受けられる。
強いて普通の部屋と違う点を挙げるとするなら、外側から鍵をかけられる部屋である、という点ぐらいのものだろう。
ゴルディーア家側とテイモン侯爵家の間で何が行われているのかなど、市井の町娘から騎士候補に成り上がり、剣の腕だけを信じて振るってきたタータニアには分かるはずもない。
それでも、今こうして自分の首が繋がっているのだから、ランシアードが何かしらの手を打ってくれたのではないかと淡い期待を胸にしながら、街の中で再会した母の顔を思い出していた。
(……オレは、生きていても良いのか……?)
国家に対する反逆という汚名を被れば、処刑されて当然。
エヴンシアという国はそういう国だ。
そんな自分が今なお生きていて良いのか、あるいはこれから刑に処される可能性もあるが、今はただこの部屋にいろと言われただけだ。
その後の指示も、連絡すらもない。
下手に逃げ出せば、あの母が処刑される。
待っていても、助かるかどうかは定かではない。
――いっそ処刑されるならそうだと決まってさえくれれば、覚悟も決められようものなのに。
そうタータニアは考えると嘆息した。
窓辺から立ち去り、少し固いベッドに身体を投げ出してタータニアは身体を伸ばした。
思考を巡らせる。
そういった分野はタータニアの得意分野ではない。むしろスイの得意分野だと言えるだろう。
(……アイツ、もうヴェルに帰ったのかな)
つい数日程一緒に行動した、生意気な年下の少年。
タータニアの中に恋慕などの感情などはないが、数日間の旅はかつてない程には心の距離を縮ませるものであった。
ふとそんな事を考えていたタータニアの耳に、乾いたノック音が聞こえてきた。
慌てて身体を起こしたタータニアが返事を返すと、扉の鍵が開けられ、一人の男性が中へと入ってきた。
「……ッ! か、閣下!」
「良い、楽にしろ」
部屋の中へと足を踏み入れてきたランシアードとその副官の女性の姿に、タータニアが慌てて敬礼すると、ランシアードは手でそれを制してタータニアへと答えた。
扉の前で動きを止めた副官が扉を閉め、ランシアードとタータニアの二人を見つめていた。
すぐ近くにあった椅子に座るように促されたタータニアと向かい合うように、ランシアードも椅子に腰かけた。
「……ゴルディーア伯爵家と何があったのか。それに、ヴェルディアで一体どんな日々を送ってきたのか。それらの報告をしてもらおうと思ってな」
「……その前に、閣下。お伺いしたいことがあります」
「どうした?」
「……母は、ゴルディーア伯爵閣下によって何か不自由したりは……」
「あぁ、そういう事なら心配はいらないだろう。こちらで対処してあるのでな」
「そう、ですか」
ほっと胸を撫で下ろしたタータニアに、ランシアードが「ふむ」と小さな声を漏らして顎に手を当てた。
「……どうやら、角が取れたようだな、『鬼娘』」
「は……?」
突拍子もないランシアードの言葉にタータニアが思わず尋ね返す。
「ヴェルディアに行って、少し変わったなと思ってな。以前までのお前は、もっと周囲に対して野獣のようなピリピリとした空気を放っていた」
「野獣、ですか……。それはもしかして、良くないことなのでしょうか?」
「いいや、逆だ。感情のままに振るう剣は精細さ欠き、冷静な判断を失い、命を奪う。
騎士であらんとしているのであれば、なおさら剣が感情に揺れ動くようでは到底務まらぬ。
それに、以前のお前の危うさが少しばかり晴れたような、そんな気がするのでな」
「はぁ……」
ランシアードが何を伝えようとしているのか、タータニアにはいまいち理解出来ずにいた。そんな心境を表情と気のない返事が物語り、ランシアードが苦笑する。
「それで、ヴェルディアでは世界を見れたか?」
「世界を、ですか?」
「そうだ。この国では見ることの出来ない部分や、この国との違い。そういった見識を広げる良い機会になったのではないかと思ってな」
「……そう、ですね」
タータニアが言い淀み、逡巡する。
この国にはない、平和な環境。
まるでぬるま湯に浸かっているような、そんな生ぬるい日々に嫌気が差していたのは事実だ。
だがそれは、自分がそこに染まっていく事で、故郷を忘れ、自分が変わってしまうことへの恐怖とも似ていた。
だから苛立った。
ぬるま湯の生活に、そんな人間達の悪意のない態度を裏切る自分に。
居心地の良さが、周囲の優しさがタータニアにとってはむしろ辛かった。
「……ヴェルディアは、平和で温かな国でした。街の中は活気に溢れていて、人の笑いが絶えない場所。そんな印象を持ちました」
「……それは、この国では――いや、この大陸ではそうそう見ることのない光景であっただろうな」
「……ッ、ですが……!」
「良い。私も現状には憂いているのだ。国を愚弄するつもりはないが、どうにか良い方向に転がってはくれないものかと頭を抱える日々だ」
苦笑混じりに答えたランシアードに、タータニアが言葉を失った。
やはりランシアードは愛国心溢れる人格者だ。
侯爵という立場でありながら、騎士団長として国の剣となって支え続けている。
タータニアが尊敬する、唯一の存在だと言えるだろう。
