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 三月一日――虹ヶ丘高校卒業式。
 二年生は出席の為に朝から体育館に並んでいたが、一年生は休日だった。
 だから恒介も学校には行かなくていいわけで、いつも一人でやっている雪掻きを今日ばかりはグータラな兄姉に任せ、昼まで惰眠を貪ることも出来たはずだった。
 なのに恒介はここにいた。
 虹ヶ丘高校一階、いつもの教室。
 その窓際一番後ろの席には彼女の姿……。

「……仰げば尊しだな」
《――》

 体育館から流れてくる曲名を口にして近付いてくる恒介に、咲子は驚いて目を丸くする。

《恒介君……、今日はお休みでしょう?》
「だって咲子言ったろ。卒業式に出たかったから今時期になるとその思いが強くなる。だから俺に姿が見えるようになったんじゃないかって」
《ん》
「ってことは、今日の卒業式が終ったら、もう二度と会えない可能性もあるじゃん」
《……ないことは、ないかな》
「だろ」

 答え、二人は笑い合う。
 この一週間、何度もあった微笑みだ。
 もう何年になるか判らないほどの長い時間、ずっと一人だった咲子を初めて目にした恒介。
 どちらも嬉しかった。
 幽霊と人、最初の出逢い。
 驚きよりも、恐怖よりも、今日も会えることを嬉しく思った。
 そしてそんな二人を巡り会わせたきっかけである「卒業式」が終る今日、彼らの日々も終わりを告げる。

「……咲子」

 それも最初の約束どおり、彼女のただ一つの願いを叶えることで――……。

「咲子、俺……見つけたよ。咲子が生きていた時間」
《え……?》
「約束、守れるよ」

 咲子の目が驚きに見開かれるのを、恒介は複雑な思いで見つめていた。
 彼女の願いを叶えられる。
 約束が果たされる。……なのにどうして心は鈍い痛みを訴えるのか。

「……咲子が死んだのは卒業式当日……、だけど、それって自分の卒業式じゃなかったんだ」
《――》
「咲子が二年生のとき……先輩の卒業式当日に、事故に遭ったんだ」
《……》

 彼女に言葉はなかった。
 けれどそれが答えなのだ。
 どのアルバムにも彼女の名前がなかった理由――そう、同期の大羽聖一のアルバムにさえ載らなかった、その理由。
 それは卒業生の他に二年生だけが出席する卒業式の日、前夜に降った雨のせいで路面はアイスバーン。
 歩道を歩いていたにも拘らず滑って乗り上げてきたトラックが彼女を還らぬ人としてしまった。
 だから翌年のアルバム編集に関わることは一度もなく、名前も顔写真も載ることはなかった。

《じゃあ、私は三年生じゃなかったの……?》
「交通事故のショックで記憶があやふやになったんだと思う。卒業式に行かなきゃって気持ちが膨れ上がって、自分の卒業式に行きたいって気持ちに変化したんだよ、きっと。それに……」
《……?》

 恒介が不意に言葉を渋った直後、彼が入ってきた前扉の傍に人の気配を感じた。
 それも複数。
 迷わずこの教室に入って繰る彼らの中、先頭に立つ若者は、まるで恒介の未来像のようにそっくりで……。

《……》
「それに、兄ちゃんが言ってたんだ。二年のときの同級生が三年間で最高だったって。……咲子と兄ちゃんが付き合いだしたのも、二年生のときだったんだってさ」
「……恒介」

 教室に入って来た大羽家の長男、聖一は、弟の震えた肩に手を乗せ、彼が見ている周辺に目を凝らす。
 弟が何と話しているのか聞いては知っていても、実際その視界に彼女の姿は映らない。
 恒介を疑うつもりはない、……けれど見えない。

「……そこにいるのか、咲子」

 そっと囁けば、兄の声に微かに反応する少女の姿が、恒介には見えていた。

「俺達と卒業したくて、成仏できなかったんだって……?」

 聖一は何もない場所に向かって告げる。
 窓際一番後ろの席の、その後ろ。
 恒介にだけ見えるもう一つの席。

「覚えてるかな……全員に連絡するのは無理だったんだけど、咲子と特に親しかったコイツラは来てくれたんだぞ……?」

 見えてはいない聖一に促されるように、咲子の目は彼の背後に並ぶ六人の男女に向けられた。
 ……何人のことを彼女は思い出せるだろう。
 咲子が幽霊になってまで一緒に卒業したがった友人達――一緒に卒業したがっている、そんな非常識な突然の電話を受けたにも拘らず、こうして集まった彼ら。

