ユーカリの花をいつか君と

柚鷹けせら

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第三章 温泉とは裸の付き合いにより云々

6 五十嵐孝之‐3

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 隣の部屋からガタガタと物音がして目が覚めた。
 ベッドの横に設置した棚の上、充電中のスマホで時間を確かめると『06:35』の表示。

「……休みだろうに、朝が早いな奏介……」

 健康的で結構なことだと胸中に呟きながら二度寝する。明日からはホテル業に専念するために朝方まで仕事で忙しくしていたのだ。今日くらい惰眠をむさぼっても許されるはず。

「いくら奏介だって休日の朝から事務所には行かない……行っても今朝は清水女史がいる……」

 支配人や吉田課長とも打ち合わせ済み。
 そもそもいくら藤倉部長だって朝っぱらから馬鹿な真似はしないだろう。

「もう少しだけ……」

 奏介、すまん。
 音にならない言葉を紡いで再び意識は沈んでいった。




 次に目が覚めたときには10時前。
 それなりの人数が暮らしている寮なのに館内はとても静かで、起きたというのに現実味が薄い。身支度を整えに洗面所に向かうと、途中から複数の声が聞こえて来た。

「いやー、スキー場が賑わうのはありがたいけどあんまり降り積もられても困るよねぇ。うちには雪掻きしてくれる子がいるからいいけどさぁ」
「ですね」
「まぁでも雪掻きするなら毎回しっかりやって欲しいんだよね。たまに中途半端なことされるとこっちも困るしさぁ」
「ですね」
「今度注意しておかなきゃって思ってるんだけど、誰がやってるか知ってる?」
「いえ、まったく」
「んー、みんなそう言うんだよねぇ。まさか小人の仕業かい?」
「ですね」
「あははは」

 どういう会話だと思いながら自分も顔を出すと、まぁ声で誰なのかは想像がついていたが藤倉部長とレストランホール統括の本田課長だった。

「おはようございます」
「おや、おはよう五十嵐君。新人なのに随分とゆっくりじゃないかい?」
「勤務は明日からの予定ですから」

 即答して本田課長に会釈すると、相手も「おはよ」と。
 それを気にするでもなく藤倉部長はしゃべり続けている。

「こっちはもういい歳なのにほぼ徹夜明けだよ。疲れた疲れた。僕はこれから寝るんだから静かにね」

 言うだけ言って去って行った藤倉部長が部屋に入ったのだろう扉を開閉する音を聞いて、息を吐き出した音が意図せず本田課長と重なった。
 顔を見合わせて肩を竦める。

「やっぱり同じフロントにいると理解が早まるのか」
「どうでしょう。いろいろ耳には入ってきますが」
「だろうな」

 歯を磨いている彼の邪魔はすべきじゃないと思い、窓の外を確かめると、なるほど社員用の駐車場がきちんと除雪されているのが判った。
 社員個人の車は動かしようがなくて車体の下には雪が残り、フロントガラスも凍っていたりするが、玄関に鍵を掛けてある社用車はきちんと場所まで移動してあるから最初から雪なんて降らなかったみたいに綺麗な車体が露わになっている。もちろんフロントガラスも視界良好だ。

「寮の駐車場は、寮にいるメンバーで当番制ですか?」

 だとしたら自分の番はいつだろうと思っての問い掛けだったが、本田課長は否定する。

「当番なんて決めてないし、基本的に自分の車は自分で。社用車は使う奴がやることになってる」
「……ですが藤倉課長のさっきの言い方だと」
「あー……まぁ、なんだ。もし誰がやっているか気付いても、藤倉部長には言わないでくれるか。あの人が知ったら……まぁ面倒なことになるからさ」

 どうやら自分にも教えるつもりはないらしい。
 藤倉部長と同類だと思われているなら腹立たしいが、しかしよく考えてみれば此処で勤務すると決まってまだ三日。しかも表向きには本社の紹介で藤倉部長が面接したことになっているのだ。
 警戒されていても仕方がないのかもしれない。

「判りました」

 だから一先ずそう返せば、本田課長は読み難い表情を浮かべて俺の肩を叩いてから洗面室を出ていく。
 この会社にはまだいろいろとありそうだな、と。
 重い溜息が零れた。




 その後は朝方までしていた仕事の続きをし、昼食を取りに社食に移動する以外は部屋に籠っていた。移動と言えばその際に支配人に呼ばれて、自分のシフトは「仕事に慣れるまで」という条件付きで奏介と同じ時間帯に決まったと伝えられた。
 藤倉部長が拗ねていたらしいが、そんなの知った事ではない。
 支配人、吉田課長、それから清水女史が味方についてくれただけでなく、奏介の傍にいる大義名分を手に入れたのだ。
 これで少しだけ安心出来る。

「まったく……このタイミングで俺が派遣されたのが奇跡だな……」

 もしも派遣がなかったら。
 そう考えただけで恐ろしさに身震いする。
 対象が奏介でなかったら、それはそれで問題なかった。彼との再会が更に遅れただけで、ともすれば二度と会えないかもしれないという不安に苛まれる日々が続いてはいただろうが、それだけだ。
 しかし実際問題として自分がここに呼ばれたの原因がアレで、護るべき対象が彼だと――あの日の高校生だったと知って、真っ先に彼の胸中を占めたのは超常的な巡り合わせを現実に引き起こしてくれた存在への感謝に他ならなかった。
 午後17時。
 奏介との約束の時間にアラームが鳴る。
 少し前に部屋に戻って来たらしいのは物音で気付いていたが、それはそれ。時間通りに部屋を出ると同時に彼も部屋から出て来て、約一日ぶりに顔を合わせた。