――それから、タータニアはゆっくりとヴェルディアで見てきたことについて語っていくのであった。
◆ ◆ ◆
軟禁状態になったタータニアから、ヴェルディアで起こったこと。<放棄された島>へと漂着した経緯などを聞いたランシアードは、決意を胸に騎士団にある自分の執務室へと戻り、一つの【魔導具】を手にした。
「例の件について、細かい話がしたい。具体的には、いつ、どういった方法で貴国らが攻めてくるのかだ」
しばしの沈黙が流れ、ランシアードは机の上に置いた【魔導具】の前で腕を組み、目を瞑った。
これから自分は、国を――いや、民を守るべく選択をしなくてはならない。
その重圧の重さに胃から込み上がってくる異物感を呑み込み、じっと耐える。
わずかな静寂が執務室を満たし、空白の時間が生まれる。
そんな空白を破ったのは、机の上に置かれた【魔導具】であった。
光を放ち、机の上で煌々と輝いた円状の魔導具をランシアードは握りしめた。
《聞こえるかね》
「……こうして直接話をするのは、二度目ですね」
《クッククッ、そう硬い口調になるでない、テイモン卿》
手に握った【魔導具】を介し、一人の女性と通信する。
その通信相手こそが、かの帝国ブレイニルを統べる現女帝、アリルタ・ブレイニル・メトワだ。
年の頃は声だけ聞けばまだ若く、覇気に満ち溢れた堂々たるもの。
未だ若い女性にこうして上から話されるのも珍しい経験ではあるものの、ランシアードはその特有の覇気に素直に感嘆していた。
――人を統べる狂気とも呼べるカリスマ。
声だけでもそんなものを感じさせる人間を、ランシアードは一人だけ知っている。
それがエヴンシアの先王だ。
戦争によって命を落とし、現王は傀儡となってしまったが、誰よりこの戦争を嘆いていた。
ランシアードは先王の意思を受け継ぎ、今こうしてブレイニルの女帝と会話をしているのであった。
《――まぁ、率直に言おうではないか。妾とてこ、のまま武力でそちらを統べるのは吝かではないが……、いかんせんそれでは民はついて来まい》
「……つまり、心象良く攻める機会が欲しい、と?」
《クックククッ、平たく言えばそうなるな。そこで、だ――》
まるで悪魔との契約だ。
ランシアードは【魔導具】を介して話をしているアリルタの声を聞きながら、この状況にそんな感想を抱いていたのであった。
アリルタから出された提案。ランシアードが妥協案を提示する。
その一連のやり取りをしながら、本当にこれで良かったのかと脳裏を過ぎる多くの疑問。
(……腐敗した国を作り直す。そう、決めたではないか)
改めてランシアードはゆっくりと頭を振り、外を見つめる。
この国を良くするべく、自分は汚名を被ろう。
民を騙そう。
「――……分かった。ならば、その手筈で良い。だが……――」
《――なに、心配はいらぬ。妾は下らぬ謀略はせぬよ》
ランシアードの脳裏を過ぎった、一つの可能性。それを口にしようとしたランシアードの言葉をアリルタが遮った。
――本当にこれで良いのだろうか。
ランシアードは逡巡し、わずかに沈黙した。
《……テイモン卿、案ずるな。妾はこれから、全てを手中に收めるつもりだ。それは平和の下に築かれるか、あるいは死者の上に成り立つのかの二択でしかない。
無駄な死を重ねるだけが騎士の矜持だと言うなら、そんなものは捨ててしまうと良い》
「……ッ、言葉が過ぎますぞ――」
《――人は生きる為に戦い、守る為に剣を振るうのだ。矜持の為の死など、ただの詭弁だ》
もしも、そんな言葉をアリルタ以外の誰かに言われたのだとすれば。
ランシアードは激昂したに違いないだろう。
だが相手は帝国を統べる女帝であり、裏を返せば命を何よりも尊いものであるとしているのだ。
騎士ではなく、王としての心構えのそれとは異なっていて当然だ。
「……分かった、呑もう」
《うむ。では後日、先程の言った通りに、な。こちらからは役目に相応しい者を送るとしよう》
一つの約束が二人の間に取り交わされたのであった。
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スイと別れ、〈妖精の森〉からレビジーアの南門へと向かったタータニアは、首から下げた銀板にエヴンシア騎士団の紋章が彫られた『団員証』を取り出し、南門の衛兵に見せて王都レビジーアへと入ろうとしていた。
「タータニア・ヘイルンだ。ヴェルディアへの潜入を終えて帰って来た」
「……『騎士団証』ですね。少々お待ち下さい」
衛兵が城へと連絡する為に詰所へと戻って行く。
比較的に南門から近い一般居住区にはタータニアの家がある。
幼い頃に父を亡くし、以来母を二人きりで過ごしてきた家の方向を城壁越しに見つめ、タータニアは嘆息した。
(……こんなに近いのに、帰れないなんて……)
――〈放棄された島〉へと行った理由は、ゴルディーア家への裏切り行為だ。それをエヴンシア王国への反逆と見做される可能性もある。
(……やっぱりゴルディーア家の息がかかっているのか)
詰所と城への連絡には通信用の魔道具が用意されている為、確認にはそれほどの時間はかからない。