「咲子の卒業式をするために、集まってくれたんだよ」

 恒介が擦れた声で呟くのを、咲子は潤んだ瞳で聞いていた。

「レジェンドのボーカルのソウ……、彼も咲子の同級生なんだけど忙しいから来れないんだ……でも、あの曲をって……」

 言い終えぬうちに、彼らの後ろでは長い髪の女性が自分のスマホを机の上に置き、音楽の再生ボタンを押した。
 流れてくるのは昨日の放課後にもここで流れた曲。
 それぞれの進路に進んでも友情は不滅だと、そんな意味を込めた卒業の詞。
 そして次には、今はグラフィックデザインの仕事に就いている青年が一枚の上質紙を聖一に手渡した。
 それを彼は広げ、恒介に咲子の位置を確かめると、一呼吸置いて文面を読み上げた。
『小泉咲子』という名前で始まるそれは、彼らが作った卒業証書。
 彼らが考えた、彼女を送る事の出来る唯一の旅立ちの切符。
 仰げば尊しも、校歌も、彼女を見送るには相応しくない。
 彼女を解き放てるのは、彼女が一緒に卒業したいと願った彼らの音楽と心だけ――……。

「……咲子、受け取るんだ」

 恒介の目にのみ映る少女に、彼は囁く。
 重なる視線に後押しされて、彼女の手が友人達の、卒業証書という名の友情に触れた時、奇跡は起きた。

「――咲子……っ!」

 彼女の名を口にしたのは誰だっただろう。
 うっすらとだが、しかし確かにそこに現れた光を纏う少女の姿に、彼らは言葉では説明のつかない気持ちを胸いっぱいに溢れさせた。
 恒介にしか見えなかったはずの彼女の姿が、今はかつての同級生達の目にはっきりと映っていたのだ。
 透き通った長い黒髪と、雪のように白い肌。
 触れれば折れてしまいそうな華奢な体躯。
 何もかもが七年前と変わらない。

《……私の、卒業証書……》

 咲子は受け取った一枚の宝物を胸に抱き、瞳を伏せた。
 そこから零れ落ちる大粒の涙は光となって彼女を包む。

「長い間、待たせたな……」
《……大羽、くん……》

 忘れていた記憶、消えていた大切な人々の面影。
 それがうっすらとだが蘇える。
 あの楽しかった日々が脳裏を過ぎる。
 聖一の変わらない眼差しは、亡くした恋人への想いは、次の恋を知っても消えることだけはなかったと伝えていた。

《……っ、ありがとう、恒介くん》

 幼くも、約束を守るために必死だった少年。
 彼がいなければ今は無かったと、咲子は彼の頬に手を伸ばした。

「もっと早く兄ちゃんに咲子っていう名前の幽霊と会ったことを話していれば、もっと完璧な卒業式を演出できたのにな……」

 恒介が言えば、咲子は首を振った。

《恒介君に見つけて貰えて……、この一週間の放課後のお喋り、すごくすごく楽しかった》

 少女の足が微かに動き、恒介に近付いた。
 同時に彼女の全身がふわっと宙に浮き、いよいよ最期の刻を告げようとしている。

《本当にありがとう、恒介くん》
「咲子……」

 ――それはキスだったのだろうか。
 消えていく彼女の唇がほんの微かに少年の額を掠めていった。
 雪と光りの中に舞い上がった少女は、青空に吸い込まれるようにして消えていった。
 心から幸せそうな笑顔を浮かべ、その場に集まった一人一人の目を見つめて。


 咲子は、幸せそうに笑っていた――。





 ◇◆◇





「……聖一の弟だけが咲子に気がついたのも、運命みたいなものだったかもな」
「ほとんど記憶が無くても、好きだった男の面影は覚えてたって?」
「この目で見てなきゃ絶対に信じないぜ、俺は」
 言い合う聖一の友人達は、その後で二人の兄弟を見比べてニヤリと笑った。
「それにしても兄弟って好きな子の好みまで似るものなのね」
「っ、別に俺は咲子のことなんか……っ」
「隠しても無駄だぞ、そんなに赤くなって」

 ムキになって言い返そうとした恒介の頭を軽く叩いて微笑する長兄に、恒介は何故か目頭が熱くなった。
 気を利かせるつもりなのか、久々に先生方に会おうかと教室を出て行く聖一の元同級生……、その声が遠ざかるのを聞きながら、恒介は残った兄に精一杯の強がりをぶつける。

「別に……っ、俺は咲子が辛そうだったから助けようと思っただけで……それだけなんだからな……っ!」
「……そうだな」

 答え、少年の頭を優しく撫でた。

「そういうことにしておいてやるよ」

 兄の手が優しくて、温かくて胸に染みる。
 明日からはもう会えない少女の姿が脳裏を過ぎる。

「っ…面白そうだから…っ……成仏の手伝いをしようと思っただけなんだからな……っ」

 いつしか頬を伝う熱い涙に声を奪われた少年は、ただじっと窓際の席を見つめる。

「…あの場所は、咲子の最後の席だったんだ。冬休みの前にやった席替えでさ……」

 兄の優しい声が、今は辛い。
 けれど一人にはなりたくない。
 その感情の意味を、幼い少年は正しく理解することなど出来なかったけれど、ただ思う。




 あの日の卒業生、ようやく全員が卒業を迎えられた。
 窓際一番後ろの席まで――……。
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