「お疲れさまです」
「ああ、お疲れさま。今日はよろしく」
「こちらこそ!」

 笑顔が、やはり可愛い。
 それから二人で寮を出て、坂を上り、今日の温泉に。
 シフトの件やスキーをする、しない、車を持って来るかどうかなんて話をしながらいよいよ脱衣所で服を脱ぐという段階にきて、つい視線が吸い寄せられたのは、男の性というか、好きな相手の肌を見たいというスケベ心だったのは否定しない。
 だが、細身だと思っていた彼の肩から腕、胸、腹を覆う筋肉のしなやかな動きに目を奪われた。
 接客業の為せる業か。
 見られることに慣れるということが、これほど魅せる動作を身に付けさせるのか。
 さすがに綺麗だと伝えるのは憚られるので曖昧に濁したが彼も褒められて悪い気はしなかったんだろう。雪掻きがどうのという話になって……ん?

「雪掻き?」
「ええ。寮の前とか、駐車場とか……」
「君がしているのか?」

 まさか、と。
 朝の本田課長との遣り取りや、藤倉部長の台詞を思い出して思わず声が大きくなってしまった。
 単純に運動不足の解消が目的だと彼は言うが、あの本田課長の懸念が理解出来た。出来て、しまった。なるほどこれは藤倉部長に知られるわけにはいかないだろう。
 やはり自分の車を持って来ようと決めた。
 彼に雪掻きするのを止めろとは言えないが、自分の車があれば「する時には呼ぶように」と言い易い。他の誰かには無理でも、俺にはそれを言えるようになって欲しい。
 それくらい特別な存在で在りたい。
 ……そう痛感した矢先、温泉の洗い場で、素っ裸の奏介の隣に座る男。
 清掃スタッフの一人だと紹介された佐藤とやらがどうして其処にいるのか。

「……こんなところでお会いするとは思いませんでした、佐藤さん」
「僕もです。名前で呼ばれているなんて仲が良いんですね」
「おかげさまで名前で呼び合う仲ですよ」

 ああ、これは敵だ。
 放っておいたらどこまでも近付いて来る。望みが絶たれても簡単には諦めないだろう粘性を含んだ眼差しは、……腹立たしいが自分によく似ている。
 それならそれで、徹底的に折らせてもらうだけ。

「どういうつもりですか」

 奏介を先に湯舟に浸からせた直後、佐藤は感情を押し殺した低い声で言う。

「あんな若い子相手に、恥ずかしいと思わないんですか」
「おかしなことを。あの子はもう大人だ」
「あの子って、いま」
「ああ失礼。子どもの頃から知っているもので、つい」

 睨み返せば、相手が言葉を飲み込んだのが判った。
 いくらでもマウントを取れるし、言い負かすのも吝かではなかったが、相手が黙るならそれでいい。しばらくは互いに無言で頭やら体を洗っていたが、……顔が、緩む。
 実を言うと、さっきからずっと視線を感じているのだ。
 一瞬も逸らされない、突き刺すような。

「……ふっ」

 我慢も限界で息が零れると、途端に佐藤に睨まれた。

「なんですか気持ち悪い」

 なかなか言うな、こいつ。
 だったら引導を渡してやる。

「湯船の方。彼を見てみたらいい」

 怪訝な顔をした佐藤は警戒するようにそちらを見て、目を見開く。
 その視界にしっかりと映ったはずだ。
 俺と視線が絡んだ途端に真っ赤になったあの子の顔。
 素早く体を回転させるもはっきりと見て取れた動揺。
 こいつに見られたのは業腹だが。

「あの子は俺しか見ていない」
「っ……」

 断言。
 唇を咬んで震えていた佐藤は、しかし何も言わずに立ち上がったかと思ったらそのまま浴場を出ていった。まぁ、思うところがないわけじゃないが奏介に関してはたった一歩ですら退く気も、譲る気もない。
 それに俺自身も、いま、まさにあの一瞬で確信したばかり。
 奏介は俺を意識している。
 本人がどこまで自覚しているかはともかく、あの熱を帯びた眼差しが湯あたりによるものでないことは明らかだ。
 ……いっそ言ってしまおうか。
 好きだから付き合おう。
 恋人になって欲しい、……いや、自覚が足りていなければ逆効果になり兼ねない。彼を守るという任務がある以上は僅かでも危険を呼び込む可能性は排除しなければならない。
 だったら――。
 
「先に上がって休憩していたらどうだ。そうしてくれると俺も助かる」
「先に上がったら、助かるんですか?」
「ああ。温まって上気した君を見て平然としていられる自信はないからな」
「……ん?」

 奏介が目を瞬かせた。
 そうだ、悩んでくれ。
 そして、意識してくれ。
 いまよりもっと、ずっと、俺の事で心をいっぱいにして、この腕の中に落ちて来たら、その時は。
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