にも関わらず、タータニアに待つように告げた衛兵は、詰所から出て来るまでにずいぶんな時間を要している。
タータニアの予感は、前方から歩いてきた武装した衛兵達によって確信へと変わった。
「タータニア・ヘイルンだな。武器をこちらに渡し、ついて来い」
先日、〈妖精の森〉内部で奪った剣を歩み寄ってきた衛兵を指揮する女性に手渡し、タータニアは包囲されながら南門をくぐってレビジーアへと足を踏み入れた。
王城へと連れられるタータニアを、都民達が訝しげに見つめる。
衛兵に囲まれて連行される様子は、まさに反逆者や罪人として捕らえられた姿だ。
注目されるのも無理からぬ事であった。
「タータニア!」
人集りから飛び出してきた女性が声を上げた。
タータニアに比べると髪の色が幾分茶色に近い女性。タータニアの唯一の肉親であるケイティ・ヘイルンだ。
その姿に、思わずタータニアは表情を綻ばせようとして、自分を戒めるべく唇を噛み締めた。
「どうして……どうして帰って来たの……! 伯爵家に逆らったと聞いたわ! 重罪じゃない! 処刑されたと聞いたのに、生きて帰って来るなんて!」
「……ッ!」
「どこかで野垂れ死ねば良かったのよ! そうすれば、こんな恥をかかなくても済んだのに!」
ゴルディーア家からタータニアの母に通達が入ったのは五日前。タータニアとスイがジルトア族の集落に着いた頃の話だ。
ゴルディーア家に反逆し、その場で処刑したとの通達された。
だがケイティは、自分の娘がそんな真似をするはずがないと信じていた。
ゴルディーア家は狡猾であり、気に入らない事があれば民をすぐに処刑する。
権力を振りかざす典型的なタチの悪い貴族だ。
きっとタータニアもそういう扱いになったのだろうとケイティは考えていた。
だからこそ、もし生きているなら帰って来てはならない。
もしも生きて帰って来れば殺されてしまう。
故に、ケイティはタータニアを罵倒するフリをして逃げ出させようと考えたのだ。
例えタータニアに自分が嫌われる事になっても、それを覚悟した上での行動だ。
自分が重荷になってタータニアが逃げられないのではないかと、ケイティは推測していた。
タータニアの優しさを誰よりも知っているからこそ、自分を見捨てでも逃げてもらおうと考えたのだ。
ケイティの目が涙を浮かべている姿を見れば、タータニアにもそれはすぐに理解出来た。
だがそれでも、タータニアは動けなかった。
すでに生きている事は知られ、今から逃げた所でケイティが罰を受ける事になるのは間違いない。
本人がいないのであれば、家族を。
それがゴルディーア家のやり口である。
それすら理解し、自分が殺されようともタータニアを庇おうとしている母の姿に気付いたタータニアは、溢れる涙をグッと堪えて背を向けた。
「……ケイティさん。 私は国を裏切ってなどいません。だからこうして姿を現したのです。何も後ろめたい事などありません」
「……ッ、どうして……! お願い、タニア……ッ! 私はどうなっても良いから逃げ――」
「――私は……ッ! 私は貴女との縁を……切った、はずです……ッ!」
タータニアの言葉に、ケイティの表情が苦痛に歪む。
衛兵や周囲の民の前で公言する事で、ケイティとは親子の縁を切ったのだと、無関係なのだと装う。
それが、自分を逃がそうとした母――ケイティをゴルディーア家の手から救える唯一の方法だ。
衛兵はこのあらましを上層部に伝えるだろう。
それを見越してタータニアは口を開いた。
「タニア、やめて……! もう良いの――」
「――アナタが! アナタが……ッ! ……どれだけ罵倒し、蔑んだとしても、私は何も変わりません。逃げるつもりも、ありません……ッ!」
「ダメ……、ダメよ、タニア――」
「――ヘイルンという家名は、私には必要ありません」
涙をぼろぼろと零しながら俯いたタータニアと、彼女の意志を理解したケイティが泣き崩れる。
それをまるで、何か劇を見ているような気分で民衆も見つめていた。
タータニアの言葉もケイティの罵倒の意味も、全て理解している。
衛兵もまたそうだ。
ゴルディーア家に歯向かう言葉を口にして、誰かが告げ口でもしてしまえば処刑対象になる。
だからこそ、違う言い回しで互いに言い合うしかない。
「ダメよ……! お願い、逃げ――!」
「――無関係な民に指図される謂れはありません。行きましょう」
ケイティの言葉を遮り、衛兵の女性が声をあげた。
ケイティが言わんとしたその言葉をもしも言わせてしまえば、タータニアの言葉の全てが無駄になってしまうのだ。
それを阻止する為の一喝と共に、タータニアは衛兵に囲まれ、泣き崩れるケイティを尻目に王城に向かって歩いて行く。
「……これは独り言ですが」
しばし歩いたところで、ケイティの言葉を遮った女衛兵が口を開いた。
「……私達は油断しています。何せ連行している少女が騎士の実力を持っているとは知りませんから」
「私達は『南門にいるタータニア・ヘイルンを連れて来い』としか言われていませんので。少女が自分たちより強いなどとは思いもしていません」
