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序章 前日譚

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 北海道虻田郡。
 蝦夷富士とも呼ばれるほど美しく整った輪郭がほぼ完全な円錐形を象る羊蹄山の麓に広がる町には、スキーをする者なら誰もが憧れるというパウダースノーを満喫できるスキー場が複数ある。
 その一つが倶知安町のグラン・ヒラフスキー場だ。
 羊蹄山を眺めながら新雪が積もるふわふわのゲレンデを滑走するだけでも心躍る経験になるだろうに、地形を巧みに活かした多彩なコースの形成と徹底した安全管理。
 更には羊蹄山麓の肥沃な大地によって育まれた美味しい食材、温泉郷ばりに湯巡りが楽しめる複数の入浴施設など、スキー以外の魅力も多い。
 かつては国内で最も雪崩事故が多いと言われていたのに、たくさんの人々が協力し合って発展。いまでは何年も連続で日本一だと表彰されるくらい、人気で、有名な、世界有数のリゾート地となっている――。


「……有名なのは判ったけどリフト券の種類が多すぎない……? 花園、グラン・ヒラフ、ニセコビレッジ、ニセコアンヌプリ国際スキー場……んん? あぁそっか、ニセコアンヌプリっていう一つの山に複数のスキー場があって、全山リフト券を購入したらその全部を楽しめるってことだ!」

 新千歳空港のバス乗り場。
 アハ体験かと思うくらいスッキリしたのが嬉しくて思わず声が出たら、周りにいた人たちを驚かせてしまったらしい。
 いくつもの視線を感じ慌てて「すみません」と頭を下げた。

「スキー旅行? まだ雪は積もってないでしょう」

 声を掛けてきたのは近くにいた二人連れの、女性の方。
 たぶんご夫婦だ。

「いえ、仕事です。お客様をお迎えする側になるのでスキー場のことも勉強しないとな、と」
「あらまぁ素敵ね。ニセコならうちのお店が近いわ。京極町でお蕎麦屋さんをしているの。もしよかったら食べに来てちょうだい」
「ありがとうございます」

 手渡されたカードには『十割そば ほだか』というお店の名前と、所在地の情報が記載されている。京極町は倶知安町の隣で、羊蹄山を囲むように広がる土地。美味しい食材と、それから水が美味しいことで有名な土地だ。車で30分くらいだから確かに近い。さすがに昼休憩にちょっと行ってくるという距離ではないが、これもせっかくのご縁だし休みの日にお邪魔しよう。
 右も左も判らない新しい土地で、こんなに早く仕事以外の予定が出来たことが嬉しかった。

「じゃあ、うちのホテルにももしよろしければいらしてください。ホテル『ブロンシュ』と言います。うちも食事が美味しいって評判なんですよ」

 伝え自分の名刺を差し出せば女性は嬉しそうに微笑んだ。
 人生初の営業は巧くいっただろうか。


 現地の資料を読みながら絶賛勉強中の俺こと相田奏介あいだそうすけは、正直に言うとスキーにはこれっぽちも興味がない。
 冬期間の職場がスキー場直結と表記しても過言ではない場所にあるホテルで、宿泊客のほとんどがスキー目的だから基本情報として学んでいるところだ。
 今年の三月に札幌市の実家から通っていた大学を卒業。
 複数の言語でコミュニケーションが取れるという強みで内定をもらった観光業に就職した。
「出来れば地元勤務を」と希望した甲斐があり配属されたのは海外からの客が多いゴルフ場のレストラン。うちの会社は複数のゴルフ場でテナント営業をしているのだ。
 同僚は気の良い人が多いし、食事はプロの料理人が用意してくれるから美味しいし、朝は早いが残業なんてほとんどなく、個人的にとても良い職場だったのだが、冬になると雪が積もる北海道ではゴルフ場は休業する。
 つまり仕事が無くなる。
 だから冬場は有給扱いで長期休暇……なんてあるはずがなく、雪が積もるからこそ開業できるスキー場への移動を言い渡されたのだ。
 いや、上司曰く夏場はゴルフ場、冬場はスキー場勤務が最初からの決定事項。複数のレストランに散らばっている社員全員が冬山のホテルに集合するんだよ、と。

「最初に契約書に書いてあったっしょ?」
「そう……でした、か?」
「そうだよ」

 直属の上司である藤倉ふじくら部長とそんな会話をしたのが先週末。
 大事な連絡事項が共有されないのは春に配属されたときから度々あったし、下手に言い返すと面倒くさいことになるのもこの半年で学習済みだ。
 おかしいな、ちゃんと読んだはずなんだけどな……と思ったものの無職になるのは困る。それに、本音を言えば羊蹄山麓と聞いて心が踊った。
 そこで収穫される野菜、牧場直売の乳製品、地元の特産をふんだんに使ったスイーツなど、あらゆる食べ物が美味しいのはスキーに興味のない俺でも知っている。
 しかも温泉が近所にたくさんあるから休みの日には湯巡りが出来る、これは嬉しい。
 若くないと言われようと温泉が大好きだ。
 それに寮が完備されているので住む場所の心配がなく、寮費、食費、任意のスキー保険……などなど費用の話もされたが手取りが大きく下がるということもない。
 何より、ニセコのスキー場には海外からの長期滞在客が多く、特にオーストラリアだ。オーストラリアは自分が高校時代に留学していた大好きな国だし、将来は語学を駆使して世界を旅したいという夢がある。ゴルフ場で働くよりも外国語を話す機会が多いと聞けば断る理由はなくなってしまった。
 俺はいわゆる言語オタクというやつで、日本語、英語の他に自信をもって会話可能なのは中国語、韓国語、フランス語、ドイツ語。
 いまはイタリア語を勉強中で、今後も世界中の言語を習得していくつもりだ。
 地元勤務を希望し、実家から通いたかったのも旅費を貯めるために家賃に月数万円も払うのを避けたかったからだしね。
 かくして今年度のスキー場オープン予定日より3週間早い今日、11月12日。
 他の人たちに先駆けて現地入りすることになった俺は新千歳空港からスキー場までの直通バスに乗るため此処にいる。
 制服は向こうで支給されるし、少し車を走らせれば普通に住宅街があって買い物も出来ると言うので持っていくのはスーツケース一つ分の下着、私服、寝間着にタオル類。俺自身の車はないけど免許を持っていれば社用車を借りられるから問題ない。
 あとは向こうでもオンラインでの言語学習が続けられるようノートパソコンやスマホ、その周辺機器も準備万端。寮にWi-Fiが飛んでいるのもきちんと確認済みだ。それを起動するのは最初に寮に入る俺の仕事だけども。

「さて、と」

 目当ての道南バス――緑色の車体が停留所に留まる。
 いよいよ出発の時間だった。
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