「ゴルディーア伯爵閣下が、何故か直接連行する様に伝えてきました。ですが、私達衛兵はランシアード侯爵閣下の部下です。ですので、本来私達が動くべき任務ではありませんしねー。偶然私達は南門の近くを警戒する様にランシアード様に言付けされていただけですし」
他の衛兵が独り言と称した言葉に続いた。
「侯爵閣下は、騒動が起きない限りこの件を耳にする事はないでしょう」
――つまりは、騒動を起こして侯爵に報告する義務を発生させろ。
言外にそう告げているのだ。
「……ありがとう」
意図を読み取った上で、タータニアは小さく呟いて足を止める。
直後、真後ろの衛兵の男性の胸に胸当ての上から掌底を叩き込む。
上半身が後方に仰け反り、その隙にタータニアは男の腰に提げられた剣の鞘から剣を引き抜き、奪い取ってみせた。
一連の流れを理解していた男も、オーバーアクション気味に後方に倒れ込み、わざわざ二回転してから立ち上がる。
この茶番に付き合ってやる、とでも言わんばかりに口角を吊り上げて笑うその姿に、思わずタータニアも苦笑しかけた。
「取り押さえろ!」
「はいッ!」
「動くな」
タータニアが奪い取った剣を手に、周囲を威圧する。
かつて、その剣速を用いた剣技を披露し、周囲から『鬼娘』などと呼ばれた赤髪の少女。
その華奢な身体から放たれた圧倒的な威圧感に、その場にいた衛兵達もこれが演技だと知りつつも僅かに身を竦ませた。
チリチリと身体を焦がす、殺気と重圧感。
それは正しく、その異名に相応しい圧倒的な存在感であった。
衛兵達の怒声とタータニアの放った威圧感に、周囲の民もその行く末を見つめていた。
「怯むなッ! かかれ!」
「ハッ!」
指揮する女性が、衛兵達に喝を飛ばす。
タータニアと衛兵らによって仕立てあげられた、本物の剣を使った殺陣が始まった。
本気で攻撃していても『騎士』であるタータニアに一撃を喰らわせる事は出来ないだろう。
それを理解しているからこそ、彼女達は手を抜かずに、演技が出来るというものだ。
事実、彼女らは些か狙いが外されてはいるものの、その剣速に一切手を抜かずに剣を振るう。
そしてそれらは、ことごとくタータニアによって打ち返され、時には避けられ、無力化される。
剣戟が鳴り響く中、指揮を取っていた女性とタータニアの視線が交錯する。
タータニアは直後、ふっと剣を握っていた手の力を抜き、彼女の攻撃に剣を弾かせた。
――演技の終幕だ。
「確保ッ!」
衛兵達がタータニアの身体を地面に叩き付け、腕を後ろで縛り上げた。
「リュイ、侯爵閣下に報告しろ。伯爵閣下の指示でタータニアという少女を連行中に、少女が逃走を試みて交戦が起きました、とな」
リュイと呼ばれた一人の女性が、その指示に口角を上げた。
「……『想定外の事態は直轄の上司に報告』、ですね。了解しました」
込み上がる笑みを噛み殺しながらタータニアを連れて歩き出す衛兵達。
もともと彼らはタータニアを無事に確保すべくランシアードによって配置された衛兵達だ。
作戦は予定通りに決行されたと言える。
タータニアはこうして、ゴルディーア家によって捕まる前に、ランシアードとの接触を果たす機会を得たのであった。
◆
ちょうどその頃、北の大陸北西部に位置しているメネンの王都では、町に住まう者達が次々と併設されている港に集まり、騒ぎが起こっていた。
「おい、何だ、あの船……」
街の人々が海の向こうに姿を現した巨大な艦隊を見て声をあげた。
巨大なガレオン船は【魔導具】を搭載した『魔導力船』の一種だと一見すれば理解出来るが、まるで鉄が海上に浮いているようにすら見えるのだ。
一般的な船と言えば、基本は木造だ。
海上を進んでくる艦隊のその造りは、その場にいる誰もが初めて見るものであった。
やがてゆっくりと速度を落とし、巨大な船が海上で動きを停めると、数名を載せた小舟が港へと近付いてきた。
騒ぎを聞きつけたメネンの王国軍の男が、小舟に乗ってやって来た男女数名を武器を抜いた状態で睨み付け、何者かと訝しんでいる。
「まさか、グストラやカロッセの連中か?」
「それはないだろう。もし連中がそうなら、とっくに攻撃でも仕掛けてくるはずだ」
口々に野次馬と化していた人々が声を掛け合い、何者かと訝しむ中、小舟に乗っていた数名がとうとう港に着岸し、船から下りた。
「我々はここより南西にあるリブテア大陸を治める帝国、ブレイニル帝国の者だ。取り急ぎ、国王陛下にお目通り願いたい」
あまりにも突拍子もない言葉に、その場にいた兵達も、野次馬達までもが唖然として男を見つめた。
白い目で見られているにも関わらず、男はニヤリと口角をあげて笑みを貼り付けている。
そこにいた王国軍の男が部下を伝令に走らせると、小舟から下りてきた男に向かって声をかけた。
「わざわざ他国から押しかけてきて、何様のつもりだ?」
小馬鹿にした言い回しに、周囲の野次馬達もドッと沸いた。
――フザけている。
小舟から下りてきて、国王陛下に会いたいなどとまかり通るはずがないのだ、と。
しかしブレイニル帝国の使者を名乗った男は動じることもなく、その男を一瞥すると嘆息した。
「……やれやれ。キミのような下賎な輩にするような話ではないので、答える義務はないな。そもそも、他国の使者を愚弄するような部下を持った国では、王家もたかが知れるというものだ」
「……なんだと?」
「女王陛下のお言葉だ。『不要な国だと判断したなら、潰せ』。どうやらこの国は一から作り直さなくてはならないやもしれないな」
「き、さまッ!」
使者の男が告げた言葉に、軍部の男が激昂し、腰に下げていた剣を抜き取った。
その瞬間、使者の男に同行していた男女が軍部の男へ肉薄し、喉元へと短剣を突きつけた。
あまりの速さに近くにいたメネン軍の男達も武器を構えようと試みるが、使者と共に同行していた女が〈使い魔〉の大蛇を喚び出した。
人よりも遥かに大きな大蛇が男達を睨み付け、喉を鳴らしながら口を開き、威嚇する。
「ひ……ッ!」
「返答が来るまでに無駄口を叩けば、その大蛇が貴様らを毒牙にかけるだろう。伝令に付け加えると良い、小国の軍人。
貴様らの選択肢次第では、この国は滅びるとな」
「何をバカな……――ッ!」
「――アレを見ても、妄言だと罵るつもりかね?」
男が手をあげると同時に、海上に留まっていた巨大な艦隊が赤黒い光を放ち、海上を穿った。
巨大な光の線が海上を走り、遠く海の彼方へと消えていく。
「……ッ、せ、【戦略級大魔法】……!?」
男が息を呑む。
数十名以上もの魔法使いが一つの強大な魔法を放つ、【大魔法】の一種だ。
相応の実力者が揃わない限り、放つことすら出来ないような危険な魔法を前に、その場にいた誰もが息を呑んだ。
メネンにはこんな古い迷信がある。
――海の向こうから化け物がやって来る。
子供に聞かせるような迷信だ。
そんな迷信がついに実現されたのではないか。
その場にいた野次馬の一人はそんなことを考えながら、何やら大きな事件が起こりつつあるこの状況に目眩すら感じていたそうだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
エヴンシア王国、王都レビジーア。
その王城に隣接した、エヴンシア王国騎士団の宿舎は堅牢な砦となっている。
外観だけ見れば円柱状の石造りの建物の中を、一人の華奢な老人が顔を真っ赤に染め上げ、顎に蓄えた白髭とオールバックにした真っ白な頭という、老人らしい容貌とはまったく異なった荒々しい足取りで歩いていた。
物々しい雰囲気を感じ取り、即座に通路の横に避けた者達には目もくれず、老人は一室の木造の扉の前で足を止めると、ノックにしては無作法なまでに強い手つきで扉を叩き、返事も待たずに扉を開けた。
調度品も置かれていない質素な部屋の中、椅子に座った精悍な顔付きの男。年の頃は、四十前後といったところだろうか。しかし宿した眼光は鋭く、皺と傷痕の刻まれた顔は歴戦の将を物語っている。
そんな男に向かって一歩二歩と歩み寄り、老人は机に両手をバンと叩きつけた。
「どういうことですかな、テイモン卿!」
「はて、それは私が尋ねるべき質問かと思いますがね、ゴルディーア卿」
椅子に座ったままの男――ランシアード・テイモンは、部屋へやって来るなり礼儀を欠いたレムルーノ・ゴルディーアに向かって言葉を返す。
そのすかした態度にフンと鼻を鳴らしたレムルーノは、ランシアードと向かい合う位置に置かれた椅子に身体を預けると、キッとランシアードを睨みつけた。
「反逆者をそちらで勝手に保護したそうではないか! アレは我がゴルディーア伯爵家で直々に手を下すと言ったはずだぞ!」
「反逆者……あぁ、タータニア・ヘイルンのことですかな?」
「そうだとも! 元は自分の部下であり、自分の一存で騎士候補に任命した娘だからと庇うつもりか!」
「庇うも何も、すでにあの娘は幽閉してありますぞ」
「な……、んだと?」
せり上がってきた怒りのまま、タータニアを庇うつもりであろうと叱責するつもりであったレムルーノは言葉を呑み込んだ。
その姿にランシアードは思わず苦笑しかけ、表情に出さぬように咳払いを一つしてみせた。
「そもそも、あの娘の反逆罪については私が直々に問いただすつもりですよ、レムルーノ卿。卿が心配なさらなくても、この私が犯罪者に肩入れなどするはずもありますまい」
「だが、彼奴は私の部下の――」
「――卿の部下、ですか? そもそも何故卿の部下が、私の部下であるヘイルンと共に動く事になったのか。それが私には疑問ではありますが」
「ぐ……っ」
淡々と疑問を口にするランシアードの言葉に、レムルーノは歯噛みした。
事実、ヴェルディア行きはランシアード本人が国王に許可を取り、タータニアを送ったのだ。その為、ヴェルディア行きが公式に認められていたのは、現在のところタータニア一人である。ゴルディーアが行った部下を送り込む行いはあくまでも非公式である。
もともと、成功すれば自分の指示だと言い張り、失敗すれば切り捨てる心算であったのだ。いくら王家を扇動しているとは言え、公式と非公式では立場が違い過ぎる。
口調に関しても本来であれば問題になりかねないものだ。
それでもランシアードが黙認しているのは、レムルーノが元自分の上官であったからであり、そこに敬意が存在しているかと言えば答えはノーだ。
「私の尋問が生ぬるく、ましてや自分の部下であったからと手を抜くとでもお思いか?」
ランシアードの言葉にレムルーノが歯噛みする。
立場は違えど、ランシアードの愛国心は本物であり、私情を挟むような愚行をする男ではないとレムルーノとて理解している。
しかしここで引き下がれば、タータニアが何を口にするか分かったものではない。
そんな思いがレムルーノを引き下がらせようとはしなかった。
「……密偵を放っておったのだ。カロッセがきな臭い動きをする前に、庇護を求めていたヴェルディアに何らかの援護を求めるのではないかと考えてな」
「ほう。しかしそれなら、何故非公式に動いたりしたのです?」
「公式な手続きを取っていては時間が足りんと判断したのだ……!」
「おかしいですね。カロッセの動きを理解していたのであれば、多少略式にでも、あるいは事後報告でも認可は得られたはずだと思いますが」
そうした言葉を言い訳にしてくるだろうことは、ランシアードも予測していた。
一つ一つの言い訳に対し、全ての逃げ道を潰すべく調べていたのだ。
そもそもランシアードは、ゴルディーア家の動きを調査し続けていたのだ。
ヴェルディアへと男を遣わせたことも、とうに把握していた。
テイモン侯爵家の力を削ごうと考えたレムルーノであったが、それら全ての策がランシアードによって利用されてしまっている状態にあった。
ヴェルディアへと密偵を放ち、それを王家に報告していなかったと知られれば、自分こそが反逆罪に問われる可能性すらある。それほどまでに、エヴンシアという国は王家に対して絶対的な服従を誓わねばならない国であった。
隠し立てをしようものなら、裏切るであろうと断じられる程に、だ。
これ以上噛み付けば、最悪自分の立場が危ういだろう。
逡巡して自分の状況を冷静に見つめたレムルーノは、一つ大きな溜息を吐いて腰をあげた。
「……フン。ならばせいぜい、反逆者の世迷い言に耳を貸さぬようにな」
それだけを言い捨てて、レムルーノは部屋を乱暴な足取り去り、ドアを勢い良く閉めて行った。
ようやく一つの問題が片付いたことに、ランシアードが嘆息する。
その直後、今度はまともなノックの音が鳴り響いた。
ランシアードの返事を聞いて執務室へと入って来たのは、一人の女性副官だ。
「どうやら、うまくいったようですね」
「……まったくだ。戦争で疲弊している国だけではなく、国の中枢にいる人物にまで悩まされるとは……。まったく頭が痛い」
部屋の中へと入ってきた女性へ、ランシアードが愚痴をこぼすように呟いた。
「それは仕方のないことかと……。それより陛下、例の件についてですが、先程向こうから一度話がしたいと連絡が」
女性がおもむろに手に取り出した、丸い【魔導具】。
それを見てランシアードがしばし動きを止め、椅子の背もたれに身体を預けて目を閉じた。
「……やはり、やるしかないか」
「……国を想うのであれば、それしかないかと……。すでに信用出来る家の者達には、例の件については予め話を伝えてあります」
「そうか……。ならば私も迷う必要はなさそうだ」
ランシアードが目を開け、女性から【魔導具】を受け取った。
通信型の【魔導具】を介し、ランシアードはとある女性との対談を果たすことになるのであった。
◆ ◆ ◆
メネン・フェイザス国間で取り付けられた同盟は、僅か数ヶ月の後にその名を変える事になった。
ブレイニル帝国傘下に加わった、メネン・フェイザス。
その報せが大陸中に知れ渡る前に、ブレイニル帝国軍は大陸北西部のメネンから、フェイザスを経由し、南のカロッセへと少数の使節団が放たれた。
一方本軍は、北のエヴンシアに向かって行進を開始していた。
そんな状況を一切知る由もなく、タータニアはレビジーアの北東部にある、テイモン侯爵家が所有している古い塔の一つの部屋に軟禁されていた。
ゴルディーア家との確執によって反逆罪に問われかねない現状であったが、ランシアードによって保護される形となったタータニアは、質素な部屋の窓辺に腰掛け、外を見つめていた。
この石造りの塔は、かつてエヴンシア王家が後宮として扱っていた古い塔だ。今ではテイモン侯爵家の所有となっているが、特に使われる事もなく、かと言って捨て置く訳にもいかずに手入れだけが続いている。
誰も使わない塔の二階の一室。
調度品も置かれていない、質素なベッドと化粧台が置かれただけの部屋。
それらはまるで、清潔な牢屋と同じようにすら見受けられる。
強いて普通の部屋と違う点を挙げるとするなら、外側から鍵をかけられる部屋である、という点ぐらいのものだろう。
ゴルディーア家側とテイモン侯爵家の間で何が行われているのかなど、市井の町娘から騎士候補に成り上がり、剣の腕だけを信じて振るってきたタータニアには分かるはずもない。
それでも、今こうして自分の首が繋がっているのだから、ランシアードが何かしらの手を打ってくれたのではないかと淡い期待を胸にしながら、街の中で再会した母の顔を思い出していた。
(……オレは、生きていても良いのか……?)
国家に対する反逆という汚名を被れば、処刑されて当然。
エヴンシアという国はそういう国だ。
そんな自分が今なお生きていて良いのか、あるいはこれから刑に処される可能性もあるが、今はただこの部屋にいろと言われただけだ。
その後の指示も、連絡すらもない。
下手に逃げ出せば、あの母が処刑される。
待っていても、助かるかどうかは定かではない。
――いっそ処刑されるならそうだと決まってさえくれれば、覚悟も決められようものなのに。
そうタータニアは考えると嘆息した。
窓辺から立ち去り、少し固いベッドに身体を投げ出してタータニアは身体を伸ばした。
思考を巡らせる。
そういった分野はタータニアの得意分野ではない。むしろスイの得意分野だと言えるだろう。
(……アイツ、もうヴェルに帰ったのかな)
つい数日程一緒に行動した、生意気な年下の少年。
タータニアの中に恋慕などの感情などはないが、数日間の旅はかつてない程には心の距離を縮ませるものであった。
ふとそんな事を考えていたタータニアの耳に、乾いたノック音が聞こえてきた。
慌てて身体を起こしたタータニアが返事を返すと、扉の鍵が開けられ、一人の男性が中へと入ってきた。
「……ッ! か、閣下!」
「良い、楽にしろ」
部屋の中へと足を踏み入れてきたランシアードとその副官の女性の姿に、タータニアが慌てて敬礼すると、ランシアードは手でそれを制してタータニアへと答えた。
扉の前で動きを止めた副官が扉を閉め、ランシアードとタータニアの二人を見つめていた。
すぐ近くにあった椅子に座るように促されたタータニアと向かい合うように、ランシアードも椅子に腰かけた。
「……ゴルディーア伯爵家と何があったのか。それに、ヴェルディアで一体どんな日々を送ってきたのか。それらの報告をしてもらおうと思ってな」
「……その前に、閣下。お伺いしたいことがあります」
「どうした?」
「……母は、ゴルディーア伯爵閣下によって何か不自由したりは……」
「あぁ、そういう事なら心配はいらないだろう。こちらで対処してあるのでな」
「そう、ですか」
ほっと胸を撫で下ろしたタータニアに、ランシアードが「ふむ」と小さな声を漏らして顎に手を当てた。
「……どうやら、角が取れたようだな、『鬼娘』」
「は……?」
突拍子もないランシアードの言葉にタータニアが思わず尋ね返す。
「ヴェルディアに行って、少し変わったなと思ってな。以前までのお前は、もっと周囲に対して野獣のようなピリピリとした空気を放っていた」
「野獣、ですか……。それはもしかして、良くないことなのでしょうか?」
「いいや、逆だ。感情のままに振るう剣は精細さ欠き、冷静な判断を失い、命を奪う。
騎士であらんとしているのであれば、なおさら剣が感情に揺れ動くようでは到底務まらぬ。
それに、以前のお前の危うさが少しばかり晴れたような、そんな気がするのでな」
「はぁ……」
ランシアードが何を伝えようとしているのか、タータニアにはいまいち理解出来ずにいた。そんな心境を表情と気のない返事が物語り、ランシアードが苦笑する。
「それで、ヴェルディアでは世界を見れたか?」
「世界を、ですか?」
「そうだ。この国では見ることの出来ない部分や、この国との違い。そういった見識を広げる良い機会になったのではないかと思ってな」
「……そう、ですね」
タータニアが言い淀み、逡巡する。
この国にはない、平和な環境。
まるでぬるま湯に浸かっているような、そんな生ぬるい日々に嫌気が差していたのは事実だ。
だがそれは、自分がそこに染まっていく事で、故郷を忘れ、自分が変わってしまうことへの恐怖とも似ていた。
だから苛立った。
ぬるま湯の生活に、そんな人間達の悪意のない態度を裏切る自分に。
居心地の良さが、周囲の優しさがタータニアにとってはむしろ辛かった。
「……ヴェルディアは、平和で温かな国でした。街の中は活気に溢れていて、人の笑いが絶えない場所。そんな印象を持ちました」
「……それは、この国では――いや、この大陸ではそうそう見ることのない光景であっただろうな」
「……ッ、ですが……!」
「良い。私も現状には憂いているのだ。国を愚弄するつもりはないが、どうにか良い方向に転がってはくれないものかと頭を抱える日々だ」
苦笑混じりに答えたランシアードに、タータニアが言葉を失った。
やはりランシアードは愛国心溢れる人格者だ。
侯爵という立場でありながら、騎士団長として国の剣となって支え続けている。
タータニアが尊敬する、唯一の存在だと言えるだろう。
――それから、タータニアはゆっくりとヴェルディアで見てきたことについて語っていくのであった。
◆ ◆ ◆
軟禁状態になったタータニアから、ヴェルディアで起こったこと。<放棄された島>へと漂着した経緯などを聞いたランシアードは、決意を胸に騎士団にある自分の執務室へと戻り、一つの【魔導具】を手にした。
「例の件について、細かい話がしたい。具体的には、いつ、どういった方法で貴国らが攻めてくるのかだ」
しばしの沈黙が流れ、ランシアードは机の上に置いた【魔導具】の前で腕を組み、目を瞑った。
これから自分は、国を――いや、民を守るべく選択をしなくてはならない。
その重圧の重さに胃から込み上がってくる異物感を呑み込み、じっと耐える。
わずかな静寂が執務室を満たし、空白の時間が生まれる。
そんな空白を破ったのは、机の上に置かれた【魔導具】であった。
光を放ち、机の上で煌々と輝いた円状の魔導具をランシアードは握りしめた。
《聞こえるかね》
「……こうして直接話をするのは、二度目ですね」
《クッククッ、そう硬い口調になるでない、テイモン卿》
手に握った【魔導具】を介し、一人の女性と通信する。
その通信相手こそが、かの帝国ブレイニルを統べる現女帝、アリルタ・ブレイニル・メトワだ。
年の頃は声だけ聞けばまだ若く、覇気に満ち溢れた堂々たるもの。
未だ若い女性にこうして上から話されるのも珍しい経験ではあるものの、ランシアードはその特有の覇気に素直に感嘆していた。
――人を統べる狂気とも呼べるカリスマ。
声だけでもそんなものを感じさせる人間を、ランシアードは一人だけ知っている。
それがエヴンシアの先王だ。
戦争によって命を落とし、現王は傀儡となってしまったが、誰よりこの戦争を嘆いていた。
ランシアードは先王の意思を受け継ぎ、今こうしてブレイニルの女帝と会話をしているのであった。
《――まぁ、率直に言おうではないか。妾とてこ、のまま武力でそちらを統べるのは吝かではないが……、いかんせんそれでは民はついて来まい》
「……つまり、心象良く攻める機会が欲しい、と?」
《クックククッ、平たく言えばそうなるな。そこで、だ――》
まるで悪魔との契約だ。
ランシアードは【魔導具】を介して話をしているアリルタの声を聞きながら、この状況にそんな感想を抱いていたのであった。
アリルタから出された提案。ランシアードが妥協案を提示する。
その一連のやり取りをしながら、本当にこれで良かったのかと脳裏を過ぎる多くの疑問。
(……腐敗した国を作り直す。そう、決めたではないか)
改めてランシアードはゆっくりと頭を振り、外を見つめる。
この国を良くするべく、自分は汚名を被ろう。
民を騙そう。
「――……分かった。ならば、その手筈で良い。だが……――」
《――なに、心配はいらぬ。妾は下らぬ謀略はせぬよ》
ランシアードの脳裏を過ぎった、一つの可能性。それを口にしようとしたランシアードの言葉をアリルタが遮った。
――本当にこれで良いのだろうか。
ランシアードは逡巡し、わずかに沈黙した。
《……テイモン卿、案ずるな。妾はこれから、全てを手中に收めるつもりだ。それは平和の下に築かれるか、あるいは死者の上に成り立つのかの二択でしかない。
無駄な死を重ねるだけが騎士の矜持だと言うなら、そんなものは捨ててしまうと良い》
「……ッ、言葉が過ぎますぞ――」
《――人は生きる為に戦い、守る為に剣を振るうのだ。矜持の為の死など、ただの詭弁だ》
もしも、そんな言葉をアリルタ以外の誰かに言われたのだとすれば。
ランシアードは激昂したに違いないだろう。
だが相手は帝国を統べる女帝であり、裏を返せば命を何よりも尊いものであるとしているのだ。
騎士ではなく、王としての心構えのそれとは異なっていて当然だ。
「……分かった、呑もう」
《うむ。では後日、先程の言った通りに、な。こちらからは役目に相応しい者を送るとしよう》
一つの約束が二人の間に取り交わされたのであった